第四の粘土板 杉の森
二人は、一ヶ月半掛かる距離を、三日で走破した。携行したニンダを食べ、夜は交代で休みながら見張った。エンキドゥの道案内のお陰で、ギルガメシュは迷わなかった。だがどちらの方角に、杉の森があるのか分かっていた。神性の高さが、行先を導いた。
道中、人とすれ違ったり、獣と遭遇したりしたが、問題にはならなかった。携行したニンダが尽きると、水と食料の問題が起きた。だがエンキドゥの動物的な直観で、水場を探し当て、投石で鳥を落とすと、水と食料の問題は解決した。
とにかくエンキドゥは器用だった。どこでも生きて行ける力を持っている。荒野の野人と言われるのも頷けた。だからギルガメシュは、委細はエンキドゥに任せた。杉の木を取るのは良い。だがフンババはそれを邪魔するだろう。恐らく配下もいる。
そうなると、如何に障害を排除して、目的を遂げるかだ。正直、神々の考えでフンババが配置されていたならば、それを力尽くで、排除するのは問題がある。上手い言い訳を考えておかないと、また神々から叱責を受けるかもしれない。
――だがシャマシュは反対していない。これは許されたと見るべきだ。
ギルガメシュは、旅に出てから、一度も神々に咎められていない。問題があると思われれば、これまで神々はすぐに干渉して来た。基本的に、神々が反応するのは、ギルガメシュが間違った行動をした時だけだ。そうでない時は、ほぼ干渉して来ない。自由だ。
山が見え、杉の森が見えて来た。壮麗で神秘的でさえあった。杉の木の高さが見事だ。
「エンキドゥよ――」
ギルガメシュは、口を開いて言った。
「――恐らくフンババは、神々に造られた者だ。神性が高く、手強い――」
エンキドゥは黙って山道を歩いていた。気温は低く、所々雪が積もっている。
「――配下もいるだろう。まともに戦っては切りがない」
この山に入ってから、見慣れない動物の足跡を見た。野山の獣とは思えない。化物の類ではないか。恐らくもうフンババの領域に入っている。風景もどことなく自然ではない。
「我ら二人で斃せぬ敵はいない」
エンキドゥは言った。確かにそれはその通りだ。
「だが警戒はした方がいい。ここは敵地だ。何が起こるか分からない」
罠があるかもしれない。これまで挑んで帰らぬ者が多いのは訳がある。
「……怖いのか」
エンキドゥは振り向かずに言った。ギルガメシュは、口元を歪めた。
「怖くはない。だが警戒すべきだ」
実際、さっきから項がピリピリしている。何か分からないが、見られている気がする。
「アンズーが飛んでいる」
エンキドゥは空を見た。点在する杉の木を飛んで渡る、小さな影がある。
――あれか。
ギルガメシュの眼にも捉えられた。霊鳥だ。実体がない。使い魔的な存在で、使役する者がどこかにいる。自然ならざるものだ。恐らくアンズーの眼を通して、こちらを見ている。
すでに侵入者として、警戒されている様だ。
「……森の入口だ」
エンキドゥが立ち止まった。森へと続く不気味な小径が見える。杉の森が鬱蒼と広がっていた。その向こうで、大きな影が行ったり来たり動いていた。自然に在り得ない存在だ。
「ムシュフシュか……」
ギルガメシュは呟いた。ライオンの頭とか、蛇の尻尾とか、鷲の翼とか、色々な動物がくっついた合成獣だ。フンババの配下だろう。森の入口で番をしている。
――黄金の弓を使うか。
背中からミッタを抜き、矢を番えた。使えば確実に斃せるだろう。この程度の敵に使うのは勿体ないが、ムシュフシュは二体いる。同時に斃さないと、助けを呼ぶかもしれない。
――だがここで飛び道具を使うのは……
黄金の弓は、使えば矢が消えてなくなるが、その威力は絶大だ。魔物には効果も高い。空を飛ぶ魔物にも有効だ。だが陸上の魔物なら、接近戦で仕留める事も可能だ。他のミッタもある。二人で一気に押し通る事もできないか。だがそれは拙策にも思えた。
「同時にやる」
エンキドゥもミッタを構えた。槍として投げるつもりの様だ。ギルガメシュは、弓の早打ちを提案した。弓の腕前には自信がある。恐らく外さない。
「――分かった。打ち漏らしたらやる」
エンキドゥは下がった。お手並み拝見と言う感じだった。一方、先手を任されたギルガメシュは、緊張していた。恐怖はない。だがズィは高鳴り、額から汗が流れた。呼吸を整え、狙いを定める。ギルガメシュの脳裡に、見えざる赤い射線が引かれ、二頭の合成獣を貫いた。
――今だ。
弓の弦から黄金の矢が放たれる瞬間、空から何か落ちて来て、ぶつかった。だが実際は何の感触もなく、黒い影が通り抜けただけだった。アンズーだ。急降下して邪魔したのだ。物理的には何の脅威もないが、弓を射る動作を乱すには十分だった。
合成獣は、この世ならざる叫びを挙げた。矢は左前足に刺さったが、急所ではない。二射目は打つまでもなかった。エンキドゥの投げたミッタが、もう一体の頭部を砕いていた。
――しくじった。
ギルガメシュは、背中からミッタを抜くと、合成獣に向かった。一瞬で間合いを詰めると、黄金の剣を振るって、胴を両断した。だが斬られながらも、蛇の尻尾が、右腕に嚙みついた。だが腕輪に牙が滑り、掠っただけだった。毒がありそうだったが、これなら後で拭けばよい。
「叫びを挙げられた」
エンキドゥが指摘した。ギルガメシュは苦い顔をした。森の様子は一変した。まるで生き物の様にリルに揺れている。あたかも森が、侵入者を拒んでいるかの様に感じられた。杉の森の奥にまで、こちらの存在が知られてしまったかも知れない。
「急ごう。敵に息を吐く間も与えずに攻めよう」
エンキドゥは、ギルガメシュに向かって口を開いた。遅れを取ったギルガメシュは、短く応とだけ答えて、二人は森の入口を駆け抜けた。通り過ぎる時、二体の合成獣が、幻の様に消え、碧い光を放った。そして僅かな土塊が残されていた。
――やはりあれは造られた者だ。それも自然ならざる力で……
ギルガメシュは警戒した。ただ強いだけでは恐らく突破できない。智慧が要る。それも尋常ならざる類のものだ。大気神エンリルが、あるいは神々が関与していたのならば、それは恐るべき事だ。大神の権能を、こういった方面に使った場合、どうなるか想像もできない。
「エンキドゥ――」
ギルガメシュは、エンキドゥに向かって口を開いた。だが眼前の光景を見て固まった。
――何だ。これは。
大きな扉があった。城門の如く聳えている。森の中にこんなものがある筈がない。明らかに不自然なものだった。見ると、エンキドゥは取手に手を伸ばして、触れようとしていた。
「止めろ。エンキドゥ。触れてはならぬ」
だが遅かった。エンキドゥが扉に触れると、彼の右手が碧く光って、固まった。
「手が動かない」
見ると、エンキドゥの右手が石化していた。呪いの類だ。
「……だから触るなと言った」
ギルガメシュは嘆息すると、鼻の上に右手を置いて、心の裡でシャマシュを呼んだ。そして神々の力で、エンキドゥの石化の呪いを解き、眼の前の大扉について訊いた。
――これは現実の扉ではない。フンババの扉だ。
よく見ると、扉に星印が刻まれている。ディンギルだ。やはり大いなる天に連なる者か。
――ここから先は、一度入れば引き返せない。フンババを斃すまで。
なるほど、これは警告を兼ねた防衛装置という訳か。厄介だ。
――シャマシュよ。どうすれば、この扉を無事に越えられる。
腕長きシャマシュは、少しの間、沈黙した。
――私が破ろう。ただしここを越えると、私の力も及ばない。よいか。
構わない。元より神々の助けを借りるつもりはない。だがこういう仕掛けの類は、正々堂々とした戦いの妨げになる。神の力を借りて、排除しても名に傷は付かない。
腕長きシャマシュが、後光の輝きを増し、黄金色に輝き始めた。そして二人の眼前に太陽が出現したかの様な眩しさに包まれ、目を焼いた。気が付くと、輝きはなくなっていた。暗く深い森が広がり、大扉が跡形もなく消えていた。
「行こう。エンキドゥ――」
ギルガメシュが声を掛けると、エンキドゥが立ち尽くしていた。どうしたと声を掛けると、振り返ったエンキドゥの表情に驚きと恐れが広がっていた。明らかに普通の状態ではない。
――魔術的なものに慣れていないのか。
「手が動かない」
エンキドゥは右手を挙げて言った。石化は直している。動かない筈はない。
――恐怖で心を縛られたな。
魔術の後遺症だ。出血性のショックで気を失うのと似ている。肉体に想定外の損傷を受けると、人の心にも異変が生じる。それが一時的で、派手な外観の変化であれば尚更だ。
ギルガメシュは、恐怖に囚われたエンキドゥが落ち着くのを待った。
「我は戦えない」
エンキドゥは言った。ギルガメシュは笑った。
「――大丈夫だ。魔術は何とかする」
対魔術戦の心得はある。神々の力なしでも、固有の力で、大概の魔術は何とかなる。それにフンババが、魔術を中心に戦いを仕掛けて来るとは思えなかった。恐らく魔術は、露払い的な意味しかないだろう。力が弱い者を事前に弾くためのものだ。大した意味はない。
「フンババは、その叫び声は洪水、その口は火、その息は死だ」
確かにそんな話も聞いている。
「だが同じ口から、水と火と死が同時に飛び出す訳ではあるまい」
ギルガメシュは指摘した。この三つが同時に飛び出して、攻撃して来るなら、対処不能だが、どれか一つなら、何とかなる。そのための黄金の盾もある。ミッタだ。
エンキドゥは沈黙していた。まるで子供の様だった。経験の無さが露呈している。
「フンババは強いだろう。だがその口から、水や火や死を交互に出すだけだ。そもそも火と水は相容れない。同時に出す事は不可能だ」
ギルガメシュは、ミッタでフンババの特殊攻撃を防ぎつつ、ミッタで討ち取る作戦を考えている。何か想定外の事が起きない限り、遅れは取らないだろう。
「我は不安だ。手が動かない」
なおエンキドゥがそう言うと、不意にギルガメシュは、エンキドゥの手を取った。握り締めると、反応があった。温かく力強い反応だ。問題ない。エンキドゥの右手は動く。
「どうだ。手は動いたか」
ギルガメシュは、爽やかな笑みさえ浮かべて見せた。
「動く。手が動く」
エンキドゥは、子供の様に小躍りして、喜びを表した。
「では行こう」
ギルガメシュは、大扉があった場所を踏み越えて、フンババの領域に入った。水の波紋の様な揺らめきが、碧い光と共に広がり、心と身体を通り抜けた。結界を越えたらしい。
躊躇っていたエンキドゥはすっかり持ち直し、ギルガメシュの後に続いた。どうやら、ここから先はギルガメシュが前を歩かねばならないらしい。
――面白いものだな。さっきと逆だ。
森の入口では、エンキドゥに後れを取ったが、今度は逆だった。これからもそういう事はあるかもしれない。二人で得手不得手を分ければ、恐いものはない。
後ろから鼻歌が聞こえた。エンキドゥだ。機嫌がいいらしい。
――可笑しな奴だ。
ギルガメシュも口元を歪めた。いつもの調子が取り戻せそうだ。
――最後の助言だ。
不意に心の裡にシャマシュの声が響いた。
――フンババはまだ準備が整っていない。今なら間に合う。森の奥に進み、先手を取って、急襲せよ。七重の鎖帷子と六重の兜を装備されると、勝目はない。
ギルガメシュは、エンキドゥを見た。エンキドゥも頷いた。聞いている。
――今はまだ一つしか装備していない。完全武装する前に急げ。
シャマシュの声はそれで終わった。いつもの様に姿は見えなかったが、明瞭な声は確かに聴いた。すでにフンババの結界の筈だが、声は届くらしい。
――シャマシュよ。貴重な助言に感謝する。
ギルガメシュは、心の裡で礼を言った。シャマシュから返事はなかったが、心の裡で黄金色のリルが、微かに吹いた様に感じられた。吉凶だろうか。今は分からない。前に進むだけだ。
「エンキドゥよ。急ごう」
エンキドゥは短く応と答え、駆け出した。ギルガメシュも続いた。景色が飛ぶ様に流れ、二人の後を追っていたアンズーの気配も消えた。あまりの速さについていけないのだ。
――素晴らしい速さだ。
ギルガメシュは杉の森を駆け抜けながら、前を奔るエンキドゥの背中を見ていた。只の人であれば、こんな速度で奔れる筈がない。敏捷なネコ科の動物だって、ここまで速くないだろう。神性が高い二人ならではだ。二人は森の中心に向かっていた。
――分かる。この先に脅威が存在する。
何か途方もなく大きな存在がいる気配が伝わって来た。人ならざる不自然な存在だ。空気が圧力となり、抵抗を感じる様になって来た。霊圧だ。あまりの神格の高さに、近づく者を圧倒する。だが神性の高さなら負けていない。この地上で一番はギルガメシュだ。
森の開けた場所が見えて来た。近くに泉がある。恐らくフンババがいる。森の中心だ。
「左右から挟もう」
ギルガメシュは提案した。エンキドゥは背中から黄金の斧を取り出すと頷いた。ミッタだ。まだ一度も使っていない。輝きが滴となって零れそうだ。ギルガメシュも右手に黄金の剣を持ち、左手に黄金の盾を構えた。対フンババ用に用意したミッタだ。
――フンババがどれ程の者か見てやる。
ギルガメシュは逸る心を押さえながら、エンキドゥと左右に分かれた。ギルガメシュが右で、エンキドゥは左だ。この二人に挟まれて、この地上で戦える者が存在するとは思えない。シャマシュは、フンババが完全武装すると勝てないと言っていたが、そんな事はあるまい。
初撃でフンババを討ち取るつもりだった。出し惜しみはしない。己ができる最大の攻撃で仕留める。反撃などさせない。それこそ息を吐く間も与えず、絶命させてみせる。大いなる天にさえ届くギルガメシュの一撃に、耐えられる者などいない。
第四の粘土板 了
『我が友エンキドゥ~いつかのどこかの誰かのための物語~』
第五の粘土板 森番フンババ 5/12話