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肉と密会

私はずうっと前に、固形のものが食べられないという、病気というか症状になってしまった時期があって、そのときはウィダーインゼリーを1日にひとつなんとか流し込んで凌いでいた。食べ物を目の前にすると脳から「ムリだ、食べられない」という謎の指令が出て、それを無視して口に入れてもどうしてだか飲み込めないのだ。病院をいくつはしごしてもはっきりしたことがわからなくて、胃カメラには軽い炎症ぐらいのことしか映らなくて、病院で処方されたのは吐き気止めと精神安定剤だった。そしてそれはまったく効かなかった。あのころは、自分がまともに一食分の料理を食べられる日はもう二度と来ないと思っていた。空腹ってどんなことか、思い出せなかった。ただずっとずっと船酔いみたいな気持ち悪さから逃げられなくて、でもまだ小さな子どもを育てていたので料理をしなくてはならず、夕飯のメニューが決められなくてそのことがものすごくつらかった。スーパーで空のかごを持ったまま、ぐるぐると何周もしていたことを覚えている。身長が160センチ弱で、日に日に減っていく体重が35キロを切ったときにはさすがにぞっとして、水を飲んでは1グラムでも増えないかと、毎日何回も体重計に乗っていた。自分がどんどん「無くなっていく」という体感が、ほんとうに怖かった。生半可な知識のある人から「拒食症に違いない、痩せたいと思って食べられないんでしょう。痩せていることが美しいなんて間違いよ」って、とんちんかんな説教をされて脱力した。ぜんぜん違う。私は痩せていく自分が気味悪かった。私の症状を知らない人から「痩せすぎよー、私の贅肉、分けてあげたいわぁ」と言われると「じゃあ、くれよ」と心から思った。私には、彼女がいらないと思えるほどの血肉は文字通り贅沢品だった。

……と、思い返すとなかなか壮絶な日々ではあったけど、
その後、時間をかけてゆっくりゆっくり体調が戻った。
今はたぶん、人よりも食べる。
あのころ食べられなかったぶんを取り戻すかのように、食べる。
食べることが嬉しい。スーパー大好き。
おいしそうなものばっかりで、かごにいっぱい入れてしまう。
「おなかがすいた」という感覚が、いちいち幸せだ。

そして、あの時期を経てから肉が猛烈に好きになっている。
たとえばコース料理で魚か肉か選べるなら、前の私はだいたい魚を選んでいた。
今は絶対に肉だ。種類は問わない。とにかく、肉。肉が好き。

それで、少し前に気づいたんだけど、「私ってダメだなぁ」と落ち込むときって、だいたい肉が足りていない。
そういうときは、ランチタイムにひとりでサイゼリヤに行ってリブステーキを食べることにしている。
家で自分で焼いてもいいんだけど、たぶん「何もかも全部、人にやってもらう」というのもポイントのような気がする。よそ(店)で、座って、頼んで、出てきて、食べて、出る。そこも重要なんだと思う。
税込999円也。サイゼリヤの中では高いけど、ステーキとしてはリーズナブルだ。
厚さといいサイズといい焼き加減といいコスパといい、今のところこれ以上パーフェクトな一品を私は知らない。「徒歩圏内にあるファミレス」というロケーションも、非常にいい。
食事というより「肉を入れる」という感覚で、月に一度ぐらいの割合でサイゼリヤに赴いている。

心優しい友人が「誘ってくれれば一緒に行くのに」と言ってくれたけど、「誰かと楽しくお話しながら」というのは、この肉入れの儀式には向かない。
肉と私。
黙って、サシで挑む。

どうして私が肉を求めるのかって、たぶん「自分も持っている近しいもの」だからだと思う。
魚も野菜も甘いものも、変換を経て私の体を作るということは原理ではわかるけど、やっぱり他者だ。だけど肉は、粘土細工のようにダイレクトに私の体にくっついてくれる気がして頼もしい。
自信のなさや落ち込んでいるときの心細さは、たぶんあの、がりがりに痩せて震えていた過去の記憶とどこかつながっている。

リブステーキを食べ終わってサイゼリヤを出ると、気分が落ち着いてくる。
もちろん、何もかもが解決するわけじゃないけど、
「私ってダメだなぁ」という気弱さが、「まあ、見てな」ぐらいになる。
この場合の「見てな」は、世間ではなく自分に向けられていて、
あれはきっと私に入った肉が言っているんだと思う。
俺がついてる、俺があんたになる。大丈夫だから見てな。

愛を交わすように肉と向かい合う密会は、無くなってしまうかと思われた自分を「在る」と認識させてくれる。
よろしくたのむよ、肉。
唇に触れ舌に乗り、噛み砕かれ喉をくぐりぬけ、溶けて私になれ。