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【小説】都わすれ(②)

「お母さま、今までありがとう存じました」

 婚儀が執行されたのは、大正十一年七月十九日のことだった。

 人々は専ら数え年で年齢を数えていたが、公的には満年齢を使用していたのでそちらで数えると、新郎二十四歳、新婦十九歳。二人の周囲の人間の平均初婚年齢にほぼ等しい新郎新婦である。

 途中、従姉の婚約者を交えて結婚相手を交換するという案が出たり、諸事情―――後者は自分が臥せってしまったことが原因なので、情けない限りだが―――で挙式が三ヶ月と三週間ほど延期されたりという小事件は起きたが、この頃が二人の生涯で最も幸せな時期と言っても過言ではないだろう。

 * * *

 彼女は主に夫の勤務地に程近い鎌倉の別邸で暮らした。決して東京の本邸にいる姑とうまくいかなかった訳ではない。夫の生活の拠点が既に神奈川に移っていたのだ。

「いってらっしゃいませ。無事にお帰りになってくださいね」

 夫は日中、ほぼ家を空けていたが、航空機で鎌倉上空を通るとき、通信筒を落としていった。それを拾って中身を読むのが楽しみだった。結婚前に交わした手紙の匂いがした。

 厨房には料理人が常駐しているが、料理上手で振る舞うのが好きな彼女を見込んで、夕食後には何を食べたいとか、趣味が高じて新しい映画を撮影したのでそれを観ようとか、とりとめもない日常の言葉が綴られていた。

「今日は何が入りましたの?」

「へえ、活きのいいワラサが来ましたよ。それと、いつものニワトリの卵に、ニンジンに、ダイコンに……」

「ワラサって、お魚? 何が作れますの?」

「そうですねい……もう少し大きくて、ブリになると煮て食うのが旨いんですが、まだ脂が乗りきっていねえんで、この時期は照り焼きにして食うのがいいと思いますよ」

「まあ、照り焼き? それならわたくしにもできそうだわ。ありがとうございます」

 料理人に混じって夫の夕食を作ることは楽しかった。牛乳があればプッチングや、暑い日にはミルクセーキなる西洋菓子も拵えた。

「君は本当に料理が好きなんだね」

「ええ! 今日はビスケットを焼きました。カヒーと一緒に召し上がってくださいな」

 嬉々として厨房に入る妻に、夫は目を細めた。

 住民も、日頃から通信筒を落とすためや、田浦から発着する航空機が敬意を表すために低空飛行することを除けば若夫婦を微笑ましく感じていた。

 朗らかで人柄もよく、仲睦まじい夫婦。日曜になれば質素な服に身を包み、自動車で出掛け、夕方になると農民を畑から家に送り届けていた。

 近隣の子どもたちは彼女の料理や菓子、人形類を目当てに別邸に通った。その気前の良さは京都にいた少女時代からのものだった。


(つづく)