第三の粘土板 旅立ち
傷ついた身体が癒えるまで、二人は会話した。生まれてからの事、数々の戦い、そして友と死について。ギルガメシュは、寝台の上で、かつてない程、言葉を並べた。これ程、喋った事はない。対してエンキドゥは最初、聞き役に徹した。
まだあまり言葉が分からないという事もあったが、ギルガメシュの話を聞いている裡に、変化が生じた。後半は積極的に自ら話す様になった。急速に精神が芽生え、自らあれこれやる様になった。ただ短い時間で得た経験なので、限界もあった。
エンキドゥは一面、幼い様であり、年相応に見えたりするが、その時々によって、目まぐるしく変化した。だが動物の様な勘の鋭さだけは、失われなかった。そしてその神性の高さは、様々な形で現れ、ギルガメシュにとっても、興味が尽きなかった。
だが傷ついた身体が癒えると、また退屈な日々が始まった。
ギルガメシュは、王宮で臣下達の報告を聞いているうちに、木材が足りないという話を聞いた。特に杉の木が足りないらしい。ふと思いついて、傍らのエンキドゥに声を掛けた。
「我らで杉の木を取りに行かないか」
「――なぜ杉の木を取りに行く」
それは力試しの冒険が出来るからだ。周壁あるウルクから大分離れているが、杉の森がある。そして森を守る番人フンババがいる。大気神エンリルが、人間から杉の森を守るために、配置したと言われるが、正確な事は分からない。ただ強いという評判は聞く。
これまで何度も、この杉の森に挑んだ勇者がいたが、誰も帰っていない。杉の森の手前で引き返した者だけが、伝える風聞があり、それが畏怖と恐怖を撒き散らしている。フンババは腸を丸めた様な顔をしており、その叫び声は洪水、その口は火、その息は死と言われている。
「だが我らに敵う者はいない」
ギルガメシュがそう締めくくると、エンキドゥは滂沱の如く涙した。ギルガメシュは驚き、どうしたと声を掛けたが、エンキドゥは、
「――分からない。だが悲しい」
と言った。ギルガメシュは、本人が分からないものを、他人が分かる訳がないと思ったが、すぐに思い留まった。エンキドゥの神性は高い。そしてエンキドゥはある種、自然現象そのものの様な男で、こう言った行動にも、何か意味があるかもしれなかった。
そしてギルガメシュは分からない事があると、決まって、母ニンスンに相談した。
――母上、ご相談がございます。
鼻の上に右手を置いて、心の裡で声を掛けると、智慧と夢解きの女神リマト・ニンスンが現れた。高らかな旋律と共に、虹色の光を全身に纏っていた。腰に豪華な羊毛のカウナケスを巻き、白い密着着を付け、蒼く輝くラピスラズリの首飾りと腕輪を付けていた。
――申してみよ。我が息子よ。
母ニンスンはいつになく、真剣な様子だった。
――我らで杉の森に行き、杉の木を取りに行きます。この事をエンキドゥに話したら、涙を流しました。どの様な意味がありますか。
――フンババはどうしますか。
――斃します。
母ニンスンは、暫くの間、沈黙した。そして言った。
――ではこれを持って行きなさい。
ラピスラズリで飾られた碧い護符を渡された。霊的なもので、実体はない。使えば、神々の力が得られるという。そして母ニンスンはエンキドゥについて言った。
――今日からエンキドゥはわらわの子とします。個人神はシャマシュです。
破格の扱いだった。この地上で、これほどの厚遇を受ける者は、ギルガメシュを置いて他はいない。裏を返せば、それほどの人物という事になる。強さで言えば、ギルガメシュに並ぶのだから、当然と言えば当然かもしれない。
――承知致しました。母上。ご高配、ありがとうございます。
エンキドゥも喜ぶだろう。義理とは言え、兄弟になった訳だ。そう言えば、最初の問いに対する回答がない。どうしたものだろうか。母ニンスンは、求めた問いと違う答えをした。
――まぁ、よい。それよりもこの事を早くエンキドゥに知らせよう。
ギルガメシュは、心の裡で、母ニンスンに礼を言うと、エンキドゥの処に向かった。
その日、エンキドゥは心が沈んでいた。なぜだか分からないが、気分が晴れなかった。ギルガメシュに、杉の森に木を取りに行こうと言われてから、ずっとそうなっている。自分の強さに疑いはない。ギルガメシュの強さもそうだ。だがなぜこうも心が晴れぬ。
そして今朝、夢を見た。内容はよく覚えていない。智慧と夢解きの女神リマト・ニンスンに相談しようとしたが、とりとめもない事を話しそうだったので止めた。あれは何だったのか。
誰かが早足で近づいて来た。この足音はよく知っている。
「喜べエンキドゥ、我らは共に同じ母を持つ兄弟になった」
ギルガメシュは部屋に入って来るなり、そう言った。
「――同じ母とは」
エンキドゥが問うと、ギルガメシュは、智慧と夢解きの女神リマト・ニンスンと答えた。
「ああ、それはありがたい」
エンキドゥは素直に喜んだ。よく知っている。大いなる天にいる神々の一人だ。太陽が座する大いなる光に溢れた世界にいる天上の女神だ。
「それとエンキドゥの個人神は、腕長きシャマシュだ」
ギルガメシュは喜色を浮かべて言った。我が事の様に喜んでいる。
「ああ、それはありがたい」
知っている。大いなる天に連なる七柱の一人だ。それにしても、大神が個人神になるとは。
「――これで我らは、神々の守護を受けた訳だ」
確かに。それは間違いない。これほど大きな力は地上にはない。
「どうしたエンキドゥ。何やら元気がない様だが」
エンキドゥは沈黙した。そして言った。
「フンババは大気神エンリルが任命した番人だ。杉の森に行く者には災いが降りかかる」
ギルガメシュは一笑に付した。
「何を恐れるエンキドゥよ。この地上で我ら二人に敵う者はおるまい。我ら二人の向かう処、敵なしだ」
エンキドゥは確かにそうだろうと思った。だがどうしても心が晴れない。ギルガメシュは口を開き、エンキドゥに向かって言った。
「――それ程までに死が恐ろしいか。エンキドゥよ。人間の為す事は全てリルの如くだ。シャマシュが輝く大いなる天に住まう者は、永遠なるズィを持つ者だけだ。限りあるズィを持つ我らのうち、誰が大いなる天に連なると言うのか――」
エンキドゥは顔を上げた。ギルガメシュは芝居がかった調子で続けた。
「――お前が授かった神性の高さはどうした。強さはどうした。我をお前より前に歩かせろ。お前は我の後ろから、進め、恐れるな、と言え。そしてもし我が斃れれば、末代までその名を轟かせるのだ。ギルガメシュ、全悪たるフンババに敗れると――」(注1)
ギルガメシュは淫らな笑みを浮かべると、エンキドゥに言った。
「さぁ、武器を造ろう。ミッタだ。通常の武器ではない。黄金で造られた剣と、大きな斧だ。我ら以外に振るう事は適わない神の武器だ」
エンキドゥは力強く頷くと、立ち上がった。
「分かった。我ら二人、何処までも征こうぞ」
ギルガメシュが、エンキドゥと共に、杉の森に出征すると告げると、臣下達は激しく動揺した。中でも七人の長老達が反対した。危険過ぎるというのがその理由だが、そもそも留守中どうするのかという問題があった。ウルクのエンシが不在なのは不味い。
「――任せる」
ギルガメシュは全く取り合わなかった。別に自分がいなくてもウルクは回る。
「万が一の時は……」
臣下を退けると、徐に長老の一人が進言した。
「しかしなぜ杉の森なのですか。かの森は、全悪たるフンババが守護すると聞きます」
ギルガメシュは、傍らに立つエンキドゥを示して言った。
「その者は我らが斃す。完全に悪なる者なら、斃して何の問題がある。この際、ウルクの子がどれ程強いか、知らしめてやろう。そして杉の木を持ち帰って、我が名を高めよう」
長老はギルガメシュに向かって口を開いた。
「全悪とは、この世の悪を全て兼ね備える者という意味です。存在する者が完全に悪なる訳ではございません。前者と後者では意味が全く別です」
言葉遊びだと思った。実質、フンババは悪そのものだ。討伐して何が悪い。
「それは罪人と人間の問題と同じだ。罪は人間にしか付加できない。罪は人間から切り離せない。だから罪人は裁かれる。裁くのは罪であって、人間ではないと言いながら」
職人もそうだ。その技術に価値があって、人間に価値を置いている訳ではない。人間に価値を置けば、職人もそうでない人も、等しい価値になる。それでは意味がない。だから技術とか、罪とか、人間から切り離せない属性が、その人の価値を決める。人の命は平等だが、人の価値は平等ではない。だからこの世界に不平等がり、それを正す力が働くのだ。
長老は沈黙した。ギルガメシュを見ている。その眼差しに、如何なる感情の波もない。
「――エンキドゥ、征くぞ」
ギルガメシュがそう言うと、エンキドゥは短く応とだけ答え、黄金の斧を担いだ。
「待たれよ。ウルクのエンシにしてルガル、ギルガメシュよ――」
長老は再び、ギルガメシュに向かって口を開いた。ギルガメシュは、立ち止まり、一瞬だけ視線を走らせた。エンキドゥは、すでに前を歩いて出ていこうとしている。
「――そなたはまだ若い、功名に心がはやっている。フンババは普通ではない。その叫び声は洪水、その口は火、その息は死だ。しかも通常の武器では斃せない。そしてかの森は広い。準備はできているのか、神の加護は得ているのか」(注2)
ギルガメシュに長老に向かって口を開いた。
「ミッタがある。加護ならシャマシュに頼めば貰える」
長老は頷いた。最早、止める気はない様だった。だが助言はした。
「ギルガメシュよ。己の力だけを頼るな。エンキドゥを前に歩かせよ。彼は杉の森までの道を知っている。森の入口に向かえ。前を歩く者が後ろを歩く者を助ける。彼に道を案内させよ。そしてシャマシュが二人に勝利を与えん事を――」(注3)
ギルガメシュは、前を向いて歩き始めた。エンキドゥは力強く前を歩いている。
「――ウルクのエンシたるギルガメシュに神の加護を……」
長老が、右手を鼻の上に置いて、そう言うと、臣下達もそれに倣った。
第三の粘土板 了
『我が友エンキドゥ~いつかのどこかの誰かのための物語~』
第四の粘土板 杉の森 4/12話