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愚かな半世紀男の誘惑

 その失業者は、久しぶりにスーツを着て、身が引き締まる思いをした。
 今日は妻の件で、話さなくてはならない相手がいる。これは必要な事だ。
 その元サラリーマンの妻は、与党大物政治家の娘だった。そして失業者は、政治家の義理の息子だった。その政治家にも息子はいる。確か跡を継がせようとして、政治家の秘書にしていた筈だった。だがいつしかその名前は消えていた。理由までは分からない。
 その元サラリーマンは、妻との離婚協議の件で、この義父に会おうとしていた。普段から滅多に接触はしない。結婚した時は頻繁に会ったが、いつしか往来は途絶えていた。直接会うのも10年ぶりだった。聞いた話では、自宅で療養しているらしい。国会にも出ていない。
 最近はオンラインで済ませている。国会議事堂が破壊されてしまったからだ。だがこの議員の場合、病気の状態が悪い事の方が問題だった。余命少ないとも言われている。
 都内某所で、元サラリーマンは、その政治家と面会した。自宅の布団で寝ている。
 「……君か。元気にしているか」
 その政治家は顔も動かさず、口だけ動かしていた。
 「は、ご無沙汰しております」
 失業者は持って来た菓子折りと見舞いの花を、家人に渡した。
 「……孫娘が悪行から足を洗ったと聞いて嬉しい」
 元サラリーマンは目を見張った。なぜ知っている。というかパパ活の事も知っていたのか?
 「お恥ずかしい限りです」
 とりあえず失業者は形だけ謝罪してみせた。
 「……不倫した娘の件だな。話は聞いている」
 その政治家は用件を切り出した。失業者は黙って点頭する。全て知っているようだ。
 「そちらでは手に負えないだろう。こちらで手を回しておく」
 どうやら、こちらに味方してくれるようだった。だがいまいち意図が分からない。
 「この離婚にはわしも反対だ。手は打つ」
 孫娘を念頭に置いて、そう言っているようにも聞こえた。だがすでに裁判は敗けている。
 「……あの娘に関しては、正直わしにも手に負えない」
 そうなのか。初めて聞いた。だがあの妻なら、分からないでもない。
 「わしがこの離婚に反対している理由は、他にもある」
 「……伺いましょう」
 元サラリーマンは、少し緊張した。何か来る。
 「わしの跡を継がないか?」
 その政治家は言った。沈黙が訪れる。
 「……このザマだ。ずっと誰かに地盤を譲りたいと考えていた」
 その失業者は、全身から滝のように汗を流していた。そんな話は想定していない。
 「君は国家有数の人材だと思っている」
 とんだ買い被りだ。夜に独り精を漏らす愚かな半世紀男に過ぎない。
 「……退職の件は聞いている。結果的には良かったのではないか?」
 そんな話はもうどうでも良かった。残した部下は気になるが。
 「ちょうど身も空いている。まずは秘書からでどうだ?」
 その元サラリーマンは即座に断ろうと思った。意味が分からない。これは罠だ。
 「……偵察総局、アレは良くない」
 その時、稲妻の如き、電流が全身に走った。敵だ。
 「この国を喰らおうとしている。アレを取り除いてくれないかね」
 「謹んでお受け致します」
 気が付いたら、失業者は即答していた。全身から炎が燃え立つ。
 「では頼む。周りには私から話しておく」
 元サラリーマンは、念のため、当然の疑問を口にした。
 「……なぜ私に?ご子息は?」
 政治家はその質問には答えず、別の事を訊いた。
 「君は今のこの国をどう思う?」
 「……失礼ながら、もうどうにもならないと思います。でも何とかしないといけない」
 それはよくある回答だったかもしれない。だが今は他の国も似たようなものだ。カオスだ。
 「わしは君のその燃え上がる復讐心のようなものを買っている」
 その失業者は沈黙した。そしてその次の発言を待った。
 「だがそれだけじゃダメだ。いつしか自ら業火に飲み込まれるだろう」
 ではどうしろと?何をすればいい?
 「この世のありとあらゆる汚濁に塗れたわしが言うのも何だが――善行を為せ」
 善行?その元サラリーマンは思考が停止した。
 「……わしは長年、善悪の彼岸を超えて政治を行っていると思っていた」
 この政治家は時局を読む事に長けていた。いつもその時、一番効果的な手を打つ。
 そのため直前に発言した内容や、直前の行動と、真逆になる事もしばしばあった。
 だがそれがあまりに見事だったので、この政治家は、時局師、政局屋などと言われていた。
 「効果的、それだけではダメなのだ。善悪の彼岸を歩くというのは幻想に過ぎん」
 政治家は断言した。よく分からない。善悪を併呑するのが、政治ではないか?
 「究極的には、人の心は悪に根ざしていない。これが真実だ」
 その政治家は、若い頃の話をした。大学でエミール・デュルケムの社会学を学んだと言っていた。犯罪者の存在しない社会は存在しないとか、性悪説に基づいた19世紀の学説だ。
 中国古典で言えば、荀子が近い。転生者かと思う程、思考が類似している。
 「毒を以て毒を制すではないが、小さな悪には、大きな悪をぶつけて制してきた」
 それは問題を大きくするだけだろう。目の前の問題を先送りして、後の人間に全て託す。無論、そういう人たちは、その時一番効果的だと思える手を打っているだけだ。善悪について考えていない。そもそも善悪が分からない。だから善行など在り得ない。
 「それでもなお善なのだ。善を志向しないと国は治まらない。効果的では社会は鎮まらない」
 失業者は、この政治家が普段と真逆の事を言っていると思った。
 「だが善の問題点は、忍耐を要する事だ。それに対して悪は、効果的で速い。可視的だ」
 短期的に効果が出る政策は、長期的には悪に転じる事がある。そして善はその逆が多い。
 「結果的にわしはこの国を売ってしまった。頼む、偵察総局を倒してくれ」
 元サラリーマンは、倒せるなら、刺し違えても、倒してやろうと思った。あれは敵だ。
 「一命にかえても」
 その政治家は、失業者を見ていた。
 「その意気やよし。だがその復讐心、どこかで捨てないと、全てを炎上させる」
 それはよく分からない。本当にそうなのか?復讐の心は世界を業火で焼き尽くすのか。
 「君は現在の日本を取り巻く状況をどう思う?」
 国際情勢の話か。それに答えるのは難しい。
 「……非常に読み難くなっていると思います」
 「今の日本は、内的な問題も大きいが、外的な問題も大きい。一歩間違えると日本は沈む」
 それはそうかもしれない。欧州大戦をきっかけに、国際情勢は複雑化した。読めない。
 「今後も外からの問題は無視できない。だが内側の問題も大きい」
 現在、国会が機能していない。国会議事堂が東京湾から飛来した潜水艦のミサイルで破壊され、サイバー攻撃でネットも断続的にダウンしている。オンラインでの国会も難しい。
 この攻撃は、どこの国の仕業か分からなかった。声明もない。犯人不明のままだった。
 政治家たちは恐れて、逃げるようになった。政府も地下に隠れて、出て来ない。
 立法行政司法の三権が崩壊しつつあった。中央政府の統治能力が落ちて、地方政府が頑張っている。だがバラバラに迷走しており、特に北海道情勢は混迷を極めた。独自に動いている。
 自衛隊、警察、そして偵察総局が動いていた。国民は不安になっていた。
 「難局だ。日本は難局に差し掛かっている。未曾有の国難だ」
 その政治家は言った。元サラリーマンは頷いた。それはそうだ。
 「でもなぜこんな事になったのですか?」
 失業者は尋ねてみた。政治家は考えた。
 「……それは分からん。気が付いたら、こうなっていた。国際情勢が問題かもしれん」
 「欧州大戦ですか」
 元サラリーマンがそう言うと、政治家は沈黙した。
 「……欧州情勢は複雑怪奇だ。だが今は国内を優先して立て直さないといけない」
 「でも問題は外から来ています」
 今の日本がガタガタになったのは、全部外から飛んで来るものばかりだ。
 「それはそうだが、今は国内問題が大きい」
 世界が荒れているので、日本も荒れる。道理だ。両方対処しないといけない。
 「でも知事たちが活躍していますね」
 中央政府の機能低下と合わせて、地方自治体の知事たちが動いていた。
 「……知事たちの日本か。下らん」
 連日マスコミは、都道府県の知事たちの動きばかり報道していた。活況を呈していた。
 地方自治体の住民たちも、中央政府ではなく、知事を当てにするようになっていた。
 中でも、北海道知事の動きが異色を極めた。海外と独自外交まで始めている。
 「でも政府が機能しなくなれば、こうなります」
 国会議員は政府閣僚と共に、その存在意義が問われていた。無意味な存在になりつつある。
 「……だから、君に出て欲しい。偵察総局が諸悪の根源だ」
 その政治家は断言した。何か知っているようだった。
 「それは分かりました。だが私には政治経験もなければ、何の力もありません」
 「……わしにはそう見えんが」
 何か深刻な誤解がありそうだった。理由までは分からない。
 「わしもこの件を一人で決めた訳ではない」
 誰か相談した者がいるのか。それは誰か?
 「今朝、夢枕に立つ者がいてな。囁かれた。君の事を……」
 ますます分からない。それは誰だ?というか、そんな事で決めたのか。
 「……君は信じるかね。この話を」
 何とも言えなかった。だがこれでする事は決まった。失業者は今日で終わりだ。
 「それは分かりかねます。ですが敵は倒してみせましょう」
 復讐心のあまり、その失業者は政治家の誘惑に乗ってしまった。愚かな半世紀男の誘惑だ。
 「偵察総局は常軌を逸している。気を付けろ」
 それは知っている。あそこは伏魔殿だ。人外魔境だ。
 「警察は偵察総局に浸透されている。特警に気を付けろ。下部機関と言ってもいい」
 その秘書は、僅かに顔を歪めると、政治家と具体的な協議を開始した。

           『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』エピソード27

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