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mingling ink

 一月。庭。寒空の合間を縫って僅かばかり差した日が、レモンの枝葉に影をつける。淡い期待を込めて触れるも、悴んだ指先をほぐしてはくれなかった。ゆっくりと、赤らんだ両手に息を吐く。擦り合わせながら厚手のセーターに押し当てたが、たちまち熱は奪われ、外気はより一層冷たく感じられた。
 僕はおもむろに振り返ると、椅子に積み上げた本の一番上を手に取った。無造作に中程を開き、深呼吸。立ち上る気霜を少し目で追い、また息を吸う。澄んだレモンの香りに満たされ、思考もクリアになっていくようだった。毎朝の木々の世話は、朝日と歌で始まる。すっかり日課となったが、僕はページに刻まれた一音一音を、丁寧に丁寧に庭の植物達に聴かせた。 
 
 今回の歌は比較的短いものだったようで、雀のさえずりは歌い終えた後も止まず、長閑な響きを侍らせていた。
「おじさんは、まだ起きてこないか」
 本を閉じまた椅子へ戻すと、レモンの木へ歩み寄る。僕よりも背の高いレモン。家庭菜園にしてはかなり大きな部類だ。つややかな葉に抱かれた果実と、四季咲きで1年中爽やかな香りを漂わせる花が好きで、3年前に苗を植えた。僕は少し屈み、実を一つもいだ。均整の取れた形に、並みより一回りほど大きな、丁度良いサイズ感。思わず笑みがこぼれる。
「上出来」  
 何を目指すでもないが、ただ純粋にここ3年の成果が嬉しかった。
 と、ふと、手元で果実を転がし、気づいた。ごく小さく、そして奇妙な斑点。虫にでも食われたかと、覗き込むようにレモンを目元まで近づける。しかしその斑点は……なんと形容しようか、僕はソレを言い表す言葉を持ち合わせていなかった。ただあまりにも鮮烈で、瑞々しく、生命に溢れた斑点であった。じわじわとレモンを覆い広がっていくその煌めきに強烈に惹きつけられた僕は、無意識に指を斑点に沿わせていた。
「!?」
 その時である。爪の先が触れるかというその瞬間、何か重いものを湖に落としたような途方もない水音で、僕の周囲が波打った。水中の如く視界が歪み、酸素は消え失せ、レモンが手から落ちる。刹那の後、息を切らしはっと正気に戻ると、周囲は水浸しの庭で。ぼやける目に見覚えのある庭の輪郭を捉え、次第に落ち着くも束の間。視界が明瞭さを取り戻すと共にその異様な景色が克明に映しだされ、僕の呼吸はまた止まった。
 僕が屈んでいたその場所を中心に、レモンを覆っていた異常がまるで水風船をぶつけた様に飛び散っていた。木に生るレモンの幾らかは、皆一様に先程まで斑点だったはずの輝きに覆われ、果実のみならず草花、木、そして半分濡れたセーターまでもが目が痛くなるほど強烈な、見たこともない光を放って見せた。
「なに……これ」
 左手の生々しい質感、色合いに僕は酷く動揺し、手首をつねった。紛れもなく自分の神経が通っている事が認められ、また動揺する。セーターも、なんだこれは。濡れているところとそうでない白黒の部分でくっきりと、世界の描写に線が引かれているようである。軽い頭痛を覚え、こめかみを押さえる僕。すると――
「やっちゃったやっちゃった」
 ……今度は何だ。遥か頭上からくぐもった声が聞こえた。こめかみを揉みながら、声のした方へ眉間の皺を向ける。そこには、僕より頭一つ分ほど高い位置の宙を穿った、光の漏れる穴が。穴といっても、紙に巨人が指で開けたような、歪な空間の破れに見えた。
「インク多すぎた」
 光が滴るその破れの向こう側から、確かにその声は聞こえていた。自分の好奇心の強さに後悔しつつ、穴の縁に手をかける。行くしかない。もう何が起きても驚く気はなかった。

 普段から運動しとくんだった。穴に手をかけしがみつき、思ったより重い自分の体を引き上げる中、何度そう日常を恨んだか分からない。やっと肘を穴に通し、向こう側に身を乗り出せた頃、僕は息も絶え絶えであった。ようやく足を引きずり上げるや否や、その場にへたり込む僕。息を整えつつ周囲を見渡すと、そこには果てしなく広く、全体的に白い空間が広がっていた。手近なところに物と言えるものはない。左右に白い地面がしばらく離れたところまで続き、その先は崖か段差か、ぷっつりと途絶えている。前方はかなり手前で地面が切れ、濃いキンセンカのような色をした不思議な壁がそびえ立っていた。思いの外殺風景なことに拍子抜けしながら、僕はなにげなく壁を目でなぞり、頭上を見上げた。そして、僕を見下ろす、その大きな少女と目が合った。
 軽く見開かれた土色の目に、同じく驚きの色を見せる口元。胸元まであるくすんだレモン色の髪は、染めてしばらく経つのか頭頂部が黒く生え変わってきている。僕が壁だと思っていたのは少女の着るトレーナーで、白い地面を境に胸部より上がこちらから望める状態であることが分かった。左手に万年筆を握る少女は、驚きと好奇の入り混じった表情で僕に小さく手を振った。
「や、やぁ」  
 腰が抜けていることを悟られまいと座ったまま、油を差し忘れたロボットのように手を振る僕。
「あ、ごめんね。インクが多くて、君のページを破っちゃった」
「ページ……?」
 改めて足元を確認し、僕が這い出てきたそこが巨大な紙の上であることに気付いた。僕が座り込んでいた場所は机かなにかの大きな台の上で、そこに手帳かノートと思われる紙の束が広げられているのだ。僕の庭が、紙の地面を透かした向こうに伺えた。少女は興奮気味に、少し前のめりになって僕のことを見た。
「びっくりしちゃったよね。私も、まさか君がこっちに出てくるなんて思わなかった」
 たじろぐ僕に、はっとしたように居直って照れ臭く笑う少女。その凡そ人とは思えないサイズとは裏腹に、立ち居振る舞いは不思議と年頃の少女に見えた。
「君は、神様?」
「いやぁ、うーん、どうなんだろう……」
 少女は首を傾げて考える素振りを見せ、「そうとも言えるのかな」。と呟いた。
「私は神様じゃないけど、君を描き出したのは確かに私」
「描いた……?」
「うん。上手く描けたんだけどね、色を塗るのは失敗しちゃった」
「色……?」
 分からないことだらけだ。困惑で眉間の皺が深くなり、口が開いてしまう。どうにも頭の追い付かない僕の状況を察したのか、少女は何かを思いついた表情で万年筆の先を横のインク壺に浸した。
「そこに立って」
 有無を言わさず少女は、硬直する僕に黒いインクを1滴垂らした。インクは僕をゆったりと包み込み、沈むような重みが感じられると同時、僕の体の芯の髄まで染み込んでいった。閉じていた瞼を開けるとそこには、葉っぱ色のセーターに、レモンの幹を薄めたような色のパンツを履く僕。
「このインクはね、『現実』っていうの。少し重くて、簡単には変わらない色。それが君の色だよ」
「見たことないよ……すごい」
「気に入ってくれたようでなにより」
 少女は嬉しそうにほほ笑むと、僕に横に移動する様促した。そして慎重に、この上なく慎重に、僕の庭を極彩色の「現実」で塗っていった。庭に並ぶ木々が、葉の1枚1枚が、生き生きと輝き出す。見違えた庭の様子に息を漏らしながら、僕は呟いた。
「でも、絵から出てくるなんて、全然現実的じゃないね。おとぎ話みたい」
「それはねー……」
 少女は別の万年筆を手に取ると、僕に見せた。
「『幻想』だよ。『現実』よりも軽くて、簡単に色を変えられるの。線を『幻想』で描いて、色を『現実』で塗るのが好きなの」
「へぇ、どうして?」
「閉じ込めるため。どんなものでも、夢はあるべきでしょ?」
 どうやら、僕が意思を持って動けているのもこの「幻想」のおかげらしいことが、なんとなくではあるが理解できた。
「その方が面白いでしょ?」
 悪戯っぽく笑った少女の万年筆が、不意に僕の靴を小突いた。と、唐突な浮遊感に襲われ、体勢を崩す僕。四肢をばたつかせ安定を図るも空しく、不本意ながら逆さ吊りになることでバランスを取る。そしてそこでようやく、僕の靴に翼が生えている事に気付いた。両の側面に2対。合計4対の小鳥程の翼をはためかせ、僕は少女の目線の高さまで吊り上げられていたのだ。「ね?」。と言う少女に苦笑いを返す。僕はふと、気になったことを尋ねた。
「僕の世界は、その、全部作り物なの?」
 全身に重力を感じつつ、ゆっくりと降ろされる僕に、少女は首を振った。
「んーん。君の世界は君の世界で、ちゃんとあるよ。私はそれを写し取って色を付けるだけ。だから神様じゃないの」
「今までずっと描いてたの?」
「まぁね。ずっとって程でもないけど。まだ全然苦手なとこが多いし……あっ」
 何か思いついたように顔を上げた少女は、僕を見る目を輝かせた。
「君、案内してよ」
「え?」
 少女は後ろから何枚かの画用紙を取り出してみせた。そこには住宅の模写などが描いてあり、そのうちのいくつかに僕は見覚えがあった。
「私、家とか山とか、そういう動かない物を描くのがなんでか苦手なの。レモンは上手くいったんだけどね」
 確かに、少女の描く家は色鮮やかではあったが、傾きが若干気になるものが多かった。うちの屋根裏でテニスボールが勝手に転がるのもこれのせいか。
「だからさ、君に街を案内して欲しいの。見ながら描けばなんとかなるからさ」
「案内って、どうやって?」
「そりゃあもちろん――」
 少女はそういって横に置いてあるインク壺を掴むと、その桃色と深い紺を織り交ぜたようなインクを、頭からかぶった。壺から際限なく零れ落ちるインク。鈍い光沢を放ちながら、少女の体がみるみるラメ入りの「幻想」に呑まれていく。完全に包み込まれた少女は、もどかしそうな動きを繰り返しながら歪に形を変え続けた。10数秒後、インクは僕の肩程までの背丈に縮んで人の形を成し、そして、少女となった。呆気にとられる僕を見て、堪えられないという様子で笑う少女。
「ほらね。幻想(ゆめ)はどんなのでもいいんだよ」
 少女はそういうと、僕に向かって手を差し出した。まだ状況の整理が追い付かず、それが握手だと理解するのに時間がかかる。
「私はカラ。よろしくね」
「ラ、ラフだよ。……よろしく」
 どもりながら、おずおずとカラと手を交わした。カラの手は温かく、目の前でグロテスクな変身を遂げたとは思えないほど、人間味に溢れていた。
 スキップで紙の裂け目に向かうカラを追いかけながら僕は、また近いうち、自分の好奇心に後悔しそうだと考えていた。

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