1055/1096【往復書簡】自分にしかできないことよりも、人間にしかできないことをしよう
吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1055日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です
1055日目。しつこく、今だしつこく、55という数字を見るとゴジラこと元巨人軍の強打者・松井秀喜氏を思い出してしまう。わたしは松井氏が好きだった。最も好きな野球選手のうちのひとりだ。
顔が好き、体型が好き、佇まいが好き、話し方が好き、フォームが好き、活躍が好き、スランプすらも好きだった。ぜんぶがかっこよかった。
考えてみれば、数字を見ただけで思い出すスポーツ選手は長嶋茂雄氏とゴジラ松井だけだ。一度心に焼き付いた数字は忘れにくい。きっとわたしの心に、1096という数字が生涯に渡って、いや永久に、不滅なのだろう。
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圭吾さんの記事へのお返事です。
圭吾さん、おはようございます!!ヴェネツィアは猛暑です。修理と掃除をしてきれいになったエアコンで冷房をかけているというのに、それでも汗が吹き出てきます。昨日は夕飯時になって気温が落ちてもまだ35度あって、死なないことが自分の目下の目標となっております!!南イタリアの方ではマフィアが山火事を起こして焼け野原をつくり、その土地をお金にするという錬金術を使うのだそうですが、このところそのマフィア山火事が頻発しており、それで熱された大気が北イタリアにまで届いているのがこの猛暑の原因だといううわさがあるようです。もしもそうなら、ここはゴッドファーザー的な理由による猛暑に見舞われております!!ドン・コルレオーネに焼かれております!!
わたしはオンラインゲームを通じて知り合った友達があちこちにいます。たとえばシンガポールの人やクロアチア人やドバイに住でいるアメリカ人などです。まったく気温の違うところにいる人と話していると良い刺激になります。わたしは猛暑の中にいるのに、誰かに「今日はちょっと涼しいから長袖を着ているよ」などと言われると、互いに丸い天体の上で過ごしていることがひしひしと感じられます。日頃から惑星に乗って生きていることを意識すると、視野が広くなって好きです。
ちょっとした同調圧力などに押しつぶされずにいるためには、その狭いコミュニティがすべてだという感覚に陥らないことが大事なのだと思います。そのコミュニティの常識だけを信じてしまうと、他に選択肢がないように見えて、つい嫌々ながらにもそれに負けてしまうのだと思います。そういうときは我らが天体の上に存在していることを思い出すとよいのだと思います。日本が暑いときにも寒いところがあり、わたしがマフィア熱に焼かれている間にそろそろ長袖を着はじめる人もいます。世の中にはいろんな状態の人がいることを知るのは良いことだと思います。さまざまな価値観を持った人、自分には考えられないような判断をする人、まったく違う常識にいる人、自分の思いも寄らないような選択肢を持った人たちが今日も生きていることをいつも視野に入れていると、ものを見る目が広がります。いろんな人がいるからな、いろんな考え方があるしな、自分の判断以外にもいい考えがたくさんあるだろうな、地球人は個体の数だけ別の知恵を持ってるんだぜと思えると、柔軟になって肝が据わってきます。自分の考えを尊大で絶対だと思うよりも、そんなものはちっぽけだと知るほうが心強い。わたしは自分の判断なんてクソみたいなことがしょっちゅうあると知っているのが好きです。実際間違いだらけです。だからやり直すことが前提になっていて、失敗してもショックを受けなくて、他者を頼るべきだとわかっている方が心強いです。
だから、われわれ人類は互いに遠く離れた場所でまったく違う経験をしていて、われらが互いの状態をシェアするだけで誰かの助けになっていることがたくさんあるのだと思ったりしておる今日このごろです!シェアして発信して、知らせて分けて、俺達が一丸となってやりゃあいいと思います!!
毎日サンローランを抱きしめたり撫でたり話しかけたりしている俺です!!物質にはそれぞれのバイブスがあると思うので、微妙なものを持っていると微妙な空気感が蔓延をすると思います。逆に、微妙なものを断捨離すると結果的に大事なものの視聴率が爆上がりするので、どんどんいい感じになるのだと思います。
毎日サンローランを抱きしめたり撫でたり話しかけたりしている俺です、というところで微笑ましさと可愛さで超絶萌えました。可愛くてヤバいです!
これはわたしの個人的な感覚なのですが、男性はものを愛し、愛でて可愛がり、手入れをして大切にするのに向いた性だと思います。対する女性は、コロコロ気を変えて飽きたものに見向きもしないのに向いた性だと思います。男性は一度愛したものを生涯愛するようなところがあると思います。初恋の人、好きだった恋人との思い出、子どものころに好きだったアニメ、大事にしていた野球ボール、ギター、大切に乗った車。そんな男性が好きです。
でもわたしにはそういうところがあまり備わっていなくて、一度どうでも良くなったり飽きたりしたものはもう霧の彼方に忘れ去りがちです。ああ、そういえばそんなのあったね。という感じです。大事だったものが嫌いになったわけではなく、ただ熱だけが冷めます。女心の変わりようときたら、秋の空よりもつるべ落としです。自分のこの性(さが)を昔は悩みましたが、今はこれぞ女性の良さだと思うようになりました。子どもはなにかに夢中になっていても、他に気になるものを見かけるとそれまで触っていたものをぽんと放り出して新しいものにパッと飛びつきます。そんなところが無邪気で可愛いのだと思いますが、ここで子どもが遠慮して我慢したり、今まで触っていたものがあるんだからそれを手放すのもどうかと思うし…と思慮深くやり始めたら、輝きとうるおいがどこかに行ってしまいます。わたしは女性にも同じようなことが言えるのだと思います。
いつも潤っていたい女性は、「忘れない」だとか「ずっと待ってる」だとか「今もあの頃のように」だとかいう嘘を言わないほうがいいのだと思います。嘘は女を枯れさせます。女性の不変を美化するカルチャーをなにも考えないで信望すると、女性が男性化してしまいます。女性は飽きたものは飽きた、冷めたものは冷めた、忘れたものは忘れたと認めないと、潤いを失うような気がします。潤いとは水です。水はずっと溜めておくと腐るし蒸発してなくなります。趣味やモノや人間関係や思い出に対する思いが本当に変わらないのならいいですが、自分に嘘をついていつまでも変わらない一途な女のふりをしていると、なにかが濁って乾くような気がします。一途一徹なのは男性のほうで、女性が一徹でいなくていいように思います。蝶はひらひらと無計画に気ままに飛ぶから蝶らしくて素敵なのであって、蝶が慎重になって最短距離で移動するように直線的に飛んでいたら、蛾に見えると思います。
金持ちを汚いとか狡いとか搾取をしていると文句を言う人はたくさんいますが、彼らは、相当なことをやってきている。とことんまで勝負をかけたり、見せていないだけでとんでもない努力をしていたり、みんなが遊んでいる時に自分だけは仕事や勉強にかじりついていたり、とにかく「普通」を犠牲にしながら得た報酬が現在の地位なのだと思います。私は、そこに敬意を払いたい。自分からは何もしようとしないで、誰かから何かをしてもらうことを待ってばかりいる人は、ものすごい乱暴な言葉になってしまいますが「お前はそのまま死になさい」と思います。世の中はどんどんどんどん表面的な優しさに溢れて来ていますが、多分、このままではどんどん地球が腑抜けになります。私は、私が守りたいと思う種を守りたいと思います。私は、強くなろうとしている人、強くあるために一生懸命生きている人を守りたいと思います。弱い人にかける言葉は「這い上がってこい」の一択です。これは、何を隠そう、自分が自分自身に常々言い聞かせている言葉です。弱者が生きる道は、這い上がるか、死か、どっちかだと思います。誰もお前のことなんて助けてくれないんだぜと、はっきり言った方が本領を発揮すると思います。
わたしも、普通でいることなどに見向きもしなかった人に普通でない人生があって当然だと思います。ちょっと話題がずれてしまいますが、わたしは小さなころから、普通になろう、みんなと同じになろうと一生懸命でした。しかし、普通というのは目指しても少しも楽しくないうえに、少しもうまくいきませんでした。それでもそのまま大人になるまでずっと、普通を目指しては挫折するという経験を積んでしまいました。なぜみんなのようにやれないんだ、という責め言葉を受け止めてどうにかこうにか「普通」を目指して改善しようとしても、なにも変化しませんでした。そもそもそんなものは改善とは呼ばないのですが、なんとかして社会に溶け込まなくてはならないと思っていたのでした。
「普通」や「同じ」を目指してもくそ面白くもありません。みんなに合わせる。ひとりだけ飛び抜けない。こうした抑圧を努力とは言わないのだと思います。努力とは目標や結果や能力を伸ばすためにつとめることであって、単なる我慢とは異質なものです。普通ごっこはただの我慢の強要です。だから、早々に普通ごっこを抜けたものは強いです。抑圧の下から抜けて自分を伸ばした人はデキる。わたしも突き抜けた努力やギリギリの賭けに出ることで得たものを身に着けた、出る杭に敬意を払いたいと思っています。
わたしは、頑張れない人もいる、弱い人もいる、努力の嫌いな人もいる、だから頑張れる人や強い人や努力できる人を評価するなという考えかたが好きではありません。強者は弱者の劣等感を刺激し傷つける存在だ、だから強者が弱者のフリをしろ、というのは嫌いです。誰にも楽しみや達成感や喜びをもたらさない、なんともさみしく救いのない話だと思うのです。
強い人と弱い人とがいるとき、強い人は弱い人のおかげで存在できて、弱い人は強い人のおかげで存在できるということを忘れないでいれば、そんな意味のない冷たい優しさを強要する必要なんてなくなるのだと思います。この世はどんなものもバランスだから、頑張れる人は頑張れない人がいなければ存在し得ないし、頑張れない人も頑張る人がいることではじめて存在し得るので、そこには優劣もへったくれもないと思います。だから、くだらねえ優劣思想なんか捨てちまって、互いに強いまま弱いままでリスペクトし合えばいい気がします。強さを平均化して見せる必要なんてないと思います。
圭吾さんのおっしゃるとおり、弱者には味方がつきますが、強者に対して「強いなら孤独でいい」「強いなら搾取されろ」「強いなら味方は要らない」「強いなら尽くせ」「強いなら耐えろ」という世界では、強者の味方がいません。わたしも強いものは強くあっていいし、強いまま愛されて良いと思います。強者が強者であることに、遠慮はいらないと思います。そして彼らにも愛をもつべきだと思います。弱者の気持ちだけが大切なのではないし、弱者のために競争の楽しみまで廃してはいけないと思います。足の遅い子がいるから、足の速い子も走るな。こんなのは表面上の偽物の優しさではないでしょうか。結局これによって誰が成長し、誰が喜ぶのでしょうか。これによる満足は本当に健全なものでしょうか。速い子は走りたいだけ速く走ればいい。そしてその強さや努力は称賛されていいと思います。
かくいうわたし自身は、よく、頻繁に?というかかなりの人から、ぶっちゃけほとんどの人から、強いと思われています。ですが、実際の自分は強者になろうとしている弱者です。強者に憧れ強者になろうとし、その努力を修行と称して楽しんでいるのですが、なにしろ弱者の才能にあふれています。弱者でいる天賦の才があります。一種の天才です。だから、表面的に強者と判断されて「孤独で大丈夫」「搾取されて大丈夫」「味方は要らないはず」「尽くせ」「耐えろ」と思われると、死ぬ可能性があります。
しかしわたしにはすごい価値があります。それは、強者を存在させているという存在価値です。わたしはわれら人類の強者を誇り、それとおなじだけ自分を誇らしいと考える、図々しい弱者です。幸せな弱者です。強者は弱者を守り、弱者は強者を誇るほうが幸せだと思います。
世間的な慰めの言葉のひとつに「あなたはそのままでいいよ」というものがあります。人によってそこに込められた意味は様々だと思いますが、私は、極端な話ではありますが「そのままでいいわけがないだろ」と思います。外側から与えられた安心は一時的な慰めをもたらしますが、ある程度の時間が経てば、必ずまた同じ場所に戻って来ます。その度に「そのままでいいよ」と誰かに言ってもらう必要があるだなんて、しち面倒臭い話だと思います。そのままでいいという言葉は、新陳代謝を前提としていると思います。それは、言い換えるならば「これまでも変わり続けて来たように、これからも変わり続けていくこと」なのだと思います。
そのままでいいというのは、他者から言われても知識として得られるだけで、自分で自分に言えたときに初めて効力を発揮するものだと思います。
たとえば誰かが大変な思いをしている時に、他人から「あなたよりもっと大変な思いをしている人がいるのよ」と言われたとしても反発心しか生まれませんが、自ら「世には自分よりももっと大変な人がいる!」と思うと力になります。他人が言うと、本人の思いを否定していることになるからだと思います。これと同じように、「そのままでいい」というのも、他人から言われれば反発を生むものと思います。いや良くなんかないし!と思ってしまいます。あるいは、自分ではそうは思えないけど自分より正しそうな人が言っているんだからきっとこんなわたしでいいんだ…というふうに依存してしまいます。しかし、「このままでいい」というのもやはり、自らそう思ったときにしか効力はありません。そしてその効力には超絶すごいものがあります。だから、誰かに言ってもらっていてはダメです。誰かがそう言っているのを聴いて、自らそう思おうとしてみなくてはならないのだと思います。
そのままでいい、というのは変化しないことを意味しているのではないし、今の環境や自分を気に入ることを意味しているのでもないのに、そこが誤解されがちですね。そのままでいいというのは、今の自分が嫌いだったり今の環境がなにかしら問題があるのだとしても、それそのままで完璧だということだと思います。誰にでもその人にピッタリ合った現実が展開されているからです。そのままでいい、というのは単なる癒やしの言葉のように見えますが、そうではなくて「現実をまるごとそのまま、ぜんぶそれでいいと考えてみろ」ということなのだと思います。自分や自分を取り巻く環境に不平不満のある人は、自ら「このままでいい」と思おうとしてみればその難しさがわかるはずです。自分で自分に「このままでいい」と言うのは、誰かに言ってもらうのとはワケが違います。甘んじて受け入れるべきことをそのまま受け入れ、当たり前だと思っていることにありがたみを発見することでしか、自分に「そのままでいい」と言うことはできません。これはとてもいいチャレンジだと思います。発想を転換する、心の知恵の輪のようなものですね。
自分にいいことが起きた時、これまでの苦労がまるごと報われたような瞬間のど真ん中にいる時、自分に対して「よかったね」と心の底から思うことができます。自分に対して言っているのですが、どこか、自分以外の大切な存在に言っている感覚があります。自分が自分を信用する、自分が自分の友達になる、自分が自分と絆を結ぶということは、こういう瞬間にあるのだと思います。俺だけはお前を見ていたぜ、と、世間的な評価ではなく絶対的な価値として、自分を認められるのだと思います。
わたしは自分とこの世界を歩むのが好きです。そんなわたしは、たとい他の人になったとしても、やはりこの世界を歩むのが好きだと思います。わたしはその、「この世界を歩むのが好きだ」という感覚を、自分の特徴に依存して持っているわけではないからです。別に壇珠さんだからこの世を好きだと思うわけではないので、自分が壇珠さんだろうと他の人だろうと、この世界を歩むのが好きだと思います。生きることを楽しむために、自分を好きになる努力をした覚えはありません。自分のことなんてあれこれ嫌いですが、この世界を好きなのは、そことは関係のないことだと思います。スーパーマリオブラザーズをプレイして楽しむために、マリオ自体を好きになる努力はいらないと思います。プレイを楽しめばいいと思います。
逆に言えば、今自分に不平不満を持っている人は、ああなったら、こうなったら、この人みたいだったら不平不満がなくなるだろう、と思っているのかも知れませんが、誰になったとしても同じです。今不満がある人は、未来でも不満を持ちます。今に不満がある人は、過去にも不満があります。自分に不満がある人は、どんな自分になっても不満があります。自分に満足している人は、どんな自分になったとしても満足します。今が幸せな人は、どんな環境に置かれても幸せを見い出します。幸福は相対的なものではなく絶対的なものだから、たら、れば、が通用しません。ああなったら幸せ、こうなれば幸せ、が通用しません。
だからもう、いきなり今の自分を幸せ者としてしまう。とりあえずそういうことにする。仮免許でいいので公道に出る。幸せ者として行動する。こんなんで幸せと決めちゃう。こんなんだけどこれで図々しくOKにしちゃおう。不満バリバリだから改善しながら、そんな活動ごと幸せとしちゃおう。人生を良くしようという努力をしつつ、努力自体を幸せとしちゃおう。自分に嫌なところがいっぱいあっても嫌なやつがいっぱいいても、それで幸せとしちゃおう。この不幸な感じごと幸せとしちゃおう。辛くたって幸せとしちゃおう。なんだとしても幸せということにしちゃおう。いいこともあるんだから不幸と決めるのはやめよう。自分は幸せだと決めたら、誰がなんと言おうと幸せだ。ええい幸せだっつってんだろう!!でいいと思います。幸せの基準は人それぞれだ、だから正解はないと言われますが、あえて正解を言うならそれは「今の自分」です。いつだって今の自分がそのまま幸せの基準です。
とてもじゃないがそう思うのは無理です!!という人は自分に負けている。今の自分を幸せの基準にしてみてこそ、ひっくり返るものがあります。そこを変態的にやっちゃうのがコツです。幸せだと思えない~~じゃなくて、今を幸せと仮定した場合、ならばどこが幸せなのかを挙げてみること。そこに変態的にしつこく思いを巡らせ反復すること。歩ける、手が動く、目が見える、今日も起きた、一応飯食えた、なんでもいいから無理くり「自分は幸せだ(仮)」を真実ということにしてしまうこと。幸せの状況証拠を挙げまくること。白を黒にしてまで、己の中の幸せ裁判で勝訴を目指すこと。幸福の無期懲役を勝ち取ろうとすること。するとやがて、バチンと何かが弾けたようにすべての点と点がつながって、これまで見えていなかった一枚絵がバラリと目の前に展開します。これまでもずっと目の前にあったのに、見えていなかった、見ようとしていなかった、見るすべを知らなかった絵が。その絵のタイトルは「幸福」で、そこには今の自分の現実がそのまま写実してあります。それが見えた人の幸福は、もう揺らぐことがないのだと思います!!
最近、許しについて考えさせられる出来事がありました。お会いする方々から「どうすれば自信を持てますか」とか「沈黙が怖いのだがどうすればいいか」みたいなことを聞かれるのですが、それって、根本的にはここにいちゃいけないって思いがその人にあるからなんじゃないかなと思いました。ここにいてもいいに決まっているからこうして話をしているのに、話している間も「本当に大丈夫ですか?」と、ずっと許可を求められているような感覚になり、イラッとしてしまうのです。乱暴な言葉になるのですが「いいっつってんだろ」と思います。何かをしてはじめてそこにいることが許可されるなんてなくて、それって「何かをしなきゃここにいちゃいけない、という場所からは離れなくちゃいけない」だと思うのです。
わたしの質問箱への質問にも、ユーチューブで著名人が質問に答えているのを見ても、ほんとうに「苦手な人とうまく話すにはどうしたらいいか」「誰とでも楽しく接するにはどうしたらいいのか」「自信を持ちたいがどうすればいいか」「友達を作るのにはどうすればいいのか」という質問をする人が多く、同じ悩みを持った人がたくさんいるのだろうと思います。
わたしは、悪く言えば「みんな高望みをするんだな」と思ってしまいます。そんなに誰とでもどんなどきも平等に、機嫌よく、立派に話ができて、話が常に立派で面白く、苦手な人もひとりもいなく、誰とでも常に楽しくいられて、いつだって自信を持っていて、皆に愛され友達も多い人になりたいだなんて、目標が高すぎやしないかと思ってしまいます。それができない自分はだめだと思っている人が多いのですが、もしも本当にそれができたとしたら、将来その人の顔はお札に刷られると思います。聖徳太子とか観世音菩薩がライバルなのかも知れませんが、そんなに悩むくらいなら目標が間違っているのだと思うのです。常に楽しいところに目標を置いてこそ、挑戦が面白くなるのだと思います。
わたしは、いいじゃん、友達少なくて。いいじゃん、苦手な人がいて。と思ってしまいます。うまく話せなくていいじゃん。自信なんかなくていいじゃん。それがないとなんだっつーんだよ。と思ってしまいます。立派な人になるのではなくて、立派でない自分にも味方をして、愛し、ねぎらい、許すのが先ではないのか!と思ってしまいます。するときっと、他者と接するのも不思議と苦痛に思えなくなってくるものなのだと思います。自分に駄目出しをしているから、自分に冷たいから、ちょっとした沈黙すらも苦しいのだと思います。まずは自分と親友になれ。話はそれからだ。と思います!!
今日も人間であること自体が非常に面白く感じられます。ちょっと変なのですが、否…わたしにとっては真っ当で自然な感覚なのですが、わたしは今日も「わ~今日も人間をやれているんだなぁ俺~!」と思っています。物理的な法則のもとで知的生命体でいることは、この宇宙で最高の遊び、最高の娯楽のうちのひとつだと思います。また今日もこの惑星で人間をやれましたが、いやはや高度です。高度な遊びです。この天体上で、しかも人間だからこそやれることをしていると、ただもう無性に嬉しくなってしまいます。
わたしは、「自分にしかできないこと」なんて考えなくていいから、「人間にしかできないこと」をするほうが良いのだと思います。自分だけが目立ったり個性を発揮したり自分が主役になって得することばかりを考えると、すぐになぜ自分はダメなのだろうという気持ちになります。けれども、人間であることを謳歌して、人間にしかできないことをしようとすると、人はついその人らしさを発揮してしまうものだと思います。人間は言葉を使います。絵を描きます。音楽を愛します。笑います。泣きます。感謝を表します。二本の脚で歩いて、写真を撮って、文を書いて曲を紡いで詩を綴って表現して感動します。人間は、一旦怒りを抑え、違いを理解し、他を思いやり、噛みつかず、自分を鎮めることができます。そして人間は、夢を抱き、神を愛し、祈ります。それらを通して、人間であることそのものを謳歌しよう!と思うと、自然とそこにその人だけのなにかが現れます。神さまがそれを見て、きっと親指を立てているからだと思います。
今日も、自分が人間だから圭吾さんとやりとりできているんだな…と思いながらこれを書きました。人間で良かったです。生命があって人間であれば、表現だけはとにかくなんとかなります。今日もそれができてよかったっス。人間となり、こうして今日ヴェネツィアからかの坂爪圭吾さんに自分の表現を届けられることに、急に「いや、やばくない?」「すごいことすぎない?!」と思ってヒヤッとすることがあります。宇宙ができて100億年経ってから地球ができ、そこから46億年経って地球上に今の世界ができて、わたしや圭吾さんや読者さんやらが誕生してこの場がありますが、それらのすべてがないとわたしがこれを書いていないことに打ち震えながら送信します!!今の何もかもが宇宙の歴史とともに作った一度きりの奇跡だと思うと、これを書いたのが自分なのか宇宙なのかわからんくなりますね!!宇宙の作品よ、届け!!ゴーストライターは壇珠でした!またのお返事を楽しみにしています!!3、2、1、ユニバーサル・スマーーーーッシュ!!