あうん…という言葉があります。 「阿吽 あうん」とは、サンスクリット語で最初と最後を意味する言葉です。 「阿」(あ)は口を開けて発する音声であり字音の始め、「吽」(うん)は口を閉じる音声であり字音の終わりとなっています。 これは万物の始めと終わりを象徴することから、寺や神社などに置かれる狛犬の獅子は口を開けている「阿」と口を閉じている「吽」が一対になっているのです。 日本語の「あいうえお」の語順も最初が「あ」で始まり、最後が「ん」で終わるのは偶然の一致でしょうか? 赤
古くから日本人の暮らしに親しんで来た掛軸。 日本家屋には床の間つきの和室があり、季節毎の行事や来客によって、家の主が大事にしている掛軸を床間に掛ける風習があります。軸と生花はセットのように飾られて来客をもてなします。コンパクトながらもその家の主人のセンスや趣味が垣間見られる個人美術館のような空間です。 掛軸には額縁にはない機能性があり、コンパクトに収納が可能であり、巻いて桐箱に収納することによりカビや褪色を防ぐことができます。 表具の良し悪しは作品鑑賞に大きな影響を及ぼ
「運命は性格の中にある」とは、芥川龍之介が記した『侏儒の言葉』の中の一節です。 私がギャラリスト(ギャラリー主宰)となった一つのきっかけをくれたのは、今振り返ると父の仕事で幼少期を過ごしたブラジルのリオデジャネイロにあったのかもしれません。 リオデジャネイロは最近ではオリンピックの開催地として有名になりましたが、私が暮らした70ー80年代は、美しい山と海、沢山の立飲みバールからコーヒーの芳しい匂いが海風と共に運ばれて、埃や車の排気ガスと混ざりあい、街中に複雑な独特の香りを
「愛」(あい)を訓読みすると「いとしむ」「めでる」とありますが、「かなし」「をし」とも読みます。 「愛しい」…いとおしい、かわいくてならない、強く心が引かれる…などの意味は想像の範囲内ですが、昔の日本人は愛しくて心が痛む、場合によっては愛憎とでも言うような、物事に対して心の動くさまに広く使われていたようです。 人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は 後鳥羽院 『小倉百人一首』99番、私の好きな後鳥羽院の一首です。人を愛すること、憎ら
あれはいつのことだったのでしょう? 夏の暑い日だった記憶がありますが、首都高を運転していて、目の前の大きなトラックから巨大なロール状のビニールシートが荷台から突然落下してきました。北海道に行くとよく麦藁畑に300キロほどもある小麦色に乾燥した牧草ロールが転がっていますが、あれぐらい大きなものです。 急ブレーキをかけるにも首都高です。突然停まれば後ろから追突されます。ハンドルを切ろうにも壁にぶつかる、危機一髪の状況です。ほんの1秒の決断でしたが、私の感覚では10数分ぐらいの
大切な家族の死に遭遇し、悲しみの淵から立ち直れない人や心の病におかされる人など、「死」は人間にとって大変大きなテーマです。極論を言えば、人は死ぬために生きている…と言っても過言ではありません。 私も10年ほど前に父を亡くし、デパートの「父の日」コーナーをみても、「そうか。もう今年はプレゼントを贈る相手がいないのかぁ…」と、涙が頬を伝わり感傷的になっていた一時期もありました。 その当時、僧侶をしていた友人に一冊の本をもらいました。映画にもなりアカデミー賞を受賞した「おくりび
『囘』という字は『えんがまえ』に『巳』と書き『回』の旧字ですが、昭和17年に標準漢字から外され、今は見ることのない幻の漢字です。しかし何かこの字に魅力を感じます。 それはなぜ? 私が巳年生まれだからでしょうか? 蛇は金運を齎すなど東洋では神聖な生物として崇められてきました。そして脱皮を繰り返し『不老長寿』という意味から『囘ーまわる』という意味なのかもしれません。 篠田桃紅氏が描き残した『囘』という作品。 人生は因果応報で、必ずそのツケは自分に巡り巡って返ってくる、という