地下室からの手紙
1
言うまでもないが、この手紙も、この手紙の作者も、フィクション、空想の產物である。
そして現在の情勢を鑑みると、この手紙の作者のような人物が、我が社會に棲息する餘地は殆どないだろう。だがもしかしたら、萬に一つ、在り得るかも知れない一つの類型として、このような人物を、公衆の面前に引きずり出してみた。誠に申し譯ない。陳謝する。
賢明なる讀者、諸兄諸姉におかれましては、特に注意されたし。引き返すなら今である。
この人物は、自己紹介を兼ねて、自分の見解を述べているが、あまりに非科學的なので、精讀は推奬しない。現代の異端を氣取っているが、恐らく本人だけの氣分の問題だろう。
本人は、自分がこうならざるを得なかった理由を開陳しているが、かかる非科學的な人物が我が社會に現れた事に、人々は關心を持たないかもしれない。だが本人としては、現れざるを得なかった事を、どうしても說明したがっているように見えるかも知れない。
この人物は病理的で、精神が分裂しているかもしれない。內在する複數の個性が暴れて、外に飛び出して來る。本人としては、抑える事ができない。衝動だ。衝動で生きている。
そしてこれはその人物が、ある時、ある場所で書いたメモランダムを想定している……。
2
俺は狂人だ。夜、獨り精を飛ばす。そして誰からも好かれない。
これは恐らく、自分の頭が惡い事が根本原因だと思う。
別に學歷の話をしているのではない。人生の效率の話をしている。
俺は根本的に頭が惡いから、心からの親切な助言に從えない。
凄く效果的とか、みんなそうしているからとか、全く從えない。
斷っておくが、反社ではない。反人だ。反人閒的なのだ。
だから人閒の集團なんてどうでもいい。現代文明なんかどうでもいい。俺は眞理に關心がある。眞理と來たか、と人は嗤うかも知れない。だが眞理とは何か?科學の事か?
だが殘念な事に、俺は科學が大嫌いなのだ。憎んでさえいる。
21世紀の賢い人閒なら、いつも決まってこう言う。科學に從え。Follow the science.
普段から、このような事を言う人物は、公の場で、このように發言する。「私に逆らう事は、科學に逆らう事に等しい」と。素晴らしい。地上の神か?
それはある時、地球の氣候變動を叫ぶ少女の口から飛び出したり、またはある時、感染症硏究所の所長の口から飛び出したりする。400年經って、ガリレオ裁判が逆轉していないか?
嚴密なる自然法則?そんなものは人閒の解釋に過ぎない。
第三者檢證性?追體驗?俺の體驗は俺のものだ。そんな事はよその星でやってくれ。
だから俺は科學に從わない。みんなが從うなら、俺はその逆を行く。だから愚か者だ。
3
俺は今50歲だが、半世紀と言えば、人生そのもの。これはもう答えが出たに等しいだろう。
愚かな半世紀男だ。結局、何者にもなれなかった。I am nobody. Aucun est moi!
これでも大學院まで出ているが、あまりに頭が惡いので、學歷詐稱を疑われる。
古典ギリシャ語で、アリストテレスの『形而上學』Z卷を中心的に讀んだ。『カテゴリー論』『靈魂論』も全部讀んだ。存在とは何か、眞理とは何か、人閒の心とは何か、そして永遠不滅で非可滅的な能動理性とは何か追及した。アリストテレスの實體論から、人閒の精神奧深くに眠る宇宙を司る不動の動者まで探究し、そこに同質的なものを求めた。
ソクラテス、プラトンは素晴らしかったが、話がバラバラで、繋がりが弱い。話が纏まっていない。だがアリストテレスは違う。有史で最初のシステム設計者だと思っている。獨自の專門用語を作り、體系的に世界を構築し、說明する。東洋における佛敎思想が一番近いか。
人は嗤うかも知れない。今更、哲學ですか。違う。そうではない。これは神祕だ。
俺は、極端なぐらい神祕家で、オカルティストときている。自分に力があると思っている。受け身專門だが、日々樣々な電波を受信している。だが修行が足りないので、悟りには至らない。絕えず欲界を轉生している。大空を低徊している。この雜念のような受信內容は、中々纏まらない。單體では意味を爲さない。システム化して、纏めないといけない。
だが現代は違う。全く別の考えが覆っている。
4
諸君!哲學の反對とは何だろうか?哲學の反對?そもそもそんなものがあるのか?と諸君は首を傾げるかも知れない。あるのだ!それは醫學だ。哲學の反對は醫學。つまり、醫者だ。
奴らこそ、眞理の敵だ。
なぜならば、奴らは科學に從い、この地上で、永遠の生を目指しているからだ。
もしかしたら、地上で永遠の生を目指して何が惡いと、開き直る者がいるかもしれない。
ダメだ。そいつは、きっとサタンだ。この地上で不滅の生など在り得ない。
人は死ぬ。それが眞理だ。だから我々は死に備えて、日々死ぬ事を練習しないといけない。
つまり哲學しなければならない。要するにソクラテスだ。だが彼は毒杯を仰いだ。なぜか?
みんなに嫌われたからだ。そう、眞理の人は嫌われるのだ。これは宿命と言ってもいい。
現代では、全く別の考えが覆っている。
5
現代では、公衆の面前で、非科學的な言說を發言してはならない。失笑される。
どこかの誰かが、「語り得ないものは沈默しなければならない」と言ったせいだ。(注9)
あるいは、そういう事を發言すると、「プラトンの呪文」とか言われたりする。(注10)
非科學的な言說は、開かれた社會の敵であり、文明を後退させる主要な原因とされる。
開かれた社會は、萬人に平等で、機會が開かれている。不公平があってはあならない。腐敗は許さない。だから常に監視されている。だからデジタル化が推進される。
別に俺は開かれた社會そのものに反對はしていない。文字通りの意味であれば問題ない。
だが實態はどうだ?腐敗は許さないというお題目で、絕えず監視される。プライバシーの侵害だ。だが開かれた社會は、人權よりも優先される。その結果、監視者が立つ。
彼は公平無私の存在者として、人々を監視している。地上の神だ。そして科學に從っている。もしかしたら、そいつは氣候變動少女か、醫者でありさえするかも知れない。あるいはAIか。
ああ、恐ろしい。監視社會。いわゆる『1984年』か?(注11)
開かれた社會?その敵?上等だ。俺はその敵だ。閒違いない。
だから俺は今日も唱える。プラトンの呪文を。ギリシャ語、ラテン語を學び、古代人を氣取り、穴居人の呪いの文字を岩壁に描きつける。藝術だ。そう、俺は監視されているのだ!
たとえば、あるドキュメントでウと書いたとする。そして次にクと書いた瞬閒、たちまち人工知能の豫測變換に引っかかって、タグ付けされる。この記事は、獨自硏究の可能性が高いとか、樣々な情報と照らし合わせて、總合的な判斷をお勸めするとかだ。これが現代の言論だ。
ポリティカル・コレクトネス?上等だ。俺としては、プラトンの呪文を唱えざるを得ない。
そう、みんな、監視されているのだ。なぜ氣が付かない?發言の自由を失っているのに!
6
先日、俺は捕まった。だからこの手紙は、地下室から書いている。地下室からの手紙だ。
監視者は一笑に付して、シュレッダーにかけてしまうだろが、構うものか。書き散らしてしまおう。どうせ消されるなら、それまでの閒の話だ。つかの閒に妄想に過ぎない。
ところで、なぜ俺は捕まったのか?それは一册の魔導書、『ヒツ〇ラー傳』のせいだ。
その本の表紙には、スヴァスティカが堂々と打ち付けられている。眞っ赤な奇書だ。
その內容は、とあるちょび髭の獨裁者の半生が描かれ、榮光と賞贊に滿ちている。
それが特警の氣に觸ったらしい。思想信條を尋ねられ、警察署まで任意同行を求められた。
その非科學的な言動から、取り調べ室に入れられ、尋問された。もしかしたら、俺は暴行さえ受けたのかもしれない。あまりよく覺えていないが、特警とのやり取りをここに記そう。
「……君は反體制派か?」
「どちらでもない。俺はただ歷史を見ているだけだ」
「……ではなぜこんな危險な本を持っている?」
發行日昭和九年七月五日、著者澤田謙、發行所大日本雄辨會講談社、『ヒツ〇ラー傳』とある。
「危險な本?これはただの昔の本に過ぎない。1934年の世界を描いただけの……」
「……君はネオ〇チではないか?」
「ネオナ〇なんかじゃない。〇チは嫌いだ。全體主義は嫌いだ。監視社會は嫌いだ」
「……では君は何者か?見たところ、仕事もしていないようだが」
その時、もしかしたら、俺は現體制に對して反抗的な目つきをしていたかもしれない。
「君は社會に隱れて潛むモンスターではないか?」
「……俺は文明人ではないかもしれない。科學とか醫者とか無緣でいたいんでな」
その時、よせばいいのに、つい浮かれて、とある映畫の惡役の臺詞を發した。惡い癖だ。
「あの文明人どもは共食いするだろう。俺はモンスターじゃない。ただ時代を先取りしているだけだ」(注12)
後日、俺は何度かこの警官と公園ですれ違った。特警の腕章が恐ろしかったので、奴に道を讓った。奴は傲然と步き、俺に全く無關心だった。路傍の石の如くだった。
だが俺はある時、一念發起し、奴に道を讓ってやらなかった。空閒的に廣い公園であるにもかかわらず、二人はお互いを避けず、眞っ直ぐ步いて、肩と肩を正面衝突させた。激突だ。
「Pardon」(失禮)
それはフランス語だったか、英語だったか、分からない。だが俺は勝利した。勝利したのだ。
絕對に讓らない。それは毆られたって、轉んだって、捨ててはならない。
そう、俺もまた、自分の內心に地下室を抱えていたのだ。(注13)
注9 ヴィトゲンシュタイン『論理哲學論考』(1921年)より
注10 カール・ポッパー『開かれた社會とその敵』(1945年)より
注11 ジョージ・オーウェル『1984年』(1949年)より
注12 映畫『The Dark Knight』(2008年)より。
原文は「these... these civilized people, they'll eat each other. See, I'm not a monster. I'm just ahead of the curve.」
注13 ドストエフスキー『地下室の手記』(1864年)より
『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』エピソード28