裏山 LOST WORLD
僕が幼少、少年期を暮らした山あいの小さな住宅地には、
造成途中で放り出されたままの荒れた山が隣接していた。
一体どのくらいの歳月が経っていたのだろう、
急斜面を駆け上がった先に広がる台地には
風雨により侵食された大人の背丈程もある深い溝が、
巨大な樹木が空を掴もうと伸ばす枯れ枝のように
幾筋も複雑に地表を走っていた。
その溝の底を歩く時、小さな僕らは迷宮を探索する冒険者になれた。
放置されたまま佇んでいるブルドーザーとショベルカーも
ひと度冒険者の目に映れば、
それは太古に滅んだ巨大生物の残骸となり、
未知の力を秘めた古代兵器ともなった。
土砂もろともに崩れ落ちた断崖を転がり降りると
鬱蒼とした森の入り口にたどり着いた。
森の入り口からの光が届かなくなるほど奥へ進むと、
二度と戻って来られないような気持ちになる。
それ以上先へ進めない僕は、
そこから先の世界の住人へ宛てた手紙を、
木のうろにねじ込んで帰った。
雨の季節が訪れると一面が水捌けの至極悪い湿地となり、
様々な水棲生物の楽園となる。
蛙、ゲンゴロウ、ミズカマキリ、タイコウチ、ミズスマシ、
タガメ、ヤゴ、アメンボ・・・
僕らは常にその楽園にとっての招かれざる客であり、
僕らの好奇心は彼らにとって災厄であったことだろう。
夏のある日に隠れて飼い始めた子猫は、
その後我が家の愛猫となり20年を過ごした。
素敵な猫だった。
転がされた土管の中でお菓子を食べ、
陽が落ち星が見えるまで石の上に寝転んで過ごした。
大人の姿をほとんど見かけることのないこの山は、
何年にもわたって僕たち子供の好奇心、冒険心を満たしてくれた。
だけどしばらくすると少し離れた所に大きな住宅地が出来て、
僕の近所に新たな子供が引っ越してくることもなくなり、
一緒に遊んでいた友達も成長と共に次第に山では遊ばなくなっていった。
僕だけが、いつまでも、一人でも、その山で時間を過ごしていた。
風の音も、草木の匂いも、泥の感触も、
擦り剥く膝の痛みも、手にする棒切れの数々に秘められた魔力も、
黄昏の空の美しさと同時に変わりゆく空気と暗がりへの畏れも、
そして家で過ごす安らぎと退屈も、
荒れ果てていたあの山が、僕に全てを感じさせてくれた。
高校を卒業し故郷を離れたあとで造成は再開、
山は家が立ち並ぶ住宅地に変わった。
もうこの世界には存在しない二度と見ることのできない僕の原風景。
だけどその光景は、
僕の中の少年の好奇心を満たす全てを積み込んだ方舟となって、
いつまでも海原を駆け回っている。