見出し画像

984/1096【不定期往復書簡】毒なんぞ皿ごと食ってやれ

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で984日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です

984日目。三日間にわたる、史上初の秘行の上級コース開催中であるため、自分の血中アドレナリン濃度が爆上がりしている。今日はコース開催中に肌がベタベタになるほど汗をかいた。座っているだけなのに、とんでもない汗の量だった。それほどに楽しく燃えた時間だった。

秘行の上級プロセスを修める秘行者さんが現れることは、わたしにとって夢だとか目標だとか思ったことすらないほどにまぶしいファンタジーだった。そのよもやよもやのことが現実となりつつある。そこにご奉仕できる身であることが嬉しく、喜びで汗をかいてしまう。ふうふう…!!

そんなエキサイティングな三日間の間も、この毎日投稿をしっかり更新して、この世で自分だけは「やりきったな!」と思えるようにしたい。
毎日をやりきったと思える人は、それがその人の一生になる。また明日でいいやと思う人は、また来世でいいやというのと同じなのだ。

自分はがめつく今世でやってみたいことは今世中にやりたいと思う。こんな「脱三日坊主をしてみよう」などという遊びは、今世の俺の楽しみじゃい!来世の自分に渡してたまるかいな。

そして来世には、勤勉さを兼ね備えた三日坊主という、非常にリバーシブル性の高いアビリティを備えた人物として生まれてみようと思う。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

圭吾さんの記事へのお返事です。

圭吾さん、おはようございます!素早いお返事ありがとうございました!お知らせを見て目を疑いました!もちろんこれからゆったりとお好きなペースで書いていただければ幸いなのですが、今回はこんなサプライズのブーメラン返信をいただいてめちゃくちゃ嬉しいです。ありがとうございます!

壇珠さんとの往復書簡が再開されて、とても大切なことを思い出しました。それは「これだけは書いちゃダメだよなって思うことこそ、書け」という、タブーに挑むマインドです。油断をしていると自分を綺麗に見せようとする自分が登場するのですが、魂は露出狂であるということを思い出しました。魂は綺麗に見せることを求めていません。外側に出すことを求めています。

ぬぉあああ~!きたぜェそうだったァこれだったじゃねェかァ~!!と思いました!われらのコアはこれでしたね!いつも、誰にも頼まれてなんかいないのに、勝手に先に裸になって、先に傷つき、先に血を流したいと思ってしまう愚かな俺たちでしたね!!おっしゃ~俺もちょっとなまり腐っていた気がするので、ここらでバシッと恥をさらすなり傷をさらすなりしていきたいと思います!!思い出させてくださりありがとうございます!!押忍!!

「魂は露出狂」というパワーワードが、笑いを誘われながら気合を入れられるような特殊なものに見えて、吹いたらいいのかその荘厳さに震えたら良いのか、わからないような気持ちになっております。わたしも考えてもみれば己を露出しているという実感が好きなのだと思います。魂が露出狂なら、それに従って生きる俺ももれなく露出狂ってことで、自分の存在が公序良俗に反していると感じるとき、どこかイキイキしてしまう自分を否めません。露出というのは、それそのものが別段社会の役に立つわけではないのに、なぜか露出者とそれを観る観察者の両方に、すがすがしくてウキウキしてくるような喜びをもたらす効果がありますね。「ほらァ!」「きゃぁ~大胆!」という、両者の根拠のない喜びがあります。魂は見せ合いたい。われらの往復書簡が、そんな効果をもたらす場所になってくれたらいいなと思います。

壇珠さんが「可愛いから」です!可愛いって語弊があるかもしれませんが、可愛いです!可愛いが第一位です!ぶっち切りです!そして、誤解を恐れずに書くと「生き物として面白い」とも感じております!どの部分を可愛いと感じているのかと言うと・・・いやあ、どうしても『全部』という言葉になってしまいます。参ったなあ。説明ができないなあ。全然雄だと思わないです。超女性だと思います。女らしさとかじゃない真の女です。天然の女性。健やかなる生命。最後の楽園。壇珠さんは、ファイナルファンタジーです。

どえらく意外すぎて、拝読してしばらく脈が停止しておりました。ピーーーという音が聴こえてきそうでした。自分に可愛らしさとして認識する要素を見つけてこなかったため、自分にとって可愛いというありがたき評価を受け入れるのは「実は血液型が違った」とか「実は誕生日が違った」とか、「実は両親が実の親ではなかった」レベルで保存していた設定が変わる感覚です。それから、うわ?!圭吾さんはやはりメンズなんだなあ!!と、これまでも知っていたはずのことを改めて思い知って驚きました。わたしを可愛いと表現するだなんてすごいし、もうまさしく真に男だと思いました。わたしとは「可愛い」の定義がぜんぜん違っているのだろうと思いました。

たとえば仮にもこれまでに自分が、男性に可愛らしさ的なものを見いだしていただいてきており、さらに今後もそうだとするなら…と考えてみると、なんと言いますか「自分はどうやって生きていけばいいのだろう」と一瞬途方に暮れるほどのゼロリセット感があります。もはや重力や酸素濃度と同じレベルで、自分が可愛らしさとは無縁な人物であることを前提にして生きてきているためです。なので、今後の人生を圭吾さんの言葉を鵜呑みにして生きるとなったら、その変化がわたしの人生にもたらす影響はすごいものだろうと思います。整形で顔を変え、名前も変えて他国に亡命して生きるというくらいのインパクトがあります。女子たちよ、われらが奔放に女らしさなんか忘れて過ごすとき、真の男子は可愛いと思ってくれるのだから嬉しいね。ありがたや…今やあたしゃの思い浮かべる圭吾さんの姿には後光が射しております。こんなにもどかんと男の器を見せてくださって、感謝です!!もうなんかすみません、本当にありがとうございます!生きるっていいなあ!!

黒歴史こそがその人だと思います。黒歴史がない人生なんて虚像です。「白歴史より、俺はお前の黒歴史を愛したいぜ」と思います。黒歴史を愛せる女性と一緒になりたいです。これは私がただの変態だからなのかもしれませんが、一緒に黒歴史を重ねたくなります。書きながら思ったのですが「一緒に黒歴史を重ねたい」と思える間柄は尊いですね!!あたくしは壇珠さんに勝手にそれを感じています!!黒歴史って隠そうとすると窮屈になるけれど、オープンにすればするほど自由になって解放されるものだと感じました。

この部分にとても共感します。黒歴史って、その人のナマの部分のような感じがします。覆い隠したり飾ったりしていない、その人の生々しさが出ちゃっているところ。だからこそ、その人のリアルな魅力は黒歴史で現れやすいのかも知れませんね。黒歴史にこそ、その人の魅力が、本質が、愛される要素が宿っているのだと思います。自分の歴史が黒くなった理由は、まずネジが抜けていて社会で役立たずなところ、それから相手の言葉を額面通り受け取っていいところとそうでないところの見極めがつかないところ、とにかく電車や事務などの確認の必要なことがきっちりできないし独りで移動すると迷って死ぬこと、などなどなのですが、まさにこれが生々しい自分だと思います。そしてそこをむき出して生きているというのに、圭吾さんに可愛いと言ってもらえたのだからこれは本当です。黒歴史には、人にとって大切なヒントが詰まっていますね。人間の魅力というのは、その人の黒歴史から探したほうがいいのかもしれません。

圭吾さんが一緒に黒歴史を重ねたいと思ってくださり、大変光栄です。たしかに、自分も圭吾さんと黒歴史を作ると考えてみると、とにかくなにも怖くなくて、なんなら「こいやァ!!」という気持ちになり、黒歴史に対してむしろ積極性が出てきてしまいます。だから、それはもはや黒歴史とも言えない勢いです。なぜなら、たとえ周りから見たら漆黒の歴史だとしても、自分たちにとっては面白かった時点で輝かしき白歴史と認識されるだろうからです。結局、自分で何色だと思うかということがすべてなのだと思います。

書いていて気がつきましたが、お前とは絶対に黒歴史なんか作りたくねえと感じるやつは、そいつと一緒に白歴史も作りたくありません。逆に、黒歴史を作るのすら楽しそうだと感じる圭吾さんとは、共に真っ白な白歴史を作っても超絶嬉しいだろうという気がします。もう結局、歴史の色なんかどうでもいいのでしょうね。色なんかにこだわってっからケチ臭くなるんですよね。いけねえいけねえ。一緒に歴史作りてえと思う相手なら、その歴史の色が白だろうが黒だろうが赤だろうがお花畑色だろうがどどめ色だろうが、なんだっていい。逆に、嫌なやつとは黄金色の歴史だろうともお断りです。フルカラーで歴史づくりを楽しめる間柄って、真に素晴らしいものですね!

私は昔から「管理をする」「計画を立てる」「組織に入る」ということが無理な人間でして、勝手に壇珠さんも同じ人種として括ってしまっちゃうのですが、瞬間瞬間を生きるためには管理も計画も組織もへったくれもありゃしねえ、などと思ってしまう自分がいるのです。壇珠さんはこの辺りどのように思いますか!?

まさしく自分も、「管理をする」「計画を立てる」「組織に入る」という人間社会を生きるための三種の神器を、ぜんぶもつことのできなかった側の人間です。それらのフィールドにおいて、ことごとく無得点の、ぶっちぎりの無能うんこちゃん(45歳)です。百歩譲って仕事に行こうと思って家を出たとしても、自分の足は脳の命令を聞かずに心の命令を聞いてしまう仕様となっており、職場に行かずにそのままミニ旅行に出てしまいます。脚の神経からして社会不適合者仕様です。

若かったわたしはそのような状況になるたび、たとえば電車に乗っている理由を「職場に行く」から「ミニ旅行に行く」に変更したとたん、鎖が解けたように自由になったと感じたのを覚えています。その瞬間、いきなり地球上のいかなるスポットもが目的地として設定可能な状況となり、自分を起点として職場にしかつながっていなかった線が、とつぜん無限大にどこにでもつながったのを感じました。ブラジル、マレーシア、沖縄、TSUTAYA…!!乗っているのは電車でも、気分はもはやパイレーツでした。海賊船で大海原に出たような気分になるのです。勝った。俺(船長)は、社会のつくり出す”お金を稼がないと生きられないよ幻想”に勝ったのだ。海には道なんか敷かれていねえ、舵を取るのは俺だ!そんなことを思って恍惚としつつ、同時になにかに対して恐ろしく負け犬であることを知っていて、勝利のファンファーレを聴きながら、徹底的な不戦敗感を味わっていました。

瞬間瞬間を生きることを、もしも管理をしながら、計画をしながら、組織に所属しながらやれるのだとしたら、それは素晴らしいことだと思います。でも、我らのようにそれをしながらだと難しくなってしまう人種にとっては、管理・計画・組織というのが尾崎豊にとっての学校のように不自由に感じられすぎてしまうため、それが拘束具となって、ある種のSMプレイになってしまいます。楽しめる人をすげえと思います。でも、たとえば「ああ海に行きたい!!」と思ったときにそのまま海に行けるのは最高ですが、「待てよ。今海に行っても、自由だァ!という感覚しか得られないが、ここで今やっていることを計画通りに終わらせてから海に行けば、めちゃくちゃのどが渇いたときに飲む水のように、めちゃくちゃ腹が減ったときに食べるおにぎりのように、『我慢したあと限定の喜び倍増効果』がつくぞ!」と思ってしまい、そのために管理や計画というものをこちらのいいように利用できるくらいには、自分はしたたかになりました。圭吾さんのほうがわたくしめよりも、よりずっとピュアに、尾崎度が高いのかも知れません。

人間社会は切ないです。管理や計画や組織化を、自分たちよりも上に置いて動かないと、ものごとが進まない世界です。そのために多くの人が、ちょっと我慢、ちょっと無視を続けて生きている。あるいは、それが嫌なら我々のようにはみ出しものとして生きるしかない。今の世界では、このように極端なところに行きがちですよね。

けれども、管理や計画や組織化が、必須のことではなくて、飽くまでも人間の喜びをつくりだすための単なる道具になってくれればよいのだろうと思ったりします。今は管理や計画や組織化に対して、人間が道具になっているように思います。この、極端に言うと「生きたければ奴隷化しろ」みたいな圧に対してだけは、一生屈しねえつもりで生きています。いつだって瞬間瞬間を生きたければ、管理や計画や組織化に対抗するだけでなく、これらを道具にして使って喜びを生み出せてこそなのではないかと今は思っております!

私たち日本人は『和』を重んじる民族ですが、和というのは目指すべきゴールではないと思いました。たとえ一時的には調和を乱すことになったとしても、自分が自分を思い切り生きて、自分が自分を思い切り出す。すべての人類がそれを行なったとき、結果として達成されるものが本当の調和なんじゃないのかなと思います。和が最優先事項になると、個が犠牲になります。個が犠牲になって成立する和なら、そんなものは要らないと思います。

はい!!はい!!もう、全身のパワーをこめて、破偉!!重んじられなくてはならない真の和とは、個々の中の和なのですよね。個々人の心の平和があるのなら、そうした人がたくさん集まったときには全体を丸く収めようとせずとも自然と調和するのだろうと思います。だから、個々を置いてけぼりにして、全体を丸く収めよう、長いものに巻かれてもらおう、という意図で和をなそうとしたときって、まさに本松が転倒するのだと思います。

それと同時に、どんなに調和を乱していても、それがあって「今」が成り立っているのだから、それを含めたぜんぶがあってこその「和」だよねと言える心意気も持っていたいとか思っちまいます。「和」を重んじると言って、そのために「大人しくしてろや」という強制感を放ったら、それは「和」ではないのだと思います。しかし、できることならば自分は、そんなやつに対してもさらに「今というのはそんなお前がいてこそ成り立っているのだから、お前を含む全部で和だな」と言ってそいつの毒なんか皿ごと食ってやりたいです。どこまで反抗されても、はいはい、可愛いね、と相手の攻撃を無効化する愛で包んでしまう、親のようでいられたらと思っちまいます。

ただ、そういうやつが上司だったり仕事を一緒に組む相手だったりしてどうにもならないのだとしたら、自分はそいつの和から外れ、軽やかに海賊船に乗って大海原に出ます。自分は未熟なため、貴様に巻かれるくらいなら、てめぇのことくらいてめえで巻いてやらァ!!と思ってしまうのを止められません。でも、この世って本当に、そんな人でもこうして死なずに生きていけるのですよね。陸がダメなら海があるってな感じで、この世には陸にしか生息できないと思いこんでいる人たちにはまったく見えていない、広大な世界が広がっているのだといつも思います。

自分は決死の覚悟というかゾンビ化覚悟で社会のレールから外れましたが、それはわたしに「死海に飛び込んだら死ぬのだろうと思ったら逆に浮いてしまって死ねなかった」というような最強に嬉しい思い込み破壊のサプライズをくれました。その喜びが、自分を現在のようなクソガキにしました。外れても生きられると知ったときの喜びには、あっちゃ~いいんですね?!ほんじゃお先に失礼しま~すという「いち抜けた感」と、お葬式で笑ってはいけないと思うとますます可笑しくなってしまうときのようなクソガキの笑いの素が入っていて、これはわたしが自分の人生を愛する最大の理由のひとつです。圭吾さんは、このあたりについてどんな感覚をお持ちですか。

ああ、中身のないような好き勝手な話を書いていたら、こんなに長くなってしまいました。海賊仲間の圭吾さんが少しでも楽しんでくだされば幸いです!葬式で笑いをこらえている、死海に浮いたゾンビより。愛を込めて!!


いいなと思ったら応援しよう!

菅 美智恵 (壇珠-たんじゅ-)
毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)