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808/1096 争わずに、怒る

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で808日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

808日目。808、で八百屋さんを思う日だ…!わたしは畑の世話が好きで、庭付きの借家に住んでいた頃は、結局庭を全面耕して野菜や花やハーブを育てたものだった。八百屋さんを思うと、そのことを連想する。

なにかをコツコツとやることが、実は自分にとってなによりも楽しいことだったのかも知れない。継続が何より苦手だと思っていたけれども、その思い込みがあったがために、すべての事象をそれに合わせて歪めて見ていたのだ。

そういえばわたしは畑の世話を借家にいた8年間と、引っ越したあとの数年間も続けていたのだった。パソコンを使うことは約20年も、ゲームだって35年はやっている。続けやすいものであれば、本来継続自体にひとつも苦は伴わないものだ。

ただ、続けたいことなのにちょっと大変なことがあるとやめてしまう、というのが自分で嫌だった。そこを体験的にひっくり返すのに、毎日投稿はぴったりだったと思う。書くことは好きだけれども、毎日となると日によってはえらく大変だったり勇気が必要だったりするから。

今日も書けてよかった。生きていないと書けないから、継続というのはとても贅沢なことなのだと思う。本当はいつ死ぬかわからないから刹那的に生きたっていいのに、継続ができるなんて嬉しいことだ。。

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みなさんは、ご自分のことを意気地なしだと思うことってありますか。わたしは己が意気地なしで悔しく、自分を恥じることがこれまでの人生で何度もありました。

わたしは、大抵のことは笑って済ませたいのです。大抵のことは、大したことじゃないからです。まあ、こんな日もあるさ、こんなこともあるさ、あの人にも事情があるさ、と思うのが好きです。するとなんだか、心に優しい春風が吹いてきます。季節感なくてごめん、(笑)

でも、これは人として違うんじゃないかと思うときには、笑って済ませてはならないと思うのです。和尚さんみたいに怒らなくちゃいけないことってあると思います。そういうときにタジタジして流してしまうと、自分は意気地なしだ、なんと情けないことだろう…と、悔しく思います。

どういうときに笑って済ませてはならないと思うかと言うと、たとえば自分や自分の大切に思う人や、女性や男性や有色人種や、その他バカにされる筋合いのない人たちがバカにされた時などです。

子どもにだってこういうことは起こりますよね。わたしが子どものころ、親や祖父祖母をバカにされるとものすごく傷ついたし、怒り心頭になったものでした。一度、家族ごとバカにされてひどいことを言われたときに、「うるさい!この鼻つぶれ!!」と言い返したことがあります。もちろんこれでは目くそ鼻くそですよね…典型的な悪い反論の例でお恥ずかしいのですが、それでもなにも言えずにヘラヘラしていたときよりもずっと、スカッと気分が良かったのを覚えています。

今も、例えばイタリアに住んでいると、アジア人への差別を目の当たりにすることがあります。それから女性でいる限り、あらゆる場所で差別を目の当たりにします。

他にも、何事もなかったようにして流してはならないことってあると思います。娘について先生がひどく偏見を持って悪く言ったりしたときにも、悪りぃけんど静かに怒らせてもらいました。おふざけんじゃねえでございます。

こういうときに、ヘラヘラしていてはいけないと思うのです。怒るときに怒らなくちゃダメです。「怒らない」のと「怒れない」のとは違いますよね。

子どもの頃から意気地なしを何度も恥じたことのあるわたしは、近年になって、争わなくても怒りを伝えられることを実践的に知りました。

以前にも書いたことがありましたが、ドイツ旅行の帰りにイタリア国内で深夜のマクドナルドに立ち寄ったことがありました。夫は運転疲れで車で目を閉じていたいと言うので、わたしと娘だけで店に入りました。店内には10代の意気がった男の子たちがいて騒いでいたのですが、わたしたちが入ると彼らはこちらをジロジロと見て笑ったりしはじめ、しまいにわたしたちの横の席にいる二人が「中国人は国に帰れ」などとこちらに向かって言いはじめたのです。

娘は悲痛な思いを顔に出さないようにして、知らんぷりしていました。これまで何度もこういう目に遭ったことがあって、そのたびにどうしようもなくて黙ってきたのだと思うのです。わたしはむかっ腹が立って、「あぁ?何だとてめえ、今なんて言いやがった」と言って胸ぐらを掴んで喧嘩を売りたかったのですが、さすがにそういうわけにもいかず…イタリア語が流暢でないのもあって、話で解決することができません。かといってここで黙っているのも間違っています。そこでわたしに神の啓示による(笑)思いつきがありました。わたしはおもむろにスマホを取り出して、怒りを抑えて恐ろしき真顔を作り、くるっと真後ろの座席の方を向いて、ポチッと画面を押したふりをして彼らにスマホを向けたままにしました。上まぶたはまっすぐ真横一直線、口も真横一直線に結んで、無表情なままじっとスマホを向けていました。

すると彼らは撮影されていると思ったのか、目をまんまるにして血の気が引いたような顔をして口をつぐんでしまいました。撮影され、親や学校に見せられると思ったのでしょうか。いずれにせよ、悪いことを言っているとわかっているからですね。わたしはそのまま数秒間スマホを向けてから、撮影を終えたふりをして黙って前を向き直しました。言葉の争いも暴力も使っていませんが、お灸を据えてあげられたと思います。娘はわたしの行動を見てものすごく驚いていました。

このとき、相手が間違っていて、しかし言葉に頼れなかったり争っても仕方がないときにだって、「黙って見て、あとは相手任せにすればいい」のだと強く思いました。逃げて見ないのは意気地なしです。かといって争ってもいけないようなときには、黙って見ればいいのです。

また、コロナが北イタリアで爆発的に蔓延し始めたある日のこと、デパート内で夫と離れて買い物をしている最中に、家族と一緒に買物をしている小学生くらいの男の子に「中国人だ!中国人め、なんでここにいるんだ!」と思い切り叫ばれたことがありました。

そのときにも、黙って真顔でそちらに向かって近寄っていき、じーっとその子の目と家族を見つめることにしました。彼らはこちらに顔を向けられず、わたしとは目を合わせずにそのまま移動していきました。悪いことを言っているとわかっているので、そばで見つめられると、いたたまれないのでしょうね。こちらからなにも言わずとも、黙って見つめていれば、相手は自分の言ったことが自分に跳ね返ってきて自分を傷つけるのを体験するのです。

こういうときに、聞こえていないふりをしてはいけません。
「聞こえていますよ。聴きましたよ。あなたを見ていますよ」という思いをこめて見つめる。わかっていて、かつ黙って見ているのだということが、相手にわかるようにすることが大切です。同じ土俵で争わなくても、こちらが責めなくとも、じっと見つめると相手は自分で自分を責め、自分で恥じ入るのです。

わたしはこうしたことをいくつか体験して、「これは相手の罪悪感を信頼した行動なのだな!」と自分で気が付きました。相手だって人だもの、ちゃんと良心があります。それを信じている人にまっすぐに見つめられたら、どうしてもそれを意識せざるを得ないのだと思うのです。

わたしは人類全員に、もれなく良心が備わっていると思います。人類総善人説を勝手に採用しています。ただたまに、良心がちょっと仮眠していたり、良心を感じると辛かったり、または心の奥深くで眠ってしまっている人がいるだけ。だからこちらが真に相手の良心を見つめると、相手もそうせざるを得ないのです。

「お主よ。そんな嫌なことをしちゃっているけれども、それはバカだろう?本当は善人なのに、なにを意気がって悪ぶっちゃってんだい?アホさらすのもいい加減にして、そんなにすねてこじらせていないで、素直に善人になっちゃいなよ…ワルいとカッコいいと思ってるのかよ、ケツの青い野郎だな」と思って、見つめる。(※一例ですw)

怒らなくちゃいけない場面に遭遇したときこそ、相手の良心を信じる自分を発動するのが大切なのだなと思います。

わたしたちは、ぎゃーぎゃーと言い争わなくても、ときには黙ったままでも正しき行動に出られます。怒らなくちゃいけないときには、相手の善良さを心から信じて、「おや?あなたの素晴らしい良心をお忘れですか?」という目で見てあげましょう。ときには相手が勝手に恥じ入って、ケツをまくって逃げていくのを見られますよ。(笑)

というわけで今日は、意気地無しは自分も傷つくのでダメですよ、怒るべきときに、相手の良心を信じて、争わずともやれることをしましょう!というお誘いのシェアでありました。どなたかの参考になりますように。

それではまた、明日ね。


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菅 美智恵 (壇珠-たんじゅ-)
毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)