
【小説】都わすれ(⑥)
「……そんなわけで、最近のうちの人といったら、もうお名前を考えていらっしゃるのですわ」
それから一週間も経たない大正十二年九月一日は、湿度が高く暑苦しい日だった。午前中に往診があるので、義弟と入れ違いで訪ねてきた実母が侍女と共に付き添うことになった。
侍女は昨日八月三十一日に満三十三歳の誕生日を迎えた。大正六年の春に京都二女の補習科を卒業し、彼女に仕えて六年になる。
「それはそれは……お子さまがお生まれになるのをになるのを待ち望んでいらっしゃるのでしょう」
「でも、お顔を見たらピンとこないなどということもありますでしょう」
医師は彼女のたわいない話にもよく耳を傾ける。まるで幼い娘があどけない口ぶりで話すのに対して静かに頷く父親のようだ。診察が終わる時間が丁度昼食時なので、彼女は医師を食事に招いた。
午後の日が高いうちに夫も帰宅するという。暑い日だから昼食後にミルクセーキをお出ししようかしら──―と、彼女は思案を巡らせていた。
厨房からは調理の匂いがする。今日の午後は自分がいて、夫がいて、先生がいて、母がいて、侍女がいて、職員がいて──―その子どもたちも始業式を終えて帰宅してくるだろう。
作り甲斐があるわ、と考えながら、診察で崩れた帯を直すために席を立ち、また座った。
そのとき、世界が一変した。彼女はその先の未来を知らない。
(おわり)
トップ画像は、淀屋橋心理療法センター様のフリー素材(https://flower.yodoyabashift.com/miyakowasure2.html)からお借りしました。
2023年9月3日、2日遅れましたが関東大震災から100年ということで、再公開いたしました。