【ショートショート】僕らは音を奪われたんだ
会社からの帰り道、後方にコツコツと靴音がした。女性のハイヒールが歩道に刻む硬く乾いた音。振り返ってみても後ろには誰もいない。あたりは暗く、人通りもまばらだ。静かな寒空に靴音だけがシンフォニーの中のシロフォンのソロのように響く。
ふと違和感を覚えて足元を見ると、僕は靴を履いていなかった。
「ソンナワケナイ」
自分の声がロボットの声みたいに平たんに、そしてくぐもって聞こえた。
僕の横を車が通り過ぎて行った。近づいていたことに全く気づかなかった。ヘッドライトが突然視界に入ってきてハッとした。エンジンもタイヤも音ひとつ立てずに去った。まさか!タイヤがない!地上から数十センチを浮かぶように移動していった。自分の目を疑う。
前方の小田急線の高架線路を見上げると、列車が走るのが見えた。やはり音がない。
早足で通り過ぎるサラリーマン風の男性も、すれ違った塾帰りの中学生も、足元に靴がなく靴下が柔らかく音もなく地面を蹴る。
無音、無音、無音。
(ウソだろ)
と言ったつもりが全く声にならなかった。はたと気づく。
僕らは音を奪われたんだ。
相変わらず、ハイヒールのコツコツだけが
暗い夜道にこだまする。シロフォンのソロがクレッシェンドする。僕は怖くなって走った。コツコツも走る。アッチェレランド、アジタート。もうすぐ我が家というころ、ぴたっとやんだ。
目の前に女が立っていた。何かを差し出して「返すわ」と言った。僕の靴だった。僕がそれを受け取ると、世の中の音という音が、まるでパチンコ屋のドアが盛大に開いたときのように襲ってきた。空前絶後の大音量。僕は思わず耳をふさいだ。
「やめてくれー!」
と叫んだ。耳をふさいでいるのに、自分の声の大きさに驚く。「靴を履いて」と女が言った。言われたとおりすぐに靴を履くと、いつもの音量に戻った。環状7号線を流れる車の音が遠くに微かに聞こえる。
「君はだれなんだ?」
「私は〈音狩り〉。音を狩る、と書いて音狩り」
「音なんて狩ってどうするんだ」
「〈音素〉に分けて〈必要としているモノたち〉に分配するの」
「〈必要とするモノたち〉?」
「そうよ。生まれてくる赤ん坊。助けて、と叫ぶもの。クライマックスのオーケストラ。怒りを表すもの。喜び叫ぶもの。汽笛。サイレン。あげればキリがないけど。音を与えるモノと受け取るモノは一蓮托生。今夜も協力してくれたすべてのモノたちに感謝するわ」
それだけ言うと、女は消えた。続いてハイヒールのコツコツが去っていった。
後日気がついたのだが、僕の足の裏には擦っても消えない蓮の花の印が刻まれていた。あの日から僕は声を出して話すたびに疲労していく気がしてならない。身体の熱量が奪われていくような感じがするのだ。
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