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第二章 紅い皇子

 回遊都市ブランの浮上に成功した。だがそれからが大変だった。僕達二人は、そのまま重力機関の間に立てこもっていたのだが、そのうちに海の民に踏み込まれた。そして危うく銃撃戦になるところだった。だがラム小父さんの仲介もあって、何とか穏便に事はすんだ。
 それから僕達二人は、海の民の長老と話し合い、とりあえずブランを海に降ろす事にした。海の民はブランの復活を望まなかった。海を生業とする彼らにとって、ブランの復活などもっての他だった。彼らは浮き島としてのブランを愛し、他の空中都市にはない、利用価値があると考えているようだった。
 テティスは最初、ブランを海へ降ろす事に反対した。だが色々考えて、結局彼女は考えを改めた。彼女はブランの宇宙船化を考えていたようだったが、明らかに無理と分かった時点で諦めた。なぜなら、旧船体部分と思われる下半球最深部と、その他の構造体の切り離しが技術的に困難だった事と、下半球最深部の構造体に、致命的な亀裂を発見したからだった。
 こうして当初の計画は、駄目になってしまったが、世間の反響はとんでもなく大きかった。だがそれは無理もない事かもしれない。死んでいたと思われていた空中都市が、復活したのだから、騒ぎにならない方がおかしい。
 宇宙船化が無理と分かった時点で、僕達二人は姿を消せば良かったのだが、ぼやぼやしているうちに時の人となり、新聞記者が押しかけるようになった。そして緑の共和国と、碧い王国から公式の使者がやって来ると、事態は面倒な方向に転がり出した。
 紅い帝国が動き出したのだ。テティスが、空中都市を復活させた事や、遺失技術を発見した女性として知られてしまった以上、避けられない流れだったかもしれない。だが紅い帝国に目をつけられるのは、面白くなかった。
 現在、紅い帝国は、ラ・マリーヌ最大の国家だ。空中都市ルジュを帝都に、ジョヌとノワを支配下に置いている。他の空中都市を併合している事から分かるように、覇権主義的な都市国家だ。自分達の利益のためなら、どんな強硬手段に訴えてくるか分からない。もちろん緑の共和国と碧い王国は、軍事同盟を結んで、紅い帝国を牽制している。
 今回も、この力関係が大きく影響した。紅い帝国の独占を防ぐために、三カ国の代表が一同に、僕達二人と会う事になった。三カ国でテティスの扱いを公平に決めようという意図が見え見えだったが、残念ながら僕一人ではどうにもならず、ずいぶん悔しい思いをした。だが彼女の身柄を、どこかの国に預けるという事は、なるべく避けたかったので、僕も会議に参加して、可能な限り彼女の立場を弁護するつもりだった。
 今から思えば、これが僕の最初の外交の舞台だったのかもしれない。

 会議は、ブランの神殿跡で行われる事になった。ホスト役に海の民の長老が立ち、出席者を歓待する事になった。緑の共和国の代表は、共和国全権代表で、碧い王国の代表は、外務大臣だった。顔ぶれだけを見れば、まるで国際会議のようだった。
 「帝国の代表は?」
 隣のテティスが僕を見た。彼女は、マリアン人が公式の場で使う、男性用の黒い礼服を着ていた。僕も慣れない黒い礼服を着込み、落ち着かない気持ちのまま答えた。
 「恐らく紅い皇子だ」
 イル・アンシャンテ・フローリス。紅い帝国の代表にして、皇帝の代理人だ。現在、なぜか皇帝が不在のため、事実上の皇帝とも言われている人物だ。恐らくこの星で最も権力があり、最も影響力がある人物だ。まだ三十に達していないと聞いている。
 「奇妙な名前だな。どんな人物だ?」
 紅い皇子とは、帝位継承者序列第一位につく称号らしい。紅い帝国では、昔から紅い皇子は、皇帝の代理人として、首相や外相のような役割を負っている。だが今の帝国は、皇帝が長い間公の場に姿を見せていない。そのため、イル・アンシャンテ・フローリスが全権を握っている。
 「私は主に誰と交渉すればいいと思う?ジュリヤン」
 常識的に考えれば、緑の共和国だろう。僕の所属する国でもあるし、一番まともな国だと思う。碧い王国は、身分制社会で、貴賎の区別が激しく、緑の共和国ほど自由がない。紅い帝国は、新興の国で、現在最も勢いがある国だが、軍の力が大き過ぎる国だ。
 「だが一番強いのは紅い帝国なのだろう?」
 それは否定しない。だが彼らと取り引きするのは難しい。何事も力で解決する傾向があり、やむなく他の二カ国が、強力な同盟を結んだ経緯がある。
 「それにしても大袈裟だな。私はそんなに重要人物か?」
 テティスが会議場を眺めて苦笑した。恐らく空中都市が一つ復活するだけで、この星の勢力図が大きく変わると考えている連中が、多いのだろう。だが海の民は、ブランの復活を望んでいないし、回遊都市ブランの所有権は、昔の条約で三カ国のいずれにもない。
 「ジュリヤン、私はこの星の住人ではない。だからどうしても当事者の気がしない」
 僕も場違いな所にいるような気がする。だがテティスほど気楽にはなれない。
 「そんなに緊張しないで、よく考えて発言して欲しい」
 二人とも喋れないという特殊事情から、僕はテティスの通訳として会議に出席した。そして表向きには、手話で彼女と意志の疎通をし、僕が彼女の意志を、他の人に筆談するという事になっている。だからこの会議場に、筆談用の大きな黒板が運び込まれていた。
 「遅れてすまない。始めよう」
 その時、赤い羽眼鏡をかけた小柄な男が、軍人を従えてやってきた。まるで仮面舞踏会に出席するかのような姿だ。僕は紅い皇子を初めて見たが、違和感を覚えた。最初はその奇妙な格好のせいだと思ったが、後で実はそうではなかった事を僕は知った。
 紅い皇子が着席すると、会議が始まった。最初に形式的な自己紹介があったが、すぐに会議は本題に入った。三カ国の代表は、明らかに今回の事態を重視していた。
 「まず事実の確認から始めよう」
 緑の共和国全権代表が発言した。
 「君達が、遺失技術を発見したと考えてよいのか?」
 正確には違うが、そう考えてもよいだろう。僕は肯定の丸印がついたプラカードを上げた。
 「今もブランを再浮上させる事は可能なのか?」
 全権代表がそう尋ねると、僕は丸のプラカードを再び上げた。
 「海の民の長老は、ブランの浮上に賛成か、反対か」
 海の民の長老は、反対だと答えた。
 「現在、ブランの所有権は、いずれの国や組織、集団にもないと認識しているが、それには当然、海の民も含まれると私は考えているが、皆さんの考えはどうですか?」
 緑の共和国全権代表がそう言うと、碧い王国の外務大臣も、紅い帝国の紅い皇子も、その考えに同意した。当然、海の民の長老は異議を唱えたが、分が悪かった。
 「私は海の民に、ブランから今すぐ出て行けと言っているのではない。海の民も他の都市国家同様、ブランの所有権を持っていないと指摘しただけだ」
 緑の共和国全権代表は、不満そうな海の民の長老を宥めた。
 「で、これからどこの国が、ブランの所有権を持つのか話し合うのか?」
 碧い王国の外務大臣がそう言うと、紅い皇子が突然、調子外れにけたたましく嗤った。
 「おいおい、ブランはそこの二人の手の内にあるんだぜ。俺達じゃブランを飛ばせない」
 外務大臣が不愉快そうに紅い皇子を見た。全権代表は意見を述べた。
 「要点を整理しよう。ブランの所有権の決定と、二人がブランの再浮上に技術協力するか、否かが問題だ。前者の決定は、後者の問題解決を前提とする」
 僕達二人に議場の視線が集った。僕は見せかけの手話をテティスにしながら、念話で彼女に話しかけた。だがこの時、彼女が手話で全く答えなかった事に気がついたのなら、僕の手話は、不自然なものに見えただろう。だけどこの時、僕もそこまで気が回らなかった。
 「どうする?彼らはブランの浮上に技術協力を要請しているけど」
 「条件を聞こう。交渉はそれからだ。見返りなしの技術協力などできない」
 この時なぜかテティスは、紅い皇子を見た。だが僕は念話を続けた。
 「でも彼らが強引な手段に訴えたら、僕達に対抗策はないよ」
 「私を捕らえるなら、自爆すると伝えろ。私が死ねば、技術は手に入らない」
 紅い皇子がまた調子外れにけたたましく嗤った。そして猿のように両手を叩いて、テティスを称賛した。議場の誰もが唖然とする中、紅い皇子は彼女を見た。
 「勇ましいお嬢さんだ。さすがに他所の星の人は違うね」
 僕の内側で、紅い皇子の声が響いた。耳で聞いた声じゃない。これは念話だ。
 「数日前、女の声で眼が覚めた。そして天体観測をしている連中から報告があった。宇宙船と思われる人工物がこの星に落下したとね。そこで俺は空中戦艦に乗り込んで、出迎えに行ったんだ。そしたら猫の子一匹いやしない。落下した物体の破片すら出て来ない」
 僕は驚きながら、紅い皇子の念話を聞いた。
 「当然、俺は頭に来た。天体観測をやっている奴らを締め上げようかと思った。だが帰ったら、ブランが浮いたって言うじゃねぇか。俺はピンと来たね。どうやら俺より先に子猫ちゃんをかっさらった奴がいるとね」
 紅い皇子がにやりと笑うと、僕はテティスを見た。
 「念話を使う人が僕達以外にいるなんて」
 「別に驚く事ではない。ジュリヤンが使えて、他の者が使えない方が不自然だ」
 テティスは比較的冷静だった。最初から気が付いていたのかもしれない。
 「そういう事だ。兄弟。俺とお前は同類なんだよ」
 だがこの赤い羽眼鏡の男は、僕と違って、普通に喋る事もできる。僕は改めてこの念話能力は、一体何なのだろうと思った。そして僕が何か言おうとしたところで、緑の共和国全権代表が、僕達三人の沈黙を奇妙に思ったのか、何か発言しようとした。
 「もうちょっと待ってくれ。俺はこの二人に相談の時間を与えたい」
 紅い皇子が肉声でそう言うと、他の二カ国の代表は変な顔をした。だが手話もなしで、僕達三人が何か激しく目線を送り合っている様子から、ただならぬものを感じたようだった。
 「ジュリヤン、その女は嘘をついている。気をつけな」
 紅い皇子が再び念話でそう言うと、テティスが鋭い眼差しで彼を見た。
 「私は嘘などついていない」
 「だが隠し事はしているだろう?お前の正体を知らないから、兄弟はそんなに呑気でいられるんだ。もし知ったら、ジュリヤンはどういう反応をするだろうな?」
 テティスは眼の色を変えた。
 「憶測でものを言うのは止めろ。私の何を知っていると言うのだ」
 「状況から推測する事はできる。お前は軍人だろう?」
 明らかにテティスは動揺していた。紅い皇子の念話は続いた。
 「多分、お前は俺達の知らないどこか他所の星の軍人で、偶然この星に辿り着いた。そして重力機関の専門的な知識を持ち、空中都市で、この星から脱出しようとしている」
 テティスは沈黙した。下を向いて僕の顔さえ見ようとしない。
 「見ろ、ジュリヤン。この女は隠し事をしている。非常に危険だ」
 「どうしてテティスが危険なんだ?」
 僕は微かに震えているテティスの手を見た。
 「この女は、ラ・マリーヌを脱出して母星に帰ったら、この星の話を必ず仲間にする。そうするとこの女の仲間が、大挙してこの星に押し寄せてくる。火を見るよりも明らかだ」
 謎の宇宙艦隊が、ラ・マリーヌに侵攻する様子が、ありありと僕の脳裡に描かれた。紅い皇子は、僕を見ると、黙って首肯した。隣のテティスはもはや心を閉ざして、何も言わなかった。だがその時、僕の内側で何かが弾けた。
 「それがどうした?だから何だって言うんだ」
 紅い皇子は、呆れたように肩を竦めた。
 「それがどうしたか。無敵の言葉だな。だが兄弟、お前が拾った女は、清らかな天女じゃない。どちらかというと、血と鉄で汚れているかもしれない。信じてみたい気持ちも分かるが、危険性の方がはるかに高い。その女は、この星の敵だ」
 最後の言葉に、敵意をはっきり感じた。だが僕はテティスの手を掴んで言った。
 「違う。彼女は敵じゃない」
 テティスが驚いて、僕を見るのが分かった。
 「じゃあ何だ?」
 出会った時から、それは決まっている。僕の中で確かなものだ。
 「彼女はお客さんだ。この星のゲストだ。僕が責任を持って彼女を送り帰す」
 紅い皇子は、猿のように両手を叩いて、調子外れにけたたましく嗤った。
 「こいつは傑作だ。全く困った兄弟だぜ。その女の危険性を全く分かってねぇ」
 僕は驚くテティスを見た。何とか無理矢理微笑もうとしたが、上手く行かなかった。脇の下から冷たい汗が流れ、腹の下から力が抜けて気分が悪い。だが僕は言うべき事は、言ったと確信していた。心なしか彼女の眸の色が変化して、潤んだように見えた。
 「皇帝の代理人として宣言する。この女は帝国の敵であり、この星最大の脅威だ。絶対に生かして帰してはならない。ゆえにこの議場から出た瞬間から、この女の生はなきものと思え」
 紅い皇子は突然、厳かに肉声でそう宣言した。
 「一体どういう事だ?何を話し合っていた?」
 ずっと謎の沈黙を見守っていた共和国全権代表が、強い苛立ちを込めて尋ねた。
 「この女は異星人だ。この星の人間ではない」
 紅い皇子がそう答えると、議場にどよめきが広がった。
 「なぜそう断言できる?証拠はあるのか?」
 碧い王国の外務大臣が、紅い皇子に尋ねた。
 「証拠?ブランを飛ばしたのが何よりの証拠だ。俺達マリアン人にはできない芸当だ」
 「遺失技術を発見したのではないのか?」
 共和国全権代表が訊くと、紅い皇子は答えた。
 「違うな。海の底に眠っている大陸を除けば、遺失技術なんてもう種切れだ」
 マリアン人の活動領域は、空中都市に限られている。紅い皇子の言う通りかもしれない。
 「帝国の見解では、彼女が異星人であるとしても、我が共和国はそれを信じる理由がない。ましては一方的な死刑宣告など、断じて認められない。人権に対する侵害の可能性もある」
 「人権?」
 紅い皇子は、共和国全権代表の反論に、とても不思議そうな顔をした。
 「この女は、この星の人間じゃない。国籍もなければ、滞在権もない。完全に治外だ。それにこの女の超能力を考慮すると、もしかしたら人間でさえないかもしれない」
 紅い皇子は、そんな奴に人権なんかあるのか、と言わんばかりに肩を竦めた。
 「超能力?」
 碧い王国の外務大臣が、興味深げに紅い皇子に尋ねた。
 「念話だよ。この女は念話を使う。さっきからずっと黙っているのはそのせいだ。隣の少年と念話で会話している。手話はみせかけだ。その証拠にこの女は全く手話で答えていない」
 紅い皇子がそう指摘すると、また議場はどよめいた。僕は不味いと思った。このまま紅い皇子に喋らせるのはよくない。テティスが完全に、異星人扱いされてしまう。僕は立ち上がると、黒板に向かって歩いた。そして白墨を手にして、筆談を開始した。
 「テティスが何者であれ、生物として生存の権利があり、他者の生存を妨害しない限り、自由に活動する権利がある。どうか彼女に、この星に滞在する権利を認めてほしい」
 僕がそう書くと、直ちに共和国全権代表は、僕を見て返答した。
 「共和国は、重力機関の技術提供を条件に、市民権を付与する用意がある」
 「碧い王国も、共和国と同じ条件で、滞在権を付与する用意がある」
 外務大臣もそう続くと、僕は俯くテティスを見た。悪くない条件だと思う。これ以上の条件を引き出す交渉は、僕に出来そうもない。だが紅い皇子は言った。
 「やれやれ。お前達は、事態の危険性を全く分かっていない。本当にこの星を治めて、国民の安全を守っている為政者なのか?俺達は道を誤ったかもしれないんだぞ?」
 だが二カ国の代表は沈黙を守った。孤立した紅い皇子は歎息した。
 「分かった。この件に関して、帝国は独自の路線を取る」
 紅い皇子は、交渉は決裂だと言わんばかりに席を立ち上がった。
 「待て。交渉は始まったばかりなんだぞ」
 共和国全権代表が呼び止めたが、紅い皇子は振り返らずに言った。
 「帝国は総力を挙げて、その女の命を狙う。俺は異星人からこの星を守る」
 紅い皇子は、周囲の軍人を従えて、静かに立ち去った。僕は気分が悪くなるような眩暈を覚えて、テティスを見た。だが彼女は、自信を喪失したように、俯いたままだった。

 ブランを後にした僕達二人は、とりあえず緑の共和国の首都、ヴェルに行く事にした。ソルシィエ号には、共和国空軍の護衛という名の監視がつき、厳重な護衛の中、飛行した。だが僕達は、途中で海上に下りて、休憩してからヴェルに行く事にした。
 ヴェルに行く前に、僕達二人で話し合う必要があったからだ。共和国空軍の水上機部隊は、海上に降りずに上空を滞空して、周囲を警戒した。僕はソルシィエ号を海上に着水させると、操縦席から立ち上がった。だがテティスは後席に座ったままだった。
 「私はあの男が苦手だ。恐ろしく切れる」
 テティスが念話で語りかけてくると、僕も黙って頷いた。
 「結局、何も言い返せなかった」
 僕も大した反論はできなかった。だがテティスは酷く後悔しているようだった。
 「ジュリヤン。今からでも遅くない。ここで別れよう」
 「嫌だ」
 僕はにべもなく即答した。
 「ジュリヤン」
 テティスが困ったような顔をして、僕を見た。
 「ここまで来て今さら引き返せない。君が宇宙に帰るまで一緒にいる」
 僕はテティスを見返した。だが彼女は言った。
 「これまでの協力に感謝している。だが私と一緒にいると危険だ。ジュリヤンまで命を落すかもしれない。恐らく帝国は容赦しない。そうだろう?」
 そんな事は分かっている。でも僕にも譲れない気持ちがある。
 「僕は君を独りにしたくない」
 この時、なぜかテティスは傷ついたような顔をして俯いた。だが僕は続けた。
 「大体、案内人もなしで、君独りでこの星を渡れると思っているのかい?」
 するとテティスは、もう耐えられないといった様子で僕を見た。
 「そうじゃない。ジュリヤン、私が辛いんだ」
 僕は衝撃を受けた。テティスがそんな風に思っているなんて、思いも寄らなかった。
 「僕が迷惑だったかい?余計なお世話だった?」
 「いや、そうじゃない。感謝している。だけど私は、ジュリヤンに何もお返しができない。命がけで無償の仕事を要求している。私はそれが辛い」
 嘘だ。テティスは嘘を吐いている。僕には分かる。彼女は本当の気持ちを隠している。それが何なのか分からないが、彼女の言動はおかしい。もし本当に生きて帰りたいなら、彼女はそんな事を、いちいち気にしてはいられないはずだ。僕は彼女の心が分からなかった。
 それから僕達は、しばらくの間沈黙した。海面から魚竜が飛び跳ね、遠くで首長竜の頭が伸びるのが見えた。この星には、大型の海洋生物が多数生息している。いつしかソルスィエ号のフロートにも、虹色の頭足類が張り付いた。
 「この星は美しいな」
 テティスは遠くを見つめた。
 「僕は君の心がよく分からない」
 「私には心がない」
 テティスは無表情に言った。
 「でも君は僕の心の声を聞く事ができる」
 「これは心の声じゃない。念話だ」
 「念話?念話って一体何?」
 「ジュリヤンは私の考えている事が全部分かるか?」
 「分からない」
 「私だってジュリヤンが考えている事まで分からない」
 「念話は心の声じゃないの?」
 「念話は言語に左右されないだけで、会話と大差ない」
 「でも僕は心で君の声を聞いている」
 「心は身体のどこにある?」
 「分からない。でもきっとどこかにある」
 「私にはない」
 僕は沈黙した。
 「私は物だ。一度壊れてしまえば、血と肉の塊になって世界を汚す」
 彼女は遠くを見た。
 「ジュリヤン。私には愛とか恋とか、そういう感情が最初からない」
 彼女の話は、意味がよく分からなかった。だが僕は、真剣に彼女の話を聞いた。
 「私は戦うために造られた存在なのだ」
 「でも君は女の人の形をしているよ」
 「私が女性体である理由は、宇宙船のパイロットとして、対G耐性を高めるためだ」
 彼女はまた分からない言葉を使った。僕はもう我慢ならなかった。
 「違う。君は戦うために、女の人の形をしているんじゃない」
 「じゃあ何のために、私は女性体なのだ?」
 思わず返答に詰まった。でも答えなければならなかったので、無理矢理答えた。
 「それは、お化粧をしたり、綺麗な服を着て、おしゃれをするためさ。そして誰かと楽しくお喋りしたり、好きな人と一緒に食事するためさ」
 テティスはちょっと驚いたようだった。そして好奇に満ちた眼差しで僕を見た。
 「全然答えになっていない」
 「そんな事はないさ」
 僕はその場で思いついた自説を、強引に展開した。
 「きっとそういう事を繰り返して、皆人間らしい心を獲得するんだ。間違いない」
 テティスは小さな声で笑った。本当に小さな声だったが、確かに彼女は笑った。
 「昔、弟がいたら、面白いだろうなと思った事がある」
 僕は不満だった。凄く不満だった。
 「私は今、なぜかとても楽しい気持ちに襲われている。好奇心を感じる」
 僕は楽しそうに笑うテティスを見た。さっきまでの影が、嘘のように消えている。
 「ジュリヤン。気が変わった。この星を案内してくれ」
 テティスがそう言って、振り返ると、なぜか僕は赤面して、しどろもどろに答えた。
 「分かった。約束するよ。じゃあ、行こう」
 僕達二人は、再びソルスィエ号に乗り込むと、海上から飛び立った。

 それから僕達二人は、緑の共和国に入国した。目的は元首官邸で、共和国元首と会うためだった。だがそれよりも僕は、テティスにヴェルの街並みを見せたかった。ようやく観光らしく、この星を案内できるからだ。時間があれば買い物だってできるだろう。
 「これが本来の空中都市なのだな。ブランとは大違いだ」
 テティスが港で、緑に覆われた外壁を眺めながら感想を述べると、僕は胸を張って答えた。
 「そうだ。これが本物の空中都市だよ。壮観だろう?」
 空中都市ヴェル。この星で二番目に大きな空中都市だ。周囲に幾つもの衛星都市を従えている。いずれも小型の空中都市だが、大型の飛行船よりはるかに大きい。ヴェルは、商業都市として栄え、歴史もある。恐らくこの星最大の経済規模を誇る空中都市だろう。
 「で、最初はどこから行く?」
 僕がテティスを見ると、彼女は周囲を固める黒服の護衛達を見た。
 「まずは無粋な邪魔者を片付けたい。ジュリヤンは足に自信があるか?」
 テティスがこちらを見ると、僕は微笑んだ。
 「ああ、任せて、足なら自信がある」
 「なら決まりだな。二手に別れて、念話で連絡しよう。私は適当に走る」
 僕が頷くと、次の瞬間、僕達二人は港から街に向かって駆け出した。当然、護衛役の男達は、慌てたが、まさか逃げるとは思っていなかったので、初動で立ち遅れた。さらに僕達は二手に別れて逃げ出したので、どっちを優先して追うべきか、彼らは迷ったようだった。
 こうして僕達は、黒服と追いかけっこをしながら、ヴェルを観光する事になった。

 「傑作だな。あの男達、今頃大騒ぎだぞ」
 「構いやしないさ。どうせ官邸には行くのだから」
 十分後、僕達二人は、広場で合流した。初めて分かった事だが、この程度の距離なら僕達二人は離れても、念話で意志の疎通ができた。一体どの程度の距離まで、念話は可能なのか分からないが、とにかくお互いの顔を見なくても、念話による意志の疎通は可能だった。
 僕達二人は、ヴェルの街並みを歩いた。平日の昼間なのに、街は閑散としていた。今は午睡の時間でもない。僕はすぐに思い当たった。
 「残念だね。今はバカンスだから、やっているお店が少ないや」
 「バカンス?ああ、夏休みの事か」
 「マリアン人は、バカンスと人権を重視するんだ」
 そう説明すると、隣を歩くテティスが、僕を見た。
 「夏休みと人権?奇妙な組み合わせだな」
 「そんな事はないよ。夏の長期休暇は人間の基本的権利だ」
 テティスは僕を見て微笑んだ。
 「なるほど、ロマンス系の民族が言いそうな事だ」
 「いたぞ!回り込め!」
 街角から黒服の男達が現われた。
 「やばい。もう見つかった。逃げろ」
 僕達二人はその場から逃げ出した。

 それから僕達二人は、革製品を扱う高級店に逃げ込んだ。テティスは閑散とした売り場を歩き、革のバッグを一つ手に取って確かめた。そして驚いたように目を見開いた。
 「これはヘルメスではないか?」
 「違うよ。エルメスだよ」
 「なぜこの星にヘルメスがある。偽物ではないのか?」
 「偽物?何言っているんだよ。これは本物のエルメスだよ」
 僕は売り場から革製品を一つ手に取って、商品のロゴを見せた。
 「確かにこれはヘルメスだ。間違いない。見た事がある」
 「一体何言っているのさ。偽物とか本物とか」
 「多分、故郷の星から受け継いだのだろう」
 テティスは心底驚いているようだった。僕は呆れて彼女を見た。
 「別にバックなら、どこでも同じじゃないか」
 「何を言っているのだ。ジュリヤン。これは重大な発見だぞ!」
 僕は歎息して、肩を竦めた。だがテティスは興奮も冷めぬ様子で言った。
 「この星はどれくらい孤立していたのだ?」
 僕達マリアン人が、どれくらいの間、鎖国していたのか、正確には分からない。だが何十世代にも渡る間、僕達マリアン人が、故郷の星テルから受け継いだものは沢山ある。このエルメスの革製品もその一つだ。
 「いたぞ!出口を押さえろ!」
 その時、店の入口から黒服の男達が、雪崩れ込んで来た。
 「ほら、テティス。逃げるよ」
 僕はテティスの手を取って、駆け出そうとした。
 「待ってくれ。ジュリヤン。もう少し見たい」
 僕はテティスの手を掴んだまま、お店の出口から脱出した。

 黒服を振り切ると、テティスは残念そうに片手を見た。バックはない。
 「後で買えば、いいじゃないか。時間はきっとある」
 僕がそう言うと、なぜかテティスは睨んだ。
 「私達は追われているのだぞ?悠長に買い物している暇などない」
 「だったらなおさらだね。僕達は悠長に買い物をしなければならない」
 僕が自信たっぷりにテティスを見ると、突然見知らぬ人から声をかけられた。
 「やぁ、そこの二人。ちょっと似顔絵を描かせてくれないか?」
 通りがかった広場の片隅で、木陰の椅子に座っていたサングラスの青年が、声をかけてきた。木炭とスケッチブックを持っている。どうやら絵描きらしい。僕達二人が顔を見合わせると、青年はさあ座ったといわんばかりに、椅子を勧めた。
 「私は写真映りが悪い」
 テティスは肉声で答えた。訛っているが、この星の言葉だ。僕はちょっと驚いた。
 「俺は写真家じゃない。絵描きさ。君の美しさを当社比120%で描いてあげよう」
 「本当か?写真より美しく私を描けるのか?」
 かなりたどたどしく、幼稚な喋り方だったが、テティスはラ・マリーヌの言葉を使った。
 「任せろ。こう見えても俺はプロだ」
 「時間がない。どれくらいで描ける?」
 「五分もかからない」
 「分かった。描いてくれ」
 最初にテティスが椅子に座り、僕がその後ろに立った。
 「ところでお二人は、恋人かな?それとも仲のいい姉弟?」
 絵描きの青年は、手を動かしながら、テティスに尋ねた。思わず僕達は、顔を見合わせた。
 「これは絵にとって重要な問題だ。答えてくれ」
 思わず僕が顔を赤らめると、テティスは神妙に答えた。
 「今のところ、仲のいい姉弟という事になっている」
 テティスがラム小父さんの設定を持ち出すと、絵描きの青年は苦笑した。
 「なるほど。じゃあ、今はその線で描こう」
 絵描きの青年は、あっという間にテティスの素描を仕上げた。素描は、彼女の特徴をよく捉えていた。いつも強気の眉毛がちょっと下がり、細めの眼が、いつもより見開いて描かれている。全体として柔らかい印象を与える、優しげな彼女の素描だった。
 「よし、次はそこの少年だ」
 今度は僕が椅子に座り、テティスが後ろに立った。
 「いつも強気の姉貴の弟分じゃ不満か?」
 思わず僕は、サングラスの青年を見返した。
 「これは絵にとって重要な問題だ。答えてくれ」
 一瞬、テティスが僕を見たが、僕は黙って頷いた。
 「そうか。そうか。やっぱりそうだよなぁ。いつまでも弟扱いして欲しくないよなぁ」
 絵描きの青年は、酷く楽しげに、僕を素描した。今度はテティスが顔を赤らめて、下を向いた。僕も恥ずかしかったが、真っ直ぐ前を向いて、決して顔を下げなかった。そして素描はあっと言う間に出来上がった。心なしかいつもの僕より、格好よく大人びて見えた。
 「将来が楽しみだな」
 今の僕はただの水上機乗りに過ぎない。
 「ありがとう。この絵は大切にする。いくらだ?」
 テティスがそう尋ねると、絵描きの青年は笑った。
 「いや、いい。思いつきでやった事だ」
 その時、黒服の男達が広場にやって来た。僕達二人は、顔を見合わせると立ち上がった。テティスが重ねて、青年に礼を言うと、僕達二人は、急いでその場を立ち去った。

 「いい人だったな」
 広場から離れると、テティスが僕を見た。僕はある事を思いついたが、言い出すのに迷った。
 「ジュリヤン?」
 「テティス。よかったら、絵を交換しないか?もちろん僕の絵でよければだけど」
 テティスはちょっと驚いた後、悪戯っぽく微笑んで僕を見た。
 「仕方ない。他ならぬ弟の頼みだ。特別にきいてやろう」
 僕達二人は、お互いの似顔絵を交換した。とても恥ずかしい事をしているみたいだった。
 「さぁ、ジュリヤン。次はどこに行く?」
 「塩組合に行こう。ちょっと用事がある」
 僕達二人は、塩組合の事務所に向かった。中には、水上機乗りと事務員が何人かいた。塩組合はバカンスの時期も平常通り活動していた。親方はいるだろうか。
 僕が事務所に入ると、水上機乗りの先輩が驚きの声を上げた。
 「ジュリヤン。どこに行っていたんだ。バカンスか?」
 だが先輩は僕の後ろに立つテティスの姿を見て、口笛を吹いた。
 「了解。訊くだけ野暮だったな。親方に用か?呼んできてやる」
 僕がはにかんで頷くと、先輩はすぐに親方を呼んできた。
 「ジュリヤン。ちょうどいい時に帰ってきた。本当にどうしようかと思っていたところだ」
 太った親方はタオルで汗を拭きながら、姿を現した。そして僕とテティスを見る。
 「お久しぶりです。親方。一体何があったんです?」
 僕は白墨を手に取って、事務所の黒板で筆談を始めた。
 「役所からお前を組合から外すように圧力をかけられた。一体何をやらかした?」
 親方はそう言いながら、テティスをちらちら見ていたので、何となく事情を察してしまったようだった。僕は文字を費やして説明するのが嫌だったので、親方の想像に任せた。
 「ジュリヤンが女を連れて来るなんてなぁ」
 親方は何だか嬉しそうな顔をして、僕達二人を見た。
 「呑むか?」
 親方の問いに、なぜかテティスが頷いて答えた。
 「こいつは剛毅な娘さんだな。ジュリヤンを頼むぞ」
 親方が豪快に笑うと、事務所の奥に移動して、親方とテティスで葡萄酒を一本空けた。
 「それでこれからどうする?」
 親方がそう尋ねると、僕は机の上に濡れた指を走らせた。
 「ここを辞めます」
 「そうか」
 親方はしばらくの間、何か考えた後、立ち上がった。
 「預かりものがある。お前の両親の遺品らしい。持って行ってくれるか?」
 初耳だった。なぜそんなものがここにあるのか?僕が驚いている間に、親方は引き出しの奥から取り出した。それはボロボロになった一枚の布切れだった。赤い生地に金色の紋章が織られている。どこかで見たような気がするのだが、どこだったのか思い出せない。
 「ラムの野郎が俺に押し付けたんだよ。詳しい話は奴にでも訊け」
 僕とテティスはその布切れを広げて眺めたが、やっぱり思い出せなかった。
 「まぁ、とにかく若い二人に乾杯だ。そいつは俺からの餞別だと思ってくれ」
 僕は布切れを畳んでしまうと、テティスと親方と一緒に乾杯をした。

 結局僕達二人は、塩組合の事務所を出たところで、黒服に捕まった。もう用事は済んでいたので、全然構わなかったが、予定が狂った官邸の役人達は怒っていた。それでも共和国元首と会わない訳にも行かなかったので、予定通り僕達二人は、共和国元首と会談した。
 会談は終始穏やかな調子で進んだ。共和国元首は、僕達二人が紅い帝国に捕まらなければよい、と考えているようだった。破棄された空中都市を復活させる遺失技術には、それほど関心がなく、どちらかというと問題になるので、嫌っている様子だった。
 「今回の事件に関して、共和国にも様々な意見がある」
 初老の共和国元首は、官邸の応接室をゆっくり歩きながら言った。
 「現状維持が望ましいが、遺失技術をみすみす放置しておくのは、将来のためにならないという意見が根強い。そこで碧い王国と合同で、空中遺跡アルジャンの重力機関を調査する話が持ち上がっている。どうか二人も参加してくれないか?」
 僕がテティスを見ると、彼女は頷いた。もとより僕達二人もそのつもりだった。ブランが駄目なら、アルジャン。それも駄目なら、オルという順番で調べるつもりだった。
 「だが帝国の妨害が心配だ。戦闘は好ましくない。危険ならすぐに引き返すように言ってある。だが碧い王国は、帝国との一戦も辞さないと言っている。困った事だ」
そこで初老の共和国元首は僕を見た。
 「ジュリヤン・カラヴェル。今日付けで、君を合同調査隊の名誉隊長に任命したい。やってくれるか?もちろん実務は、両国の軍人が仕切るが、皆のまとめ役になって、事態が危険な方向に行かないように努力して欲しい」
 とんでもない大任だった。だがどうも嫌な感じがした。
 「ジュリヤン。私は君が共和国の良識ある市民として振舞う事を、期待している」
 初老の共和国元首は、会談の最後でそう僕に釘を刺した。どうやら彼は、僕が共和国を裏切るかもしれないと疑っているようだった。確かに状況によっては、僕はテティスの生存を優先するつもりだったから、彼の疑いは正しい。だが僕の所属が、緑の共和国である事も確かだ。
 「あの共和国元首とやらは、完全に私を無視していた」
 官邸を出ると、テティスがそう感想を述べた。
 「共和国も一枚岩じゃないからね。色々な意見があるさ」
 「多様な意見があるのはよい。だが烏合の衆を率いて、敵地に赴くのはよくない」
 明らかにテティスは、僕達二人だけで調査する事を望んでいた。
 「そうだね。こっちは寄せ集めで、帝国は紅い皇子に統率されている」
 テティスは気が重そうだった。確かに面倒な事になった。
 「いっその事、僕達二人だけでやってしまおうか?」
 僕は冗談のつもりで軽くそう言ってみた。だがテティスは真に受けた。
 「悪くないな。ジュリヤン、そうするか?」
 僕は早くも言ってしまった事を後悔した。

 出発の朝、僕達二人は、一足先にソルスィエ号に乗り込んだ。合同調査隊の飛行船は、共和国空軍の水上機部隊と共に出発し、現地で王立空軍の水上機部隊と合流する予定だった。だが僕達二人は、合同調査隊より先にアルジャンに行くつもりだった。
 監視の目はそれなりに厳しかったが、僕達二人は、自分の機体で行く事を強硬に主張して、何とか認めさせたので、出発の朝にソルスィエ号に乗り込む事はできた。だが問題はここからだった。共和国空軍の追手を振り切らなければならない。
 「テティス、本当にこれでいいの?」
 僕は最後の確認をした。
 「今さら何を言っている。絶対私達だけで行った方がいい」
 何か考えがあるようだ。僕は重力機関を作動させると、機体を浮かせた。
 「了解。じゃあ、発進するよ」
 ソルスィエ号は港を発進した。横に停泊する合同調査隊の飛行船が見える。機体はゆっくりと滑り出し、港を出た。だがすぐに二機の軍用水上機が、緊急発進してきた。
 「直ちに旋回せよ。そしてこちらの指示に従え」
 無線から警告が聞えた。僕は速度を上げて、後ろの二機を引き離しにかかった。だが防風越しに、機関砲の銃弾が掠めるのが見えた。僕は早くも、後ろを取られないように注意した。
 「これは警告だ。次は当てる」
 無線はそう言った。僕は後ろを振り返って、二機を見た。
 「前席、敵は少ない。反撃するべきだ」
 「この水上機に武装はないよ」
 僕がそう答えると、後席はかなり驚いたようだった。
 「正気か?」
 「正気さ。共和国と戦うつもりはない」
 ソルスィエ号は激しく機動し、ひたすら逃げ回った。
 「前席、このまま引っ張って行くつもりか?」
 それはごめんだ。どこかで振り切りたい。途中で雲に紛れて、見失わせよう。
 「前席、針路が正しくない。東に逸れている」
 「まずはあの二機を振り切る!アルジャンに行くのはそれからだ」
 だが二機の軍用水上機は、共和国の防空識別圏を出たところで、あっさり引き返した。理由は分からなかったが、何らかの命令を受けて帰投したようだった。とにかく助かった。
 「前席、この次は武装するべきだ。命が幾つあっても足りない」
 僕は民間人のパイロットだぞ。戦闘機と戦わせるつもりか?
 「すまない。ジュリヤン。そんなつもりで言ったんじゃない」
 分かっているさ。でもこの次は、どこかで武装を調達しよう。自衛手段は必要だ。
 「ところで、私はまだアルジャンの詳しい話を聞いていない。どんな所だ?」
 空中遺跡アルジャンは、遺失都市の一つで、昔の戦争で破壊された。現在は条約によりどこの国にも所有権はない。アルジャンは空中に浮いたままなので、重力機関は生きている。基本的に無人だが、空賊の根城になっても困るので、定期的に三ヶ国が巡回している。
 「戦争で廃虚になった空中都市か。どんな戦争だったのだ?」
 僕は紺碧の海を見ながら、針路をアルジャンに向けた。
 「昔の話さ。僕が生まれるずっと前の話だ」
 紅い帝国の成立以前、アルジャンが勢力を持っていた時代があった。そして銀の槍と呼ばれる地上時代の遺失兵器を多く所有して、軍事的にも優位に立っていた。だがこれを危険視したジョヌとノワの連合軍が、アルジャンに対して宣戦布告をし、戦争が始まった。
 銀の戦争は、大洪水以降で最大の戦争だった。この戦いで、多くの人命が失われ、多くの水上機と飛行船が失われた。そしてアルジャンは、死の光と呼ばれる遺失兵器を銀の槍に搭載する事に失敗して、自国を滅ぼした。ジョヌとノワは、戦争に勝ったが、決定的に衰退してしまった。そして後にルジュとの戦いに敗れて、紅い帝国に併合される。
 「死の光に銀の槍か。どんな兵器だったのだ?」
 雲一つない空の下、宙に浮かぶ黒い点が見えてきた。アルジャンだ。
 「知らない。どの本を読んでも、詳しい説明がないんだ」
 それから僕達二人は、アルジャンに到着し、ソルシィエ号を港に隠した。僕は拳銃を懐に入れると、テティスと一緒に、完全に廃虚と化したアルジャンの外壁を歩いた。所々に損傷した外壁があり、人骨らしきものが散らばっていた。この辺りは、戦禍が色濃く残っている。
 「重力機関の間までの道程は分かるか?」
 残念ながら僕は知らない。事前に見せてもらった見取り図を書き写したものしかない。
 「どうせ下半球最深部にあるのだろう?」
 恐らくそれは間違いない。どの空中都市も大体同じ形をしている。
 「ジュリヤン、下に向かって降りる階段を探そう」
 その時、僕の内側で何か小さな声が聞えた。僕達二人は、同時に立ち止まった。
 「テティス?」
 テティスは振り返ると、黙って首を振った。彼女の声じゃない。だが不気味な囁き声は、断続的に聞えた。まるで墓場から聞える死者の声のようだった。
 「誰かいる。それも複数」
 「まさか幽霊じゃないよね?」
 「違う。これは念話だ」
 とっさに紅い皇子を思い出したが、この念話はとても弱く、全然はっきりしない。
 「念話だって?一体誰だ?」
 「分からない。だが敵と考えて間違いない」
 テティスがそう答えると、僕も頷いた。
 「多分、帝国軍の待ち伏せだ」
 僕は懐から拳銃を取り出すと、安全装置を外した。
 「引き返そう。危険だ」
 だがどこか遠くを見ていたテティスが答えた。
 「問題ない。たった今、全て倒した」
 「全て倒した?どうやって?」
 僕は驚いた。だがテティスは答えずに黙って歩いた。そして外壁から居住区に入ると、廃虚になった街角で、紅い衣を着た男達が、泡を吹いて悶絶していた。手に銃などの武器を持っていたが、なぜか彼らは全員、目や耳、鼻や口などに黒い拘束具を一箇所だけつけていた。
 「テティス?」
 僕はテティスを見たが、彼女は男達を見捨てて行った。
 「気絶しているだけだ。死んでいる訳ではない」
 僕はテティスに説明を求めた。これは一体どういう事だろう?
 「念話には指向性がある。使い方によっては武器になる」
 テティスは表情を消して、冷たくそう答えた。
 「あの者達は、念話で攻撃してきた。だから念話で反撃した。それだけだ」
 僕は黙ってテティスの説明を聞いた。
 「彼らの能力は低い。念話能力のない者には脅威になるだろうが、私達には通じない」
 私達?もしかしたら僕もそうなのか?
 「そうだジュリヤン。この程度の攻撃なぞ、蚊が刺したほどでもあるまい」
 攻撃?もしかしてさっきの囁き声みたいなのがそうだったのか?
 「訓練を受けていない一般人には効果がある。意志の弱い者はあれだけで昏倒する」
 初めて自分の念話能力が怖くなった。この力は一体何なのだろう?
 「兄弟、いい加減分かっただろう。これがその女の恐ろしさだ」
 突然、紅い皇子の念話が聞えた。とても力強く、はっきりと聞える。僕達二人は立ち止まって、廃虚の街角から西の空を見た。小さな点が見える。恐らく帝国の空中戦艦だろう。僕はこの距離でも聞えるイル・アンシャンテ・フローリスの念話能力に驚いた。
 「この星で念話能力を持つ者は稀だ。緋色の死神でもこのざまだ」
 緋色の死神。聞いた事がある。紅い帝国には、暗殺を専門にした秘密部隊があるらしい。一度狙われた絶対に逃れられず、死神の囁きと恐れられている。どうやらその力の秘密は、彼らの念話能力にあったようだ。だがその力も、僕達二人にはまるで通じなかった。
 「お前達の念話能力は桁外れに強い」
 紅い皇子は指摘した。
 「そしてこの星で、お前達に対抗できるのは多分俺だけだ」
 僕はテティスを見た。彼女は曖昧に頷いた。
 「だが俺一人では分が悪い。だからジュリヤン、取引をしよう」
 「取引?一体何を取り引きするんだ」
 僕は西の空に浮ぶ空中戦艦を見た。紅い船体が見えてきた。
 「今からそっちに行く。碧も緑も抜きで、俺とお前でこの星の話をしよう」
 「ジュリヤン。誘いに乗っては駄目だ」
 テティスが僕の手を引いた。だが紅い皇子の言葉が気になった。
 「この星の話?」
 「そうだ、兄弟。この星の未来は今、俺とお前の手にかかっている」
 紅い皇子は、三ヶ国会議で指摘した。テティスを生かして帰せば、この星は侵略される可能性があると。だが可能性はあくまで可能性に過ぎない。そうならない可能性もある。だがそれとは別に、紅い皇子の考えが気になった。彼は一体何を考えているのだろうか?
 「取引の条件を聞きたい」
 隣でテティスが、衝撃を受けるのが分かった。僕は紅い皇子が嗤ったような気がした。
 「紅い帝国でテティスを保護する。無論、彼女の命は保証する。その代わりこの星から出る事は認めない。契約の履行を確認するため、ジュリヤンは帝国を自由に出入できる」
 「その条件では駄目だ。彼女の希望が全くかなっていない」
 僕が即答すると、紅い皇子は指摘した。
 「考え直せ。ジュリヤン。お前はその女と一緒に居たいんじゃないのか?」
 僕は一瞬、動揺した。だがはっきりと拒絶した。
 「いや、僕は彼女を宇宙に帰したい」
 「なぜだ?なぜ彼女を宇宙に帰そうとする?」
 なぜ僕は、テティスをこの星の客として扱い、無事に宇宙に帰す事にこだわるのか?
 「兄弟、お前はこの星の人間だ。そんな事をする理由なんてないはずだ」
 そうだ。理由なんてない。あったとしても上手く説明できない。最初にそう決めたからというのが、本当の理由かもしれない。無論、テティスを見殺しにできない、という感情的な理由もある。だけど彼女をこの星の敵と一方的に決め付けて、抹殺しようとする紅い皇子のやり方は、どうにも納得がいかなかった。いくら何でも、こんな扱いは不当だと思う。
 「とにかくその条件では駄目だ」
 僕がそう答えると、東の空に無数の点が見えた。恐らく共和国空軍の水上機部隊だ。
 「そうか。どうしても駄目か?」
 「ああ」
 「やはり戦うしかないのか?」
 僕は沈黙した。紅い皇子は、本当に迷っているような感じがした。僕には、彼が躊躇う理由がよく分からなかった。だが次の瞬間、彼は決意したのか、態度を一変させた。
 「ならば死ね」
 紅い皇子がそう言うと、突然、頭が割れるような激しい痛みに襲われた。
 「ジュリヤン!念話で対抗するんだ!反撃しなければ殺されるぞ!」
 テティスが僕の手を掴んで叫んだ。すでに床に崩れて、僕は両手で頭を押さえている。頭が膨らんで破裂しそうだ。とてもじゃないが、反撃できる状態ではない。
 「どういうつもりだ!狙いは私だろう」
 テティスが紅い皇子に向かって叫んだ。
 「テティス、取引だ。ジュリヤンの命と引き換えに投降しろ」
 だめだ。テティス。この男の取引に乗ってはいけない。
 「何を馬鹿な!先にお前を殺す」
 次の瞬間、テティスの全身から淡い光が放たれた。そして頭の激痛が突然なくなった。苦痛が途切れる間際、一瞬だったが、紅い皇子の苦悶の叫びを聞いたような気がする。
 「テティス?」
 見上げると、テティスはすでに光を失っていた。
 「逃した。あの男、念話の戦い方を心得ている。厄介だ」
 テティスが手を差し伸べると、僕は何とか立ち上がった。ふと見上げると、空中戦艦はすでに都市上空にまで来ていた。共和国空軍の水上機部隊も近い。さらに別の方角から黒い点が、無数に見えた。あれは王立空軍の水上機部隊だろうか?
 「帝国軍が一番乗りだ。数で押されたら、勝ち目はない。逃げよう」
 その時、なぜかテティスは悲しそうな眼をして、振り返った。
 「まだ分からないのか?私は戦うために造られた存在なのだ」 
 一瞬、テティスが何を言っているのか、よく分からなかった。
 「少しの間なら、私は全ての敵を押さえる事ができる。勝ち目がない訳でもない」
 もしかして念話か?この辺りの人間全てに念話をかけて、混乱させるつもりなのか?
 「紅い皇子の妨害があるかもしれないが、決して不可能ではない」
 僕は驚いた。だが次の瞬間、決意した。
 「駄目だ。テティス。そんなやり方ではこの場は切り抜けられない」
 「ならばどうする?大人しく諦めるのか?」
 僕とテティスは睨み合った。意見の対立はこれまでもあった。だが今回は違う。僕が紅い皇子と取引の条件を聞いたせいで、彼女は不信感を抱いてしまった。これは僕の失敗だ。
 「テティス。ブランの時と状況が違う。あの時、僕達は無名の存在だった。だから大浮上を強行できた。でも今回は違う。僕達の存在はもう知られてしまったんだ」
 テティスは黙って、話の先を促した。
 「協力者が必要だ。少なくとも援護してくれる程度の協力者が必要だ」
 「緑の共和国か?」
 テティスがそう言うと、僕は首を振った。
 「残念だけど、今の共和国はあてにできない。だから碧い王国に行こう」
 僕がそう言うと、テティスは上空を見上げた。
 「私は戦いたい。ここまで来て帰るなんて出来ない」
 「その気持ちは分かる。でも戦いで結着をつけるのは最後の最後だ」
 僕は言葉を尽くして、テティスの説得に当たった。
 「敵と味方の話をよく聞いて、上手く立ち回らなければ、僕達は絶対に勝てない」
 「だから紅い皇子とも交渉するのか?」
 やはりテティスは、さっきの一件を根に持っているようだった。
 「そうだ。今のところ敵だけど、後で何かの役に立つかもしれない」
 僕がそう言うと、テティスは顔を顰めた。
 「あの男は苦手だ。だが彼に理がある事は私も認める」
 「僕が君の事で交渉したとしても、気を悪くしないで欲しい。僕は君の味方だ」
 テティスはしばらくの間、僕を見つめていた。そして言った。
 「分かった。ここは退こう」
 僕は嬉しかった。単純に嬉しかった。だがテティスは不思議そうに僕を見た。
 「なぜジュリヤンはそこまで私に肩入れする?」
 「僕は不公平なのが嫌いなんだ。この星で一人ぐらい、君の味方がいたっていいじゃないか」
 僕がそう答えると、テティスは微笑んだ。
 「弁護士を雇ったつもりはないが、護衛よりは役に立つか?」
 「僕は弁護士じゃない。外交官さ。喋れないけれど」
 この時、僕の中で喋れない外交官という言葉に、妙な親しみを覚えた。
 「分かった。私を碧い王国に案内してくれ。外交官殿」
 それから僕達二人は、ソルスィエ号まで戻る事にした。そして王立空軍の水上機部隊が来るまで、何とか逃げ回る事にした。王立空軍は最後に戦場に到着したが、三軍ともそれほど時差があった訳でもなかったので、結果として僕達は助かった。
 テティスが頑固なのは、最初から分かっていた。だけどこの時は退いてくれて本当に助かった。あのまま重力機関を目指していたら、助からなかったかもしれない。いや、確実に死んでいただろう。それは次の戦いで、嫌と言うほど思い知らされる事になる。

                             第二章 了

『空と海の狭間で』5/10話 第三章 空と海の狭間で


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