敏感な視覚でぼんやりとした世界をどう生きたらいいのか。
ヒトの顔を見るのがうまくできない。
話すとき、目のやり場に困る。視点が落ち着かないと心も落ち着かなくて、そわそわする。
自分の生きづらさの大きな要因である「視覚」について書いた。
視線について巷のアドバイスでは、
「目を直視しすぎないように」
「ネクタイあたりを見て話す方がいい」
「相手に興味関心を持つように」
など、色々ある。が、自分は上手くやろうとすればするほど、目に力が入ってしまって、余計にぎこちなくなってしまう。
あと、相手の情報を取得しすぎてしまう。
「あ、話を切り上げたがってる」
とか、微妙な変化を読み取る。情報が次から次へと頭に流れこんできて、処理に追われてつかれる。それを教えてくれるかのように、体は汗をかきはじめる。
そして、自分の眼は近視。車に乗るとき、パソコンで作業するときは眼鏡をかける。眼鏡をかけた状態で人の顔を見ると、クリアすぎて頭がクラクラしてくる。なので、ヒトに会うときはなるべく眼鏡を外す。
困るのが、外を歩いているとき。このときも情報量を抑えるために眼鏡をかけていない。その状態で、遠くから声をかけられると、誰だかわからない。
ぼんやりした世界から、声、雰囲気、仕草などの情報を瞬間的にかき集めて、人物の特定を試みる。
もちろん自信がないから、
「あ、どーもデース」
とあたりさわりない挨拶を返してしまう。
ここで不安になるのは、自分の反応が普通よりも遅れることで相手が、
「あれ、自分のこと覚えていないのかな?」
「なんか他人行儀だな」
と思わせてしまうこと。
そんな気まずいタイムラグを回避したいこともあって、人目がつかないようにひっそりと歩いてみたり、近くのものを見るなどして、こちらからは気づかないようにしたりする。
近すぎても遠すぎても、どちらにせよ、つかれてしまう。フォーカスの調整が難しい。このフォーカスの困難さが、ヒトとの距離のとりかたにも影響を及ぼしているように感じる。
あるヒトに
「目の焦点が不思議だね」
と言われたことがある。顔のちょっと手前あたりに視線が結ばれているということだった。ヒトを見ているようで見ていない眼差しは、つかみどころがない印象を相手に与えているかもしれなかった。
個人的な発見としては、カメラのファインダー越しであれば、人と目を合わせることがすこし楽だった。むしろ、ピントが対象としっかり合うことが気持ちよくもあった。
目の前の<実体>が<イメージ>に変換されることで、心理的なストレスが緩和されている気がする。
もしくは、ファインダーを覗くことで、ファインダー外の視覚情報を強制的に除くことができるので、状況を感知する負担が減っているかもしれない。
試しに外へ出かける時にサングラスをかけてみると、やはり楽だった。視覚情報を減らす作戦はどうやら効果がある。照明がギラギラと明るいお店よりも、ほんのり薄暗いお店の方が好きなのもなんとなくわかった気がした。
視覚情報を減らす作戦の究極は、暗闇。それを体感したのが、ダイアローグ・イン・ザ・ダーク。
この場は完全に光を閉ざした“純度100%の暗闇”。
普段から目を使わない視覚障害者が特別なトレーニングを積み重ね、
ダイアログのアテンドとなりご参加者を漆黒の暗闇の中にご案内します。
視覚以外の感覚を広げ、新しい感性を使いチームとなった方々と様々なシーンを訪れ対話をお楽しみください。
何も見えない世界で初めて出会ったヒトたちと対話する。視覚情報がゼロの状態は、おびただしい情報の処理から解放してくれた。自分の体すら見えない不安定な状況に関わらず、恐怖は感じなかった。むしろ、安心感に包まれていた。
この体験からわかったのは、他者を見ることと同じぐらいに、他者にどう見られているかを強く意識していたということ。
自分が見られていない状況では、他者への意識が減る。その結果、どのようにふるまうか考えることにエネルギーを割く必要が薄まる。余ったエネルギーは、聴覚や触覚など、他の感覚に回せるようになる。自分は目に頼りすぎていた。
今までバラバラだった感覚と思考が自分の中でひとつになる。その状態はとても心地良くて、思ったこと、感じたことを楽に話すことができた。それは懐かしい感覚だった。
幼い頃に、押入れの中、こたつの中、密室の中に潜り込んで、自分という存在に没頭していた時を思い出した。
ゲームオーバーのときに暗闇は現れる。あの時に体験した暗闇は、たしかになにも見えなかったが、世界を色鮮やかに感じさせた。
視覚優先型だった自分が、聴覚も意識するようになった結果、結婚相手と出会うことになる。それはまたの機会にでも。