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【小説】都わすれ(①)
「行って参ります」
風呂敷包みを手に、五十分の道を毎朝歩いて通った。病気のため高等女学校二年を一年留年したが、それ以外は欠かさなかった。
高等女学校五年を六年かけて卒業した。休学明けの二年次から華道、三年次から和歌、五年次から英語を習い始めた。
当初、講師はボートサルというアメリカ人だったが、二年目はページという講師に変わり、三年目は日本人女性のみになった。
女学校を卒業後は、茶道や日本画も習い事に含まれるようになった。
茶道、華道、和歌、日本画、英語。社交界では英語かフランス語を話せなければいけないので、花嫁修業としては至って典型的なものである。女学校でも英語の講義があり、必死になって英単語の暗記に励んだが、それだけでは足りないらしい。
学校では文法が重視されるので、教養となると別の世界の話だ。それでも英会話の稽古が楽しくないと思ったことは無かった。
結婚話が出たのもこの時期だった。修学旅行ですら関西を出たことが無い彼女を見初めたのは、東京育ちで今は追浜にいる飛行機乗りだった。
二人は再従兄妹同士で、相手は彼女の兄と親しかった。尤も中学校入学と同時に上京した兄と異なり、彼女は女学校卒業後の四月まで京都育ち、東男に京女を地でいく縁組だった。
明朗快活な青年だった。航空機だけでなく、映画に写真、レコード鑑賞と趣味も話題も豊富だった。
度々手紙でやり取りを交わすようになった。直接顔を合わせることは、海軍水雷学校から砲術学校に通い、航空術の学生として横須賀で暮らす彼と、京都の女学生だった彼女では難しいことだった。
いずれにしても、当時では珍しい完全自由恋愛だ。
大正十年七月十四日。彼女の家族はようやく結婚を了承した。
末娘を裕福でなくとも材幹ある男性に嫁がせたい母と、妹は幸せに可愛くあればいいと考える兄。説得することはなかなか骨が折れることであった。
(つづく)