義理歩兵自伝(22)
【義理歩兵自伝(1)はこちら!】
ドロン女兵は大卒浪士に町田駅まで送ってもらい、そこからバスで成田空港に向かいました。
ひとりで長距離を移動すること、ウィーンで乗り換えることなどを考えると、恐ろしくてたまりませんでした。
いくら大卒に、「大丈夫、ちゃんと乗れるから。ちゃんとヴェネツィアに着くから。簡単だよ」と言われても、急に幼子に戻ってしまったように一人になるのが不安でたまらず、自分で病的だと思うほどでした。行きの車で終始「怖い、怖い・・・・!」と言い続けました。
自分が行くのだというのに、なぜか「置いていかれる」ような不安に苛まれ、空港についてからもひどく挙動不審なままでした。
ああ、自分はなんとひどい内弁慶なんだろう。
家の中じゃドロンジョだが、一歩外に出ればこのザマだ!
結局、ひどい緊張感の中で挙動不審炸裂のままウィーン空港のあちこちでスタッフに初心者過ぎる質問をしてなんとか乗り換えを済ませ、ヴェネツィア行きのフライトに乗りました。
ドロ兵「あの、えーーーー・・・ここで乗り換えてヴェネツィアに行くのですが、荷物は一旦受け取るのですか、それともそちらで載せてくれるのですか」
眉の濃すぎるスタッフ男性「こちらで次の飛行機に乗せるので、受け取る必要はありませんよ(ニコッ)」
ドロ兵「わかりました、ありがとうございます」
眉スタ「どういたしまして(ニコッ)」
ぬおおおおおおやった、やった、やった!英語で聞いて、ちゃんと返してもらえたぞ!!すごい喜びだ!!小躍りしたいくらいだ、大卒に伝えなくては!!
空港のWi-Fiを使って、このことを大卒に書いて伝えました。
ドロ兵「乗り換え時の荷物のことを空港の人に聞いたら、通じて答えてくれた!嬉しネス!」
大卒「よかったじゃん、頑張れ!」
乗り換え後の飛行機は日本からの国際線と違って小さめで、ガタガタと揺れるために恐怖心が復活、不安なまま乗りました。外は夜で、すでに日本から遠く遠く離れたことを、窓から広がる景色の微妙な違いから感じ取れました。
祖国の島から離れ、こんな遠くに一人で来てしまった・・・見ろよ大陸の大きさを!世界は広く、なんと自分はちっぽけなんだ!
ドロン女兵は、縮こまった心に付き合いながら余裕のない状態で外を見ていました。
普段の自分はキノコをとったあとのマリオであって、実のところはこんなに小さく弱気な通常マリオなのだろう。もう少しでフライトは終わるが、着く前にキノコがわりに音楽でも聴いて元気になろう。
そう思ってiPodを取り出してイヤホンを装着し、音楽を流しはじめてから窓にもう一度目をやると、暗闇の中に、開いた口が塞がらないような、信じられない景色が見られました。
眼下には、漆黒の海の中に、鮮やかな黄色に発光する蛍をばら撒いたかのような、暖かなアンティークのランプの光を無数に乗せた船のような、神々しく幻想的な島が現れました。
これが、これが目的地のヴェネツィア・・・・・!!!
あまりの美しさに呼吸を忘れ、何もかもを忘れて目から入る情報に完全に自分を預けました。
なんという美しさだろう、・・・・宇宙の中の惑星の表面にこんな景色を創り出すなんて、人類とはなんと素晴らしい生物だろう!!!!!
一気にiPodにポタポタと落ちるほどたくさんの涙が溢れました。
言葉に尽くせぬ感激でした。
飛行機は緩やかに回転し、徐々にその島の灯りが現実的な大きさになり、、こうしてドロン女兵は恐怖のすべてを忘れ、最高の感動の中でヴェネツィアに到着しました。
到着時のこの感動値を100とすると、
残念ながら空港内で本当に迎えが来るのかが心配になって、それはいきなり50に減ってしまいました。
そしてそこからなんと1時間待たされる間にみるみる減って、
やっとあのイタ男が粗野な普段着を着て現れた時には無残にも2ほどになっており、
「チャオ、もう来てたんだ、早いね」と言われて0になりました。
なんだ貴様のその無礼な態度は、、、1時間も待ったのだぞこっちは!
イタリア男は身長はドロン女兵とほぼ同じで、「ボクサーのような肩と胸」に「メタボ腹」を組み合わせた、上半身のみでケンタウロスを達成している体型をしていました。
驚くほど目が綺麗で、39歳という年齢の割に白髪の多い、歩くと腰の両側についたパンチェッタのような脂肪と後ろに突き出た尻肉が、同時にブルブルする人でした。
ドロン女兵は歩く彼の後ろ姿を見ながら、このブルブルを本人は知らないのだろうと思いました。
ヴェネツィアの島内はカーニバルの最中で、コンサート会場のようにたくさんの若者がひしめき合っていました。そして、度肝を抜くほど美しい場所でした。その中を歩くこのメタボ・ボクサー男は異様に無表情で不機嫌で、ものすごく早足なのです。そして歩く速度が上がると、その分ブルブルのバイブも速くなるのでした。
なんだなんだなんだなんだ?どうしてこの人はこんなにも雰囲気が悪いのだ?日本で会った時とは別人のようじゃないか。
ハッ・・・ま、まさか・・・あの時会ったのはこいつの双子の兄弟かなにかじゃあるまいな・・・恐ろしい展開だ・・・・・・・・・
道の石畳、レンガ積みの目地モルタル、ドアの上の石梁の装飾。
それらに視神経がオーバーヒートしそうなほどいちいち反応して感激している私に一枚の写真を撮る時間すらもくれず、スタスタスタスタとニコリともせずに三歩先を歩いていくメタボクサー。
なんだこのイタリア人は、チョイ悪オヤジどころか、態度の悪さ極悪オヤジじゃないかよ、頭にきたぞ!
ドロ兵「日本で会った時とは別の人みたいです、楽しそうじゃなくて」
メタボクサー「え?俺はただカーニバルが嫌いなんだ」
知ったことか!じゃあカーニバルを見せようか、とか言うな!
言って連れてきたならひとつくらい立ち止まって説明しろ!
ここは~大聖堂だよ、とかなんとかあるだろう!
なぁ~にが東京案内の礼だよ。
貴様に「礼」を語る資格などない!
嫌な気持ちになりました。着いてすぐにこんな思いをするなんて、来たことが間違いだったのだろうか・・・
しっかし、カーニバルが嫌いだからといって知り合って間もない者に対してそれを露骨に表すなんて、それはこの人がそういう人だからなのか、それともイタリア人というのは全般的にこういうものなのか?
この時は、まだそのあたりが掴みきれていませんでした。
人ごみを歩きながら、建物同様に驚いて目を離せなかったのは、人々の美しさでした。
まるで、彫刻が生きて歩いているようでした。
イタリア人というのはこんなに美しいものなんだな・・・・・・
ドロン女兵は、今は自分のことを鏡で見たくない、と思えるほど自身の容姿に劣等感を抱きました。
ひたすら歩く間、無数の外国人とすれ違いました。
そのほとんどはイタリア人でしたが、英語を話す髪の赤い人、ムスリム系の人、アルメニアから流れてきたジプシー、アフリカ人、東ヨーロッパから来た者たち。ドイツ人の団体、中国人の労働者・・・・
世界は広い・・私がこれまであくせくとやってきた時間の中にも、世界にはこんな場所が存在し、これだけの人種も存在し、日々そこにたくさんの物語が生まれているのだ・・
テレビや映画の中の話ではない。日本があるのと同じ惑星の上に、これらが今も今までも存在しているのだ・・・!
短時間の間に、持っていた価値観が浮き上がっては壊れ、黙って歩きながら爆発しそうな喜びや途方に暮れるほどの無知さに気づいたりして、ドロン女兵は自身の臭気で気絶してしまうカメムシのように、自らの心に湧いてくるものにメッタメタに翻弄されました。
その後も早足歩きで島を周り、さすがにクタクタに疲れてきたところで彼は、「喉渇いた?」というので「イェシイェシ!」と返事をしました。
やっとここで、どこかで再会を祝って一杯やるなり、ちょっと食事するなりで休めるな~!・・・と思いきや、「外で食べるのはバカバカしいから俺の実家に行こう」などと、はるばる地球の裏側から来た女性に対して舐め腐ったことを言うではありませんか・・・!
バカにしないでよ!!と思いました。
坊や、一体何を教わってきたの、と。
あたしやっぱり、あたしやっぱり、帰るわね!
しかしここでそうは思っても
「後ろ姿見ないでください」と言って「サヨナラなしのお別れ」をして去る勇気もなかったドロン女兵は、山口百恵の偉大さを改めて感じながら黙って彼の実家までついていきました。
すると、なんとこのメタボクサーは、シーッ!と言って、静かに寝静まっている家の閉じてあるシャッターを、ガラ・・・ガラガラ・・・キーッ・・・ガラガラガラ・・と開けて、そぉ~っと中に入るように手招きするのです。ニンジャ、ニンジャ!などと言いながら。
に、忍者ぁ?コイツ、日本人に向かって忍者になれと言ってるのか!
お前らの思う忍者と、本場の俺らの思う忍者との差、見くびりやがって・・・・・・!
第一貴様は足音が大きすぎる!忍者ならその音を消せ!
ああ、なんてことだ、せっかく感動の涙でヴェネツィアに着いたというのに、なんで疲れた身体で「本格忍者ごっこ」なんだよ・・・・!
家の中の人が起きてきたらどうしようとヒヤヒヤしながら、そ~っと忍び足で中に入ると、そのニンジャ状態をキープしたまま彼は料理をはじめ、パスタをかき混ぜろだのオリーブをカットしろだのとヒソヒソ声で指令を下し、出来上がったトマト味のパスタを馳走しくれました。
食べながら、家の中のあれこれがとても可愛らしく家の造りにも興味深いところがあり、これらを観察できることが心から嬉しくて、一応こちらも忍者設定のままワクワクして嫌なことを忘れました。
彼はどんどんおかわりをして食べ、あと少しになってしまったところで聞いてきました。
メタボクサー「食べたい?」
ドロ兵「(いかにも食べたそうな顔で聞かれても・・・)いえいえ、どうぞ」
メタボクサー「あ、そ」
そうして躊躇なくガツガツと食べ始め、すべてを平らげたあとにあーおいしかった♡的にウィンクを放ってくる彼を見てドロン女兵は、いやお前・・・ガキか・・・!という感想を持ちました。
同時に、カーニバルに嫌な顔をしたり、レストランが嫌なら行かず、ニンジャごっこで実家に忍び込み、食べたければ食べたいだけ食べる、そういう姿に強く羨ましさを感じました。
いいなあ、日本の風土ではこんなふうに大人になるのは難しい気がする。
・・いいなあ・・・・
こんな調子で、おもてなしが異様に下手なメタボクサーは毎日の出勤時にドロン女兵を車でオフィスに連れて行き、仕事の間中オフィスで過ごさせ、たまに仕事で外回りに行くついでに観光に連れて行く、というスタイルでその「礼」とやらを見せてくれました。
ドロ女兵はメタボクサーに好感半分、ダメ出し半分のおかしな感情を持つようになりました。
彼は仕事に向かう途中でめぼしい街にドロン女兵を降ろし、仕事が終わってから迎えに来てくれました。ひとりでイタリアの、観光地ではない小さな街をいくつも散策しました。
レンガ積みをうっとりと眺めてみたり、マーシー風に窓から家の中を覗いて人が来ればサッと隠れたり、ストームシャッターの蝶番の根元の工事法を確認するために私有地に勝手に入って観察したりしました。
このようにドロン女兵は、屋外にいる間中、軽犯罪者でした。街並みはどこも美しく、実際にその目の前にいることがあんまり幸せで、軽犯罪を重ねながら、幸福に酔ってポロポロ泣いたりしました。
そして最終日の前日になって、一緒にオフィスに来てパソコンを開けてすぐにメタボクサーが青ざめた顔でやってきて、ネットでニュースを見て!日本が大変だ!と言いました。
私は彼の様子からこれはただ事ではないと思い、急いでヤフーニュースを開けました。
東日本に大地震、津波による死者数は未だ不明—
私はショックで号泣しながら震える手で大卒に連絡、メタボクサーにも親戚たちから何度も電話が入り、メタボクサーの一家も涙目で私を慰めに来ました。
可哀想に、ごめんね、ごめんね・・・・と何度も言ってくれました。
ニュース画面は日本の地震一色で、キャスターたちが叫んでいました。この惨事に、イタリア中が注目していました。
ドロン女兵は胸が痛んでほとんどパニックだったため、泣き止んでも突発的に号泣し、最後の日は何も手につきませんでした。
メタボクサーは私を心配してそばに来ては慰めてくれました。ニュースキャスターが、子供の死者は・・などというと、途端に怒って、畜生!!などとといってチャンネルを変えていました。
そしてドロン女兵に、もう今はニュースを見ちゃダメだ、これ以上ショックを受けないで。と言いました。
それを聞いてドロン女兵は、こうしてか弱い女性だとして無条件に心配されることが、生まれて初めてのような気がしました。
帰国日、メタボクサーは心配だから帰らないで様子を見て欲しいと言いました。
しかしドロン女兵は娘に一刻も早く会いたかったため、それを断りました。
ヴェネツィアから発ってウィーンまではたどり着けましたが、祈るように掲示板を見ると、日本行きは遅延、運転再開の見込みは立っていないことがわかりました。
ここでドロン女兵は、日本の大学を卒業して就職を決めたばかりで、思い出にとスペイン旅行をしてきたという優秀な若者×2に出会い、一緒に情報収集をしました。
そこで、今はこのままウィーンで待つしかないということがわかりました。
メタボクサーは何度も「状況がわかったら教えてくれ」とメールを送ってきてくれていたため、
ここで待つしかないようだと伝えると、突如バッファロー(近鉄バッファローズの意ではない)のように猛烈な勢いでメールを送ってきました。
「ミチ、戻ってくるんだ、戻ってきてくれプリーズ!!カムバーーーック、カムバーーーーック!!!」
「いいからプリーズここに戻ってくれ、そんなところにいちゃダメだ、カムバック、カムバック、カムバーーーーーーーーーーック!!!」
「君がもどるのではなく、娘を前夫に連れてきてもらいなよ、それで彼らも安全じゃないか、彼らの渡航費を俺が出すから!プリーズ、カムバック、カムバーーーーーーーック!!!!」
「聞いてくれ、危ないことをプリーズ避けてくれ、プリーズ、カムバック、カムバック、とにかくカムバーーーック!!!!」
「今から車でウィーンにいく、7時間もあれば着く、そんなところでジプシーにならないで、プリーズ待っていてくれ、前夫にフライトを探して娘と来いとメールしてくれ、頼むプリーズ!!」
「今は何をしてるんだミチ、カムバック、ミチ!ここに戻るんだミチ!また地震があったらどうするんだ、行くな、日本に行ってはダメだーーーー!!」
こうして返事をする暇もないほどに送ってくるので、初めは慌てて「大丈夫だ」と返事をしようとしましたが、見るうちにだんだん可笑しくなってきました。
そして、メタボクサーがどんなに思いやりのある人なのかを、帰るこの時になって知りました。
このことを優秀若者×2に伝えると、
「わあー、まあ女性だから心配なんすよ!一人だし、海外の空港って危ないじゃないっすか!」
「すごいですねイタリア人って、気持ちを表すのにまったく躊躇ないですね!早くお返事してあげて!」
などと言ってくれ、この時にもまた「女性扱い」をしてもらったなあ・・・!(*´ω`*)と思いました。
「とにかくこのまま日本に帰るから、心配しないで。私が帰りたいのだから!」
何度かそうメールを打ちながら、優秀若者くんたちと遅延のお詫びとして得られるサービスがないかを調べたり、様々な情報収集に挑戦して楽しみました。
即席のドロンボー一味の結成でした。
手分けをして、よし、姉さんはあのスタッフに聞いてきて、俺はあっち行ってみます、お前はあっちのカウンターで聞いてきて!などとやるうちに、「スーツのビジネスマンばかりが中に居る、彼らが商談をしながらなにか生ハムやシャンパンなどを優雅に楽しんでいる隔離された白くてクリーンでモダンで静かな部屋」があり、それは通常はビジネスクラスのチケットを持つ人のみが入ることのできる場所だが、日本行きのチケットを見せればサービスとしてそこで飲食ができるとわかった我々は、ビジネスマンたちと比べればバックパッカーにしか見えないような風体で、勇気を出して「失礼しま~~す・・・」と言いながら中に入って、そこでそれこそ微妙にニンジャ状態で静かに腹ごしらえをしました。
この情報を得たのは我々だけだったのか、他には誰もそんな人は見当たりませんでした。
我々は音を立てないようにしながらもバイキングスタイルのそこを居酒屋のように利用して海賊のように居座り、好きなだけ食べて、静かにワインをガブ飲みしたりして見事に酔っ払い、満足して出てきて、「やったったなー俺ら!」と笑って手柄を称えあいました。
フライト遅延の不安をかき消してくれる子供に返ったようなキラキラした時間で、この時間が終わるのがさみしくなりました。
結局、空港で待つうちに日本への渡航は不安定ながらも再開し、ドロン女兵はメールでメタボクサーを説得して帰国しました。
家に着いてみると、停電が起きていました。
娘はママーと言ってくっついて、小さな手で私にしがみつきました。
荷物を開けると、帰る際にメタボクサーがお土産にくれた本の間に、渡航にかかった費用が現金で挟んでありました。
メタボクサーがこっそり仕込んだものでした。
メ、メタボクサー・・・・、お前・・・!涙
そしてニュースなどから、福島の原子力発電所が原子力事故を起こし、放射性物質が漏洩していることを知りました。
これを聞いてドロン女兵は、モノを考える脳の部位が大脳辺縁系に限られたかのように低下し、いかなる博愛心をも忘れ、牙をむいて唸る野生の犬のような心で
「娘に放射能の害を与えてたまるものか・・・・!」と思いました。
頻繁に余震が起きるものの、幸いインターネットは使えたため、とりあえずこちらは無事であることをメタボクサーに伝えることができました。
すると彼は驚いたことに「今すぐ君の娘と来て!僕の家で一緒に住もう!」と言いました。
加えて、「前夫だって、いつだって会いに来ればいい、そして好きなだけいればいいよ」と・・・
新たな選択肢を得たドロン女兵にこの時湧いたのは、迷いではなく確信でした。
すべて天からお膳立てされているというような感じがしました。
行こう・・・・!娘を連れて、イタリアで生きてみよう・・・!
こんなにも優しいメタボクサーはなんと素敵で善い人だろう。
自分は彼の誕生日すら知らないが、どうせすっからかんになった身だ。
彼を信じて渡ろう・・・・・!
そして何があっても、自分は大丈夫だ。どんなこともきっと自力・他力・長州力で乗り越えられる。自信に根拠なんか要るものか・・
それに、私をお母さんに選んで生まれてくれたこの小さな子を守りたいのだ!
帰国してたった2週間後の2011年4月2日、ドロン女兵は再びイタリアへと発ちました。
娘と二人分のヴェネツィアへの片道チケットを握りしめて、成田空港で大卒浪士と過ごしたあの別れの時間を自分は生涯忘れません。
私たちは、お互いの過去のことも、未来のことも話しませんでした。
阿們・呍們の呼吸で、暗黙の了解で、娘に飛行機に乗るのはどんなに楽しいか、新しい場所はどんなに綺麗なところなのかを、紙芝居でも読むようにして一緒に話して聞かせました。
3人で食事をして、もうそろそろ行かなくてはという時になって、普段ファミレスでも出るときのように会計を済ませて、席を立ちました。この普通さが異様なほど不自然で、それによってドロン女兵はこの時の状況がとんでもなく非日常だと、どえらいことの前のカウントダウンの最中にいるのだということを、空港内の気温よりもはっきりと感じられました。
手荷物検査の直前で別れる前、きっと誰かが魔法でお互いの切なさを交換してもそれにまったく気がつかないであろうほど、同じだけ胸が詰まっているのは、顔を見なくてもわかりました。
手荷物検査のギリギリまで一緒にいて、いよいよという時になって、ドロン女兵は二人でいつも話すときのように
「じゃいね・・」と言いました。私たちは、じゃあね、のことを普段からそう言います。
大卒は、「うん・・・」と言いました。
少しの間をおいて彼は、今にも溢れ出そうな土砂を必死でせき止めているような顔で、溢れる感情を押し殺すように、用意してきたセリフを棒読みするかのような調子で、「必ず一旗揚げるから」と言いました。
今度はドロン女兵が、「うん」と言いました。
ドロン女兵は彼に拳を作って向けました。大卒浪士は黙ってそこに拳を当てました。
そうして私たちは別れました。エスカレーターを下るとき、私は小さな娘の手を握っていることが自分にとってこんなにも力を与えてくれることに改めて気がつきました。
それから、今から一人で、誰も帰ってこない家に戻る大卒浪士のことを思いました。
一緒に造っていた家は工事の途中で、彼はひとりだ。
けれど、もうそこを振り返るのはやめよう。
もう、可哀想だと、義理があると考えるのはやめよう。
彼を大丈夫だと信じよう。
自分の前提を覆す、無理やりの決意でした。可哀想で心配でたまらないけれど、子離れ出来なきゃダメだ、そう思いました。
イタリアでの生活はこんな背景のもとに始まりました。
離婚後約一ヶ月とちょっとで、イタリア人男性と同棲することになるとは、想像だにできないことでした。
3ヶ月のビザに体調を崩したことで1ヶ月分の猶予をもらい、ドロン女兵は計4ヶ月をメタボクサーと娘と一緒に暮らしました。
ただのひとりの女性として存在するための独房内での修行のような日々でした。
自分はそこで、模範囚でした。
シェンゲン協定圏外の国のものが、圏内に続けて3ヶ月以上居ることはできません。
就労ビザや永久ビザがなければ、3ヶ月でシェンゲン圏外に出て、再び戻るには圏外で最低3ヶ月待たなくてははならないのです。
ある日メタボクサーはドロン女兵とそのことについて話している時に、非常に事務的に、カプチーノならあるけど飲む?というのと何ら変わらないトーンで、「結婚すればずっと居られるけどね?」と、なんというのかイタリア人のくせに冷めたピザのような塩を入れずに茹でたパスタのような、この上なく不味くて味気ないプロポーズをため息のように放ちました。
謎だ・・・・なぜ彼はこうも、言っている内容とその雰囲気が伴わないのだろう・・・・・・ま、シャイなのだろうな、きっと!
シェンゲン協定ルールのために7月に一時帰国し、その時にイタリアで見つけた「リコリス」という不思議な味の天然菓子を大卒におみやげに持っていきました。
2月に離婚したドロン女兵は、日本の法律で6ヵ月が経過しないと再婚できないので、8月になってからメタボクサーが日本にやってきて、大卒浪士やドロン女兵の母・ホオアカに会いました。大卒浪士、ドロン女兵、娘、ホオアカ、メタボクサーという不思議なメンバーで食事をしました。ホオアカはそのことが可笑しかったようで、時々「やべなー、どうなってるんだべな!」と言って笑っていました。皆もつられて笑いました。楽しい時間でした。
しかし、この時に日本側は婚姻を受け入れませんでした。イタリアの法律では離婚した女性は1年間結婚できないそうで、市役所でイタリアの法律を優先するということで受け取りを拒否されてしまいました。両国の大使館が問題ないと言ってくれましたが、市役所の一女性職員が受け入れてくれず、結局は諦めました。
シェンゲン圏外に3ヶ月いるために、そのまま10月までの残り2ヶ月を再び大卒浪士とともに暮らし、10月の初旬にイタリアに戻ってきて、翌年の2月25日、離婚後きっかり一年後に、ドロン女兵はメタボクサーとイタリア国内で結婚しました。
以来、4年間日本に帰ることはありませんでした。その間に秘行を始め、これまでの人生で初めて自分が女性であることを受け入れ、数年のうちに夫婦仲が生まれ変わり、昨年ようやくメタボクサーのサプライズプレゼントで果たした帰国の思い出を、日本帰国記として綴りました。
4年の間に大卒浪士とリコリス菓子を日本に輸入販売しはじめ、彼は毎年、仕事のついでにこちらに来て私たちの家で数週間を一緒に過ごします。
あれから、大卒浪士は仕事をしながらひとりで少しづつ工事を続け、ドロン女兵の設計した家を完成させました。
イタリアから、叱咤激励してデザインの細部を伝え、素材などにもわがままを通してもらいました。そこは今、自画自賛してもしてもしても足りないですが、美しい撮影スタジオとして運営しはじめています。
こうして今私は、ヴェネツィアで暮らして5年目を迎えようとしています。
この間に、一度は軽度の肺炎になって咳をしすぎて肋骨を折り、もう一度はメタボクサーと喧嘩して頭にきてフォークリフト用の箱を蹴って自分の脚力が強すぎて足の甲を折って、唾液腺に腫瘍ができて術後に右側顔面麻痺になるかもしれないと言われて「事故後の北野武になる恐怖」に震えつつ摘出手術を受け、子宮の手術を2度受けて、貧血に悩まされ皮膚アレルギーに悩まされ、眼科と歯科に通い続け、書いでればキリねぇんすども、それらを通り抜けてようやく元気になりました。
夫に頼まれて独学でプログラミングを勉強して素人風ウエブサイトを作ったりフォークリフトを運転してやはりガテン系に夫を助けたり、それからやはり数え切れない程の模様替えをしたりしましたが、最近はニートに戻り、自伝を書いてばかりいました。
いよいよこの春、義父母の移動後に夫の実家への引っ越しが決まって、その際には家の大改装をすることになっています。それが決まってから自分の腕から変な音が聞こえてくるのですが、これが「腕が鳴る」という現象なのでしょう。
先月の2月の25日で、再婚後、満4年を迎えました。
その少し前に、スタジオの照明をお願いさせていただくこととなったところの素敵なスタッフ女性さんが、自伝を書いてみて欲しいと提案してくださいました。
特に大きな決意ではなく、ブログを見に来てくださるフェイスブックのお友達のためにこうして綴り始めて、今に至ります。
イタリアに渡ってからのことは、「秘行」に簡単に綴っただけだったので、またイタリア記として書いてみたいとも思います。
今でこそ、周囲が差し出してくれるものの恩恵で知らぬ間に財産を得ていたり、以前とは比にならないほど豊かに暮らせるようになりましが、イタリアに渡った時点での私には、立派な学歴も、きちんと履歴書に書ける職歴もなく、仕事もなく、実家もなく、バツイチで、車の免許も、土地も車も貯金も家も、およそ私の所有物と言えるものは何もありませんでした。
よく言えば子連れ狼、ただの流れ者でした。
ついでに、資格もなく、保険にも入っておらず、自分では貯金もしておらず、年金もありません。しかし元々何処に住んでも、出かけるときに家に鍵をかけたことすらなく、保証を気にかけることができません。
ちなみに当時の夫も、自分の家も自分の車も、掃除機も洗濯機も、まな板も包丁も持っておらず、彼との暮らしは食事用ナイフでお皿の上で野菜を切り、手や雑巾でホコリを集め、手で洗濯をするところからのスタートでした。
今度はイタリアはヴェネツィアでいきなり「おしん」になったことがおかしくて、洗濯をしながら笑ってしまいました。
それらをこなすスピードを究極のところまで極めてみようと思い、ハットリくんのように早くなったと前夫に自慢して満足する頃には、またステージが変わって次なるチャレンジが現れて、と、今まで忙しくとも子供が砂場で楽しむのと同じように遊んで過ごしてきたような気がいたします。
私にあるのは、これまでに頭から突っ込んで味わった、数々の夢中で本気で向かった経験と、それによって自然と持つようになったサバイバル力です。
自分は戦争が終わったことを知らないまま、グアム島で臨戦態勢を貫いた横井庄一陸軍軍曹だったのです。でも、それを本当に良かったと思っています。
行動の原因が思い込みだったとしても、ありがたきことにその間に身につくものは身につくので、おかげさまでサバイバル能力が磨かれました。
このサバイバル経験がもたらしてくれた最高のプレゼントは、未来は必ず予想外であると知ることができたこと、そして、それでも「大丈夫」だと体でわかることができたこと、です。
現状をひっくり返したくば、思い込みを解かなくては・・・などと言って頭の中でこねくり回していないで、目の前にあることを本気でやってみることだと知ることができました。
どんなことも、ゲームという設定で本気でやってみるのです。
クリアすると、なぜか次のステージに行くことになります。
(私の研究によれば、これ以上のダイエットはありません)
怒ってるなら本気で怒り、その気持ちを100%表すことにチャレンジしたり、ダラダラしているなら本気でダラダラし、ダラダラを極めようとするのです。
そんなことしちゃダメだとか大人げないとか、そんな判断は放っときゃあいいのですが、心にしつこく現れるときは、それもまた本気で極めてみようとするのです。しちゃダメだと思うなら絶対に表さないとか、極め方はそれぞれですが、これをしようとした途端に、驚く程冷静な自己観察の視点が現れます。
これを使うのがとても面白く非常に楽しい遊びなのですが、語ると尽きませんので、この自分が自然と身につけた「なんでも極めてみようの術」のほか、いくつかの自分に優しくし自分を楽しませるための自己満足的な秘術についても、気が向けばまた綴ってみようと思います。
長々と連載してしまいましたが、こうして私は40年をかけて自分は「大丈夫」だということを知りました。
派手にぶっ転んでやろう、それでも生きられると証明してみよう、そう思って日々の暮らしに体当たりし、今いるステージを味わい尽くして荒らし尽くしてやろうとすればするほど、なぜか私たちには、暖かな宇宙の手のひらにいるような途方もない安心感に包まれるというギフトが待っています。
だから、好きなように生きても大丈夫。
汚れっちまった悲しみを、いつか本気で笑おうや(by一世風靡)、そう思えることが今の幸せです。
明日を恐れず、想定できないサプライズを楽しみに、衝動のままにちゃらんぽらんに「自分を使い尽くして生きる力」をすべての人が持っていると信じられることに、安心と喜びを感じながら筆を置きます。いや、パソコンで書いているので筆を使っておりませんが、最後にちょっとくらいカッコつけたかったのでお許しください。
ここまで書いてくるのは、腹を割って中を見せることを恐れる自分に執拗に邪魔をされ続ける、葛藤と恐怖にまみれた、苦しい時間でした。
それを壊してなぎ倒して書き進められたのは、みなさまのくださった、ハートフルな最強の応援のおかげです。
死ぬほど嬉しかったです。
最後に、自伝を書く間に聴き続けた、この自伝のエンディングテーマに勝手に指定した曲をここにご紹介して終わりにしたいと思います。
YouTube動画「たどりついたらいつも雨降り」
歌詞があまりにぴったりだったのでロスにいる氷室さんに確認してみたところ、やはりわざわざこの自伝のために吉田拓郎氏が書いてくださったものだそうです。(笑)
これまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました。
感謝を込めて
完
【おまけ】
・義理歩兵自伝 懐かしの写真・お水編
・義理歩兵自伝 懐かしの写真・土木編
・義理歩兵自伝 廃工場ビフォーアフター
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