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1013/1096【往復書簡】好きな勘違いを選んで生きろ

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1013日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です

1013日目。コロナのワクチンを接種しに行く直前にこれを書いている。わたしはこよなく愛している地球人の公衆衛生の役に立つことや、将来の人類のためにデータ収集の対象となることが嬉しい。この身はさほど役に立つことなどないが、こういうときこそ出番だと思う。藤の花の毒を摂り続けた胡蝶しのぶに比べたら、屁でもない事だ。笑

上の段落を書いてから接種に行ってきて、わずかな肩の痛み(意識しないとわからない程度)とともに、これを執筆中。ファイザーのワクチンは、まったくコロナに罹らなくなるというわけではなく、罹りにくくなり、重篤化しにくくなるというものだけれども、ひたすらにありがたい。感謝です。

今日も感染専門医さん、救急医療に携わるお医者さん、すべての医療従事者さんに心からの感謝を申し上げます。本当に本当にありがとう。

人と、人の世界と、人類の未来を明るくありがたいものと感じながら、今日も書こう。それがどんなふうに言われても、わたしは感謝でいっぱいです。

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圭吾さんの記事へのお返事です。

ニュースなどでご存知だとは思いますが、静岡県熱海市で土砂災害が起きました。私の家がある場所が土石流の軌道上にあり、まだ安否確認ができていない状態です。私自身は東京にいたので、ボディは無傷です。

圭吾さん、おはようございます!!なんたることでしょうか…まずはなによりも、ご無事で良かったです…あたしゃ圭吾さんになにかあったら、なんと言いますかショックで真っ二つになってしまいます。しかし圭吾さんの家にどなたかいらしたのでしょうか、それが気がかりでたまりません。該当区域におられた方の無事を祈っています。どうかご無事でいてください…このあとも、こちらからもニュースを追っていきたいと思います。

自分の家が流されてしまったかもしれないと言う不安というよりは、凄惨な映像に心を痛めてしまったと言った方が正確だと思います。東日本大震災の時もそうでしたが、凄惨な映像が心に傷痕を残すことがあると思います。だから、今は必要以上にネガティブな情報には触れないでいたいと思います。しかしながら、ばっちり傷つくと同時に「まったく傷ついていない部分」があることも感じます。これはきっと強がりではないと思うのですが、心の一部は「こんなもん、全然へっちゃらだよ」と言っているのです。

悲痛な思いとは別に、まったく傷ついていない部分があるのもとてもよくわかります。その感覚は、わたしたち人類のみなに備わっているものだと思います。わたしも実家から夜逃げをするときに、頭では「大変なことになった」「こことも今夜でお別れだなんて信じられない」「覚悟もないうちにここを去るなんてあんまりだ」などと思っているにも関わらず、それらに侵食もされず、恐れず、穢れず、湖面のようにしんとした完全に冷静な部分があるのを感じていたことを覚えています。わたしたちは、思いっきり笑ったり、泣いたり、怒ったりしているときこそ、ふだんからいつもあるその無我の境地のような観察眼がより浮き彫りになって感じられるものだと思います。それは本当に勘定に囚われない部分で、まったく強がりとは関係のないものですね。わたしはこの、いつも自分に気がついている観察眼があることを、わかっているのが好きです。

その観察眼があるから、わたしは自分も、圭吾さんも、他の人も、みんなが本当の本当はちゃんと大丈夫であることを信頼できます。たとえわたしたちが自分や誰かのことを「大丈夫じゃない」と思っている最中でも、そしてもちろん助けが必要なときですら、その無条件の”大丈夫”はいつも我らとともにあり、決して消えないのがすごいですね。わたしはそのことを、わたしたちがここに遊びに来ている証拠のようなものだ、と考えるのが好きです。大丈夫の手のひらの上で、「きゃー大丈夫じゃないわー」と言っているのが、わたしたちの生きる面白みだと感じます!!

でも、だからこそ、その傷ついた自分の方を存分に大切にしてあげることが重要だと思います。根底では大丈夫だからこそ、わたしたちは遠慮なく思い切り傷つくことができてしまうので、だからそれを労うこともまた同じだけ大事なことだと思います。わたしたちはついつい、傷ついているなら傷ついている、傷ついていないなら傷ついていない、というふうにどちらかだけが成立するものだと思ってしまいますが、傷ついていて、かつ同時に大丈夫である。大丈夫でありながら、かつ同時に傷ついている。というのが本当だと思います。だから、どちらかを嘘にしなくていいと思います。そういう意味で、圭吾さんがどちらの感覚も拾い上げていることを、非常に健全で頼りがいがあると感じました。わたしも圭吾さんが大丈夫と知っていながら、また同時に胸痛みます。どうか心温まりますように…こんなときに言うのは変なのですが、いつも絶対に味方です。圭吾坊やのどんな面にも、味方です!!

黙って横にいてくれる人がいたら、実はね、みたいな感じで自分の思いを話しはじめることができます。具体的なヘルプは何もしないでも、黙って一緒にいる、同じ空間を共にする、共に存在する、共に生きるということが与える力は、相当なものがあると思います。壇珠さんとの往復書簡は、今、まさにそんなパワーを与えてくれています。静かな湖面に自分の姿を映し出している(確認している)のだと思います。

この部分が、実感を伴ってとてもよくわかります。わたしもこれまでに何度か、怖くなったりしょんぼりたり不安になったりしたときに、そのことが圭吾さんにはなんの関係もなく、圭吾さんに事情を話したわけでもないし、物理的にほぼ地球の裏側にいるし、ご連絡して慰めてもらおうとしたわけでもないのですが、「ああでも自分には圭吾しゃんがいるからな、全部なくなっても最後に圭吾しゃんがいるしな!」と思うことで、これまで何度、強気の俺に返り咲いたかわかりません。なにもせずとも、自分がどんなに落ちぶれても仲良くしてくれるだろうと思える人がいるって、すんんっっげえええありがたいことだと思います。

われらは性別も違うし、世代も違うし、そんなに長く一緒にいたこともないし、ものごとへの取り組み方も違うし、てんでバラバラだというのに、そういうこととは関係なく仲良しでいられるのはなぜだろうと考えてみました。そこでわたしは勝手に、互いのリスペクトが死なないからだろうと思いました。互いのリスペクトが死なないのはなぜだろうと考えてみると、われらは互いの不器用さや、逆にしっかりとした頑固さなどを知っていて、クソガキのままなのを知っていて、それが嘘じゃないとわかっているからだと思いました。あくまでもわたしの勝手な感覚ですが、その部分がフォーエバーにグッドフェローズだと感じられるからだと思っています!今こそ自分は、圭吾さんが災害で傷ついているときこそ、クソガキ同士でいたいと思います!!
友情は強固に、味方感も強固に、そしてそれ以外のなにもかもがいつもどおりに、生きていてくれてありがとうと伝えたいです。だってそれはまず、俺が助かるからヨゥ。こう書くと、人でなしに見えてしまうくらい身勝手な感じになってしまいますが、圭吾さんになにかあるとあたしゃが真っ二つになってしまいますので、やめてけろ、俺を傷つけないでください!!

私は、最近、個性について考えていました。個性という言葉は「みんなにはなくて自分にだけあるもの」として語られることが多いですが、そんな個性は不要なんじゃないか、そんな個性は出せば出すほど孤立を深めるだけなんじゃないのか、などと思います。みんなにはない部分を伸ばすことよりも、みんなの中にある部分を発見する力を伸ばすことの方が、ずっと大事だと思うのです。優秀になりたいとか、突き抜けたいとか、特別な存在になりたいとか、そう思えばそう思うほど、私たちは苦しくなる生き物だと思います。

あたしゃもこのことを、これまでもときどき吠えて発信してしまうくらい、同じように思っていました。なにが個性だよ、そんなもの放っておいたって隠せやしないのに、なんでわざわざそれがないことを前提にして「個性出してこ」みたいなことを言うのだろうと不思議に思うし、そのための努力を無駄だと感じます。そもそもわたしには、ひとりひとりの人が非常に個性的に見えます。逆に言うと、この惑星では強烈に個性的な地球人しか見たことがありません。全員が個性的過ぎて、「個性を求めていこう」という目標がギャグなのかと思ったりします。ほぼコメディだと思います。

他の人の意見に従ったり流されたりしなくていいよ、ということを伝えたいのであれば我慢をするな、でいいと思います。「個性を出そう」と言う必要はないように思います。なぜなら、自分の意見が完全なるオリジナルである人はいないと思うからです。どこまで個性を出そうとしても、われわれは互いに真似しあいっこをしているので、なにもかも完全にオリジナルな人はどこにもいないと思います。日本語だって昔の人が考えたもので、わたしはそれを使わせてもらっています。オリジナルの言語を使っているやつなんていないのですし、個性というものに着目するのは不思議なものだと感じます。

個性を出そうというのは、ちょっと言い方を変えてみると、みんなで「わたしは他とは違います」と言いましょう、ということだと思うのですが、寂しい話じゃねえか、とか思っちまいます。わたしはどちらかといえば人類みな兄弟だ、俺たちゃバリバリに似た者同士!!と思っているときのほうが気分がいいです。嬉しくて優しい気持ちになり、なんかこう勇気や憐れみが湧いてきますし、自分にも愛があるなあなどとひとりごちたりします。矛盾した話なのですが、俺たちゃそんな大差なんかねえのに個性個性と騒ぎ過ぎなんだよ!「個性がないんです」とか言ってるあんたも、ものっすごい個性的だぜぇ?!とか思ってしまいます。「個性を出していこう」という考えに染まるほうが、ずっと没個性な気がしてしまう天の邪鬼な俺です!!!

秘行に参加された方々がどんどん輝いていくのは、自分の体が自分の心と一致をしたからなのかな、などと勝手に想像します。自分の本当の思いを知った時、人は、輝かずにはいられない存在だと思います。そこに条件はありません。俺たち、絶対、輝ける生き物だと思います。

自分の体と心が一致したとき、人って不思議と「自分は今自分にとって正しい方に向いている、自分にとって正しくて良いことをしている」という根拠のない確証が得られるものと思います。人は自意識過剰なときに、自分の本当の思いとは離れていて、自分を手放したときにこそ逆に本当の思いがわかるものだと思います。そのときの人って、輝いていますよね!!もともとのその人の輝きが、曇りなく現れるものだと思います!!

他者に輝きを見出すとき、わたしたちは自分に輝きを見出していて、自分に輝きを見出しているとき、わたしたちは他者にも輝きを見出してしまうものだと思います。わたしは自分のことを大したことのない人物だと思っていたころ、他者に対しても同じように「すごい人なんてめったにいない」と思っていました。ところが、大したことのない自分を素晴らしいと思うようになったら、他者がそのまま大量の素晴らしい生命体たちに見えて驚いたことがあります。

自分のことを「なんてダメなんだ」と思えているとき、世界のなにもかもが、つれなくて寂しくて他人事で、すべてが自分の外側にあるものだと見えて、生きるのがつらいことに思えます。けれども、自分のことが「なんて素晴らしいんだ」と思えている時は、世界のなにもかもが、輝いて、優しくて、奇跡的で、嬉しいものに見えてきます。だから、世界のなにを見ても、自分を観ているのだとしか言いようがないと思います。こんな鏡のワールド自体がそもそも恐ろしき傑作的な劇場だと思うし、我らがたった今もそこにいるということが、非常にエキサイティングなことだと思います!!やべえ~怖いしヒヤヒヤだしみんなよくやってるしすげえぜ!!と思います!!

自信がないという人と出会ったら「そんなことはないよ。あなたは素敵な存在だよ。あなたは愛されているよ」などと優しく接するよりも、いっそのこと「お前の愚痴は聞き飽きた。弱い振りをし続けるお前の醜態は、もう、見飽きた。お前はお前に退屈しているだけだ。これから一緒に出かけよう。いまのお前をぶち壊しに行こう」と言った方がいいのだと思います。大事に扱うより、破壊する方向で扱った方がいいのだと思います。

まさに!!破壊と再生はセットですよね!!破壊を避けているかぎりは再生しないものがわれわれには確実にあります。わたしは以前オンラインサロンを運営していましたが、そこで感じたことは、破壊を避けている人は再生しないということでした。破壊を突きつけると、逃げていってしまう人がいるのです。そういう人は、優しい言葉で癒やしてくれる人を探してまた彷徨っていってしまいます。破壊に耐えられない人は、再生もできずに半殺しのままなのだということを目の当たりにしました。

わたし自身も、ともすると破壊をビビります。でも、破壊にビビっているダサい自分を放置するほうがつらすぎるため、仕方なく破壊を選びます。そんなときの自分はそんなに勇敢ではなくて、嫌な方を取らないだけ、という消極的な選び方であることがしょっちゅうです。

その「嫌な方を取らない」ことができるのは、そのダサさへの強烈なNOがあるからです。わたしゃ勝手に圭吾さんにも共通したものを感じるのですが、このダサさへの強烈なNO自体も、破壊をとおして獲得してきたもののように思うのです。自分のダサについて苦しんで、なんとかしないと息継ぎもできないくらいに自分で自分が嫌で、仕方ないから破壊方向に進んでみて、やっぱりそれにより再生した!!と思える。そういうことを繰り返してきて、NO以外ねえ!!という思いが育ったのではないかという気がします。だから、破壊力を上げるのにも、結局破壊をするしかないのだと思うのです。そしてその破壊力は同時に再生力でもあります。だから、トカゲのしっぽのような、プラナリアのような再生力が欲しい人は、再生のことばかり考えていないで一回自分のダサさを認めて、そこに自らめちゃくちゃ恥じ入ればいいんでねえか?!と思います。変なところで自分に対して面の皮が厚くて、恥じらいが失くなってるから破壊も再生もできねえのさ!と、おっかねえ和尚さんみたいな自分がいつもそう思っています!!

ポジティブな感情だけを歓迎して、ネガティブな感情を打ち消そうとすると、自然の反乱(氾濫)を喰らいます。どっちかじゃない。どっちもなんです。どっちも俺には必要なんです。幸福のために、不幸に飛び込む。極端ですが、これが俺には必要なんです。

上の話にも通ずることなのですが、あっしも「ポジティブだけ」「ゆるくて優しいのだけ」「嬉しいのだけ」と考えている人は、それによって自分が否定して見ないでいる部分の自分も、れっきとした自分なのだと思い出すのがいいと思います。ぬるま湯だけでなく、たまにゃあ熱湯と水風呂、どっちにも入ったほうが返って元気になるような気がします。

人はとても脆いものだと見ることもできますが、同時にめっっっっちゃ強いものだと思います。わたしは自分について、「俺は強ぇえ」という勘違いを持っていて、実際はさまざまな場面でへっぴり腰であるにも関わらず、「俺は強ぇえ」という勘違いを、自ら選んで採用しています。

わたしのことは、強いとも弱いとも、いいヤツとも嫌なヤツとも、優しいとも意地悪とも、どんなふうにも言えると思います。けれども、そのどれもが勝手に張っているレッテルでしかないのなら、どうせなら気分のいいやつを選んで、そう思っているのがいいと思います。

それを採用するのにも、採用し続けているのにも、結局は自分の意志が必要なことです。誰もそんな証拠を持ってきてはくれないし、誰が「強いよ」と言ってくれたって自分でそう思っていないかぎりはそう思えないので、結局の所自分でそう思うしかないのだと思います。だから、意思を強く持って、間違っていようが気にしないで、「俺は!!強ぇえんだ!!」と思う方を選んでいます。弱虫だが、それ含め強ぇえ。というふうに、自分のことを自分にとって最大に都合のいいほうに解釈しています。

これが特技になってきている自分は、圭吾さんについても勝手に、われの永遠なる味方、と解釈をしてしまっています!!ちょっ…とキモかったらすみません!!でも、せっかくの人生、正しく把握してつまらねえくらいなら、好きな勘違いをして笑って鼻提灯を膨らませて嬉しく生きたいと思います!!勝手な勘違いを、わたしは美しい祈りだと思います。そうであってくれという願いより、そうだから大丈夫だと考える、その勘違い力を祈り力だと思います!!圭吾さんは、家を失ったかも知れませんが、それを転機にすっげえものと出会います!そうであってくれと思うのではなく、その嬉しい空想を俺は真実として選びます!!今は勘違いでも、本当になったら勘違いなんかじゃなくなります。だからわたしゃの意思を使って、それを先に喜びたいと思います!!

純粋な思いについては、いつでも、嬉しい勘違いのほうを選んでいきます!!それをこの記事にめいっぱい、ぜんぶ盛りで、音速スピードの鶴にして届けます。圭吾さん、達者であっておくれ…!どうか元気の部分の火種が日毎に燃え上がりますように!!海を渡って飛んでゆけ!!おりゃああーーー!!!ビシューーー!!!!

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菅 美智恵 (壇珠-たんじゅ-)
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