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閉鎖病棟の小さなマジシャン

今日も自分はとある病気と闘いながら、マジシャンとしてステージに立っている。

「強迫性障害」
自分が幼い頃から抱えている病気の名前だ。

見た目には五体満足だが、朝目が覚めてから夜眠るまで、自分の意思とは関係なく反復する、意味不明な思考や行動の繰り返しに日々苦しめらている。

汚れが異常に怖く手を洗うのに数分かかり、持ち物や鍵の閉め忘れをギリギリまで確認し続け、本の同じ段落を無意識に何十回と読み頭痛が起こる。

そうして1日の疲れが溜まると顔を歪めるようなまばたきや咳払い、筋肉の硬直が頻繁に出るようになり、自分の意思では止められない。

直接死ぬわけではないが、本人の症状の苦しさを他人に理解されづらい、厄介な病気だ。

29歳の今となってはどうにか上手く付き合い、仕事や生活もできるようになった「強迫性障害」だが、小学生の頃は症状が格段に酷く、学校に行くことはおろか、まともに生活ができなかった。

小学校4年生から向精神薬を服薬し、強い副作用に苦しみ、時々学校に行けた日には病気の症状をバカにされていじめられる。

そんな日々を送っていた矢先、病気と副作用とストレスで心も体もボロボロになり、ご飯が食べられなくなり、そして意識がなくなった。

目が覚めた場所は、小高い丘の上に立つ子どものための大きな病院だった。


心地よい木漏れ日が差し込む部屋で、目の前に座る白衣を着た知らない医者から「入院しましょう」と告げられた。
いつも笑顔で陽気な両親の顔は、影のように暗かった。

すぐに病室に案内されて、お昼ご飯が運ばれてきた。カレーライスだ。
このカレーライスは自分の人生で最も印象深いものとなる。
なんの味もしなかったからだ。

窓からの開放感ある見晴らしを遮るように、飛び降り防止の鉄格子が嵌め込まれている。
天井の無数に空いた穴のどれかには、カメラが付いていると聞かされた。

味のしないカレーライスを食べる自分の後ろで、大好きなおばあちゃんが声を殺して泣いていた。

家族の荒んだ状況とは対照的に、世間は幸せなクリスマスムードだった。
あの日の全てを、今でも昨日のことのように思い出せる。


入院する際、私物を持ち込むにはすべて事前に許可がいる。
様々なものが自傷・自殺に使われる可能性があるから、との理由だった。

魂が抜けた人形のような姿で入院した当時の自分が唯一持ち込んだ私物があった。

マジックの道具だ。

病気で学校に行けなかったときも、体調がいいときはマジックの練習をしていた。

時折玄関先に来る集金のおじちゃん、おばちゃんに練習したマジックを見せて喜んでもらうのが唯一の生き甲斐だったからだ。

病院でマジックをやるかはまだ分からなかった。
でもなぜか、気付いたら持ち込んでいたのだ。


そうして始まった子どもしかいない精神科閉鎖病棟での入院生活。
当時を一言で表すと、「平和な地獄」だった。

おいしい食事もおやつもあった。太陽が差し込む中庭もあった。遊び道具も沢山あった。
看護師さんも、みんな優しかった。

そして入院してすぐに、初めての友達ができた。
面倒見のよい年上の女の子だった。

入って間もない自分のために病棟の中を案内してくれたり、一緒におやつを食べたり、みんなの輪の中に入れて遊んでくれた。

消灯の時間になり病室へ戻るときには、その子はいつもある言葉をかけてくれた。

———「また明日ね」

その言葉で、自分の壊れていた心が、一瞬温かくなった。
「また明日」という言葉が、こんなに嬉しく感じたのは初めてだった。

病室のベッドで眠りに落ちる瞬間まで、「また明日」という言葉を噛み締めていた。

「また明日も一緒にたくさん遊べますように」

———ある日の翌朝、病棟にその子の姿はなかった。

自殺未遂で運ばれて、別の病棟で集中治療を受けているとのことだった。

———「...そうか、ここは病院だったんだ」

ここにいる子どもたち全員が、重度の精神病を抱えている。

微かな光が差し込んだ自分の心が、もう一度粉々に打ち砕かれた。


入院中、自分は感情をほとんど失っていた。

笑顔を作って楽しそうに振る舞っていたのだが、今思い返せばあのとき自分の心に確実に存在した感情は、紛れもなく恐怖と悲しみだけだった。

病室にいる時間は、虚無そのものだった。
狭い病室でも、物がほとんど無いと不思議とすごく広く感じた。

目の前にあるのは、バルーンアートを作るためのバルーンとポンプ、そしていくつかのマジック道具だけだった。


ある日、気付くと自分の病室でバルーンアートで犬を作っていた。
自分の意思とは関係なく、突然作っていた。

何故作ったのか今でも思い出せない。
でもせっかく作ったのでと思い、病棟内で持ち歩いていた。

それを見た看護師さんが、「すごい!自分で作ったの!?」と褒めてくれた。

そして、それを見た別の子が「わたしも欲しい!ねぇ、作ってくれない?」とお願いしてきた。

本来、入院している子ども同士で私物を受け渡す行為はルール違反だったが、消耗品であり安全なバルーンアートということもあり、特別に看護師さんが許可を出してくれた。

バルーンを作り始めると、周りの子たちが集まってきた。
完成したバルーンを見て、みんなが「わたしも、わたしも」とお願いしてきた。

気づけば病棟の全員がバルーンが欲しいと言い始め、看護師さんからのOKをもらった上でなんと全員にバルーンを作ることになった。

自分のバルーンを待つ列に並ぶ一人一人の笑顔は、今も鮮明に覚えている。

目の前の子が喜ぶ顔が見たくて、バルーンを作り続けた。無我夢中で作り続けた。

全てのバルーンを作り終えてふと気がつくと、病棟の中はバルーンと子どもたちの楽しそうな声でいっぱいになり、看護師さんもお医者さんも笑顔になっていた。

「自分がみんなを笑顔にしたんだ」

そう気付いた瞬間、自分ももう一度、自然に笑うことができた。


その日から、自分は病棟でみんなにマジックを見せるようになった。

持っている道具は少なかったけれど、同じ道具でもみんなは何度も観て、何度も喜んでくれた。

新しく入院してきた子も、一緒に自分のマジックを観てみんなと打ち解けることができた。

最初の日に自分に入院を告げた担当医の先生からは、自分のおかげで他のみんなの病状が良くなっていると伝えられた。

生きる希望も感情も失くした自分に最後に残ったもの。

そして自分の魂にもう一度、いのちの灯火を与えたもの。

それが「エンターテイナー」の心だった。


やがて終わりを迎えた入院生活。
やっと閉鎖空間から解放されたという安堵の気持ちと同時に、どこか寂しさも感じていた。

退院後は、投薬治療と通院を続けていくことになった。

その後は6年に渡り、副作用とも闘いながら投薬治療を耐え抜いた。

断薬後はニュージーランドの高校へと進学することを決め、両親の元を離れて17歳で海を渡った。

20歳まで現地で過ごし、日本へと帰国。
高校進学後はマジックからはしばらく離れていたが、帰国後の進路を決める際に入院していた頃の記憶を思い出し、本格的にプロフェッショナルのエンターテイナーの道を志した。

今日まで強迫性障害は完治せず一進一退を繰り返しているものの、病気と向き合いながら初志貫徹でステージに立ち続け、現在に至っている。


マジシャンの仕事を始めてから、自分の入院していた病院をもう一度訪れることになった。

自分が入院していた当時はクリスマスだったこともあり、病棟にサンタクロースが来てくれておもちゃをくれたり、プロ野球選手が来てくれたりと、色々な催しがあったのだ。

入院中の苦しかった時期も、外からエンターテインメントが病棟に来るたびに、心に燃料が足されるように勇気づけられた。

「今度は自分が今まさに入院している病棟の子どもたちに、エンターテインメントを届けたい」

その想いで自分の入院していた病院に電話をしたところ、とても喜んでいただけて快く受け入れていただけた。

そうして、大人になった自分は自分が入院していた病院のすべての病棟を回ってショーを届けることとなった。


「最初に自分の入院していた病棟に行くと当時の病気の苦しさがフラッシュバックしてしまうかもしれない」と病院のスタッフの方々が気を遣ってくださり、まずはいくつかの別の病棟で順番にショーを行った。

肢体不自由児の病棟でショーを演じたときは、手脚のない子どもたちにショーを演じた。

普段の仕事では観客に手を挙げてもらったり、指差してもらったりという参加型の要素があるが、自分のショーの所作や台詞の全てを見つめ直す必要がある、初めてのショーとなった。

そして「声と言葉」に焦点を当てて、全員が参加できて心から楽しめるよう工夫をした。

免疫疾患を持つ子どもたちが待つ特殊な病棟でショーを行う際は、長靴と白衣に着替え、全ての道具を消毒してからショーを行った。

距離を取り、子どもたちに道具を手渡すことはできない病棟だ。
それでも子どもたちが心から楽しめるように、目の錯覚や大きな現象で楽しめるようなショー構成にした。

病院の各病棟で毎月ショーを演じるたびに、当時入院していた頃の自分とエンターテイナーの道に進んだ今の自分を重ね、毎回全力で最善のエンターテインメントの形を考えた。


毎月の病院でのパフォーマンスを始めて半年が経った頃、遂に自分の入院していた精神科の病棟を訪れることとなった。

病院のスタッフの方が、いつにも増して慎重に付き添ってくださった。 

他の病棟は建て直しが行われたのだが、自分の入院していた精神科の病棟はまだ建て直しがされておらず、当時と変わらない姿だった。

14年ぶりに病棟の入り口の前に立った。
二重の鉄の扉をくぐれば、あの日の自分が見た景色ともう一度向き合うことになる。

扉をくぐる直前に、手脚が震えた。
緊張よりも恐怖に似た感情に襲われ、まるで扉の向こうにあの日の自分が立っているのではないかという妄想に苛まれた。

病院のスタッフの方がそれに気づき、「ここにもう一度来るのはすごく辛いことです、どうか無理はしないでください」と、とても心配してくださった。

でも、扉の向こうでは今まさに闘病している子どもたちが、あの日の自分のようにエンターテインメントを待っている。

過去の自分が、呼んでいる。
ここで過去の記憶に負けるわけはいかない。

強く深呼吸をして扉をくぐり、普段のショーの何倍も自分を鼓舞してから子どもたちの前に立った。

そこには、子どもたちの家族や看護師さん、そして14年前のあの日に自分に入院を告げ、それから6年以上お世話になった担当医の先生の姿もあった。

自分はここに戻ってきた。あの頃の自分と同じ、エンターテイナーの姿で。

そして、そのとき自分が届けられる最高のマジックショーを魂の底から演じ切った。


ショーが終わった後、観客の子どもたちや家族に向かって言葉を届けた。
その言葉は、今でも心の中に残っている。

———ここがとても懐かしいです。

自分はここに入院していた子どもの1人です。強迫性障害を患いここにいましたが、実は今でも病気は治っていません。

それでも、今は自分の病気をコントロールしながら、マジシャンとして生きています。

家族の方へ、今はとても不安だと思いますが、微かな希望でも大きな力になります。

少しでも楽しいと思える何かがあれば、それがやがて本人を救う力になります。

今の僕の姿を信じてください。未来には何があるか、誰にも分かりません。

今入院しているみんなへ、みんなそれぞれ違った苦しみを抱えているよね。

みんな本当に頑張っているし、今ここで一緒に僕のマジックショーを観てくれて同じ時間を過ごしていることが、本当に嬉しいよ!

みんなは、今何か少しでも好きなことや、やっていて楽しいことはあるかな?

それがどんなに小さなことでも、自信を持って自分の好きなことを大切に過ごしてね。

それがいつか、必ずみんなを助けてくれる。
自分の好きなことを信じて、あの日の僕と同じように、好きなことを心から楽しんで。
みんなは1人じゃないよ。

だから、必ずまた会おうね———


今日も自分はエンターテイナーという道に、心の底から誇りを持って生きている。

入院したあの日、自分の後ろで泣いていた大好きなおばあちゃんは、今年94歳になった。
今でも、自分のマジックショーを両親と共に元気な姿で観に来てくれる。

パンデミックで世界が激変しても、幼き日の自分が灯してくれた、エンターテイナーの心は消えることなく燃え続けている。

いつかこの人生が終わりを迎えるその日まで、どんな姿になろうとエンターテイナーであり続けると自分は心に決めている。

今日も自分はとある病気と闘いながら、マジシャンとしてステージに立っている。

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