【小説】都わすれ(⑤)
「だいぶ大きくなったようだな。まだ動かないのか?」
東京の騎兵第一連隊付で、この八月に陸軍中尉に昇進した兄は東北旅行の帰路、友人と共に訪ねてきた。
年齢が近い兄妹とあって、京都にいた幼少期は喧嘩をすることもあったが、すっかり穏やかになった。
「今か今かと気を揉んで、わたくしばかり焦っているところですわ」
「そうなのか。産まれたらうちの娘のよい遊び相手になるだろうなあ」
「そうですわね、もし女の子だったら級友、男の子だったら、美智さんが将来うちのお嫁さんにおなりになるかも……」
「いや! 絶対に美智子はやらん。だいいち血が近すぎる」
「まあ、お兄さまったら気の早いこと」
「気が早いのはさあさんも同じだろう」
八月下旬のある日、既に独立した夫のすぐ下の弟を連れ立って、近所の海岸に散歩に出かけた。
「本当に懐かしいなあ。子どもの頃はよくここで泳いだんですよ」
「まあ、そうですか。泳ぐのって気持ちが良さそうですよね」
「姉上さまは、泳ぎは?」
「実は、海に入ったことも無くて」
「それはいけませんね」
実家にいた頃は夏になると海に近い須磨の別荘に滞在したが、女の子は海に入るものではない、という母の戒めに従って海水浴はしなかった。
ところが婚家では、夏に男女問わず海水浴に行ったことがあるらしい。
「男の子でしたら兄が泳ぎを教えるでしょうから、一緒に習ってはいかがですか?」
「それは楽しそうですわ」
帯祝いを済ませ、あとは医師の言い付けを守りながら穏やかに暮らし、年が明ければ子どもが無事に産まれることを待つばかり。
夫の祖父は還暦近くになって生まれた一人息子の初めての子どもに顔を見ぬうちから名前をつけたという。安産の報告を受けると、七夜を待たずに正式な命名を行った。そして翌日、八十三年の生涯を終えたという。
かなり特殊な事例だが、夫は現在、子どもの名づけに早くも苦心している。
(つづく)