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第七の粘土板 エンキドゥの死

 大いなる天で、運命を定める七柱の大神が集まって緊急会議を開いた。すなわち、天空神アヌ、大気神エンリル、水神エア、性愛と金星の女神イシュタル、太陽神シャマシュ、月神シン、大地母神ニンフルサグだ。会議の雰囲気は重々しかった。
 「――天牛グガランナが討たれた」
 天空神アヌは言った。
 「エンキドゥに殺してやると言われた……」
 性愛と金星の女神イシュタルが言った。
 「太陽神シャマシュが参戦し、ギルガメシュとエンキドゥを助けた」
 水神エアが指摘した。
 「ギルガメシュとエンキドゥは、森番フンババを殺し、天牛グガランナを斃した。これ以上は看過できない。二人のうち、どちらか一人が死ななければならぬ」(注18)
 天空アヌは厳かに言った。会議の席上、緊張感が漲った。
 「――死ぬならばエンキドゥだ。ギルガメシュは殺してはならぬ」(注19)
 大気神エンリルが即座に言った。だが太陽神シャマシュは反論した。
 「二人は私の命令で、森番フンババを斃し、天牛グガランナを討った。どちらも死ぬべきではない。全ての責任は私にある」(注20)
 大気神エンリルは、太陽神シャマシュに問うた。
 「二人を生かして、どう責任を取るのだ」
 「――謹慎する。暫くの間、会議にも出ない」
 太陽神シャマシュがそう答えると、大気神エンリルは烈火の如く怒った。
 「何を言う。会議で決まった事を無視して、毎日彼らの仲間の様に降りて行って、力を貸したのは誰だ。指導役が聞いて呆れる。太陽神シャマシュが過ちを犯させたのだ」(注21)
 水神エアが間に入った。
 「確かにそれは問題だ。このままでは示しが付かないのも事実だ。天空神アヌが言う通り、どちらか一人が死ぬべきだ――この事に異存はないか」
 太陽神シャマシュは沈黙した。水神エアは質問を変えた。
 「太陽神シャマシュよ。二人に力を貸す事の是非は、前回の会議で決めた筈だ」
 「――相違ない」
 太陽神シャマシュは答えた。水神エアはさらに尋ねた。
 「にもかかわらず力を貸した。なぜだ」
 「――その質問は野暮だ」
 月神シンが急に割って入った。そして優美に微笑むと、太陽神シャマシュを擁護した。
 「太陽神シャマシュは、ギルガメシュとエンキドゥが好きでたまらないのだ。太陽神シャマシュにこれ以上、罪な事をさせてはいけない」
 「月神シンの言う通りだ。太陽神シャマシュを追い詰めてはいけない。」
 大地母神ニンフルサグも言った。
 「ではどうしろと」
 水神エアが尋ねると、月神シンは答えた。
 「二人のうちどちらかが死ぬ時だけ、私が太陽神シャマシュを謹慎させる」
 謹慎と聞いて、神々が首を傾げると、月神シンが答えた。
 「我々は兄弟神です。陽を翳らせる事は可能です」
 「それは任せるが、二人のうち、どちらかが死ぬ事は決定事項だ」
 天空神アヌは再び言った。
 「エンキドゥに殺してやると言われた」
 性愛と金星の女神イシュタルが再び言った。
 「ギルガメシュは殺してはならぬ」
 大気神エンリルが再び言った。
 「……死ぬのはエンキドゥで決まりですかな」
 水神エアが皆に尋ねると、太陽神シャマシュが言った。
 「エンキドゥを殺してどうする。ギルガメシュの友として造ったのではなかったのか。その友であるエンキドゥを殺したら、ギルガメシュはどうなる――独りぼっちではないか」
 「ではこのまま見過ごせと――そうはいかん。死ぬのはエンキドゥとする――」
 天空神アヌは宣言した。
 「――月神シンよ。太陽神シャマシュを預ける――よいな」
 「それはもう」
 月神シンは微笑んだ。天空神アヌは続けた。
 「それからエンキドゥの死だが、十二日後とする。方法は創造の女神アルルに任せる」
 エンキドゥを造ったのは創造の女神アルルだ。破壊も心得ているだろう。
 「天空神アヌよ――私も神だ。会議で決まった事には従おう。だが今回の決定は、我らにとっても、良い結果は齎さないだろうとだけ言っておく」
 太陽神シャマシュがそう言って立ち上がると、月神シンも立ち上がって微笑んだ。
 「……兄弟神の私からよく言っておきます……」
 天空神アヌは大きく嘆息すると、席上の神々を見渡して宣言した。
 「ギルガメシュは生かすが、エンキドゥは死ぬ事とする――」
 それで神々の会議は終った。

 ギルガメシュは困惑していた。夢を見て取り乱したエンキドゥを宥めて、再び寝かしつけた。だがエンキドゥが語った夢の内容は衝撃的だった。神々が会議を開き、二人の処遇について話し合ったらしい。詳細や結論までは分からないが、不吉な内容である事は間違いない。
 ギルガメシュは独り眠らず、寝室で考えていた。 
 ――聞け。ギルガメシュよ。神々の裁定が下った。エンキドゥは死ぬ事になった。
 突然、轟雷の如く大音声が、ギルガメシュの裡で響いた。大気神エンリルだ。嵐の如くリルが心の中で吹き荒れ、紅い後光を放射する大神が雲に乗って現れた。霊圧が高い。あまりの大きさに気圧されそうだ。まさに風の主、エン・リルだ。
 ――大気神エンリルよ。なぜエンキドゥが死ぬ事になったのですか。
 愚問ではあったが、問わざるを得ない。
 ――太陽神シャマシュは謹慎となった。当面の間、助けは請えない。
 ギルガメシュは沈黙した。初耳だった。大気神エンリルは続けた。
 ――ギルガメシュよ。汝に問う――神にならぬか。
 どういう意味か。突然過ぎる。真意を諮りかねた。
 ――聞けば、女神イシュタルの求婚を断ったそうだが、神になりたくない訳ではあるまい。
 それは違う。神になって、永遠のズィを手に入れても、意味がない。ギルガメシュは人で在り続けたい。なぜなら神は永遠で、友を必要としないからだ。だが人であれば、ズィは永遠でなくても、友が得られる。友がいれば、死さえ乗り越えられる。託せる思いがある。
 ――汝が神になれば、口利きしよう。その代わりに我の配下に入ってもらう。
 成程、それが狙いか。ギルガメシュは口元を歪めた。
 ――もし神になると同意すれば、エンキドゥは助かりますか。
 それは賭けだった。無論、難しい事は分かっている。だが訊くだけ訊いても損はあるまい。断るにしても理由は必要だ。本当の理由は言う必要はない。だが相手を動かす理由は必要だ。ただ本当の理由を言って断っても、何の利益もない。それならば、交渉を仕掛けるべきだ。
 大気神エンリルは沈黙した。予想外の回答だったのだろう。だが程なくして答えた。
 ――それとこれは別問題だ。汝が神になっても、エンキドゥは助からない。
 予想通りの回答だ。だがこれでよい。断る口実はできた。
 ――今はエンキドゥを助けたく思います。何とかできませんか。
 大気神エンリルは、明らかに引いていた。興味を失ったかも知れない。
 ――汝の希望は分かった。神になりたければ、いつでも声を掛けるとよい。
 ギルガメシュは一礼した。すると大気神エンリルは立ち去った。必要な情報は引き出せた。だがこれではエンキドゥは助からないだろう。何とかエンキドゥを助ける方法はないか。それこそ、神々の裁定が覆る様な出来事が必要だ。ギルガメシュは考えた。
 ――水神エアはどうだろうか。
 そんな考えが思い浮かんだ。水神エアは智慧の神だ。物事を公平に見てくれるだろう。だが堅物でも知られる。エンキドゥを助ける相談をするのは、難しいかも知れない。
 ――多分駄目だ。水神エアに動く理由がない。
 太陽神シャマシュさえ謹慎されたのだ。他の神が味方してくれるとは思えない。だが決定権を持つのは、運命を決する七柱の神々だ。彼らを動かさないといけない。
 ――天空神アヌさえ動かせれば、エンキドゥは助かる。
 それがギルガメシュの考えだった。だが直接交渉しても、天空神アヌを動かすのは難しいだろう。やはり他の神々に頼んで、天空神アヌに再考を促すのがよい。
 ――そうなると水神エアしかいないか。
 だが説得する材料が見つからない。水神エアにエンキドゥを助ける理由がない。人間寄りの立場を取る事が多いが、それとこれは別だ。大気神エンリルの様に、人間を滅ぼせとは言わないが、時に厳しい態度を取る事もある。やはり容易に説得できる相手ではないだろう。
 ――水神エアが説得できれば……。
 ギルガメシュは嘆息した。そしてもう一つの選択肢を考えた。あまり関わりたくないが、女神イシュタルに頼むという手もあった。天空神アヌの娘でもあり、今回の騒動の原因でもある。ギルガメシュとしては、頭を下げたくないが、それで助かるなら、やらない手はない。
 ――しかし今更、女神イシュタルが話を聞くだろうか。
 結婚が目的で近づいて来て、それを断ったのだ。聞く耳は持たないだろう。
 だがギルガメシュが、女神イシュタルの求婚を断ったのは理由がある。女神と神聖結婚をして、神になるつもりはない。ギルガメシュは、人間で在り続けたいし、友と共に生きたいと思っている。だから両親と、同じ道を歩むつもりはない。
 父ルガルバンダは、女神である母リマト・ニンスンと神聖結婚した。そして死後、神となり、大いなる天の一員となった。それは一つの道であろう。ギルガメシュも同じ道を歩いていけない訳ではない。だがそれは、ずっと心の奥底で引っ掛かっていた。
 ――我は違う。
 それは確信だった。明確な根拠はない。だが最初からそう思っていた。だからエンキドゥという友を得てから、今の生き方こそ、自らが歩むべき道だと思っている。
 ――女神イシュタルは駄目だ。そもそも神と結婚など話にならない。
 そういう意味では、大気神エンリルの話と同じだ。どちらも神になれるが、大気神エンリルか、女神イシュタルに従属させられるだろう。それはギルガメシュが望む処ではない。そうなのだ。ギルガメシュは、自由でありたいのだ。だから神々と衝突してきた。
 思えば、神々と対立する事ばかりして来た。その結果が、エンキドゥの死だ。だがこれまでの行動は、全て人間のためだったとも言える。杉の森を開放し、木材を提供した。女神から神聖結婚を申し込まれたが断って、ウルクのエンシにしてルガルに留まった。
 神々の側に立てば不利益だが、人間側に立てば利益になっている。
 ――これでは駄目だな。根本的に違えている。
 ギルガメシュは改めて、エンキドゥを救う事の難しさを痛感した。だが諦めれば、エンキドゥは死ぬだけだ。この世界で神々の眼から逃れられる場所はない。
 ――でも一つだけ例外がある。大いなる地だ。
 ギルガメシュは、女神イシュタルの姉である冥界の女王アルラトゥや、戦争と疫病の神ネルガルを思い出した。二柱に頼んで、エンキドゥを匿ってくれないだろうか。大いなる地なら、大いなる天の神々も及ばない。避難できれば、エンキドゥは助かる。
 そうと決まれば、ギルガメシュは、鼻の上に右手を置いた。
 ――大いなる地にましますネルガルよ。我が前に来たりて、我が声を聞き給え。
 すると黒いリルが、心の中で吹き抜けて、戦場の鬨の声と剣戟の音が聞こえた。無数の黒い骸骨が幻影の様に現れて、消えた。黒いリルが吹き荒れ、その中心から、黒衣を来た壮年の男神が現れた。戦争と疫病の神ネルガルだ。右手に剣を持ち、左手に黒い髑髏を持っていた。
 ――久しいな。ギルガメシュよ。何用だ。申してみよ。
 ネルガルは上機嫌に微笑みながらそう言った。左手の髑髏の眼に紅い光が宿った。
 ――我が友エンキドゥが、大いなる天の裁きで死ぬ事になった。エンキドゥを大いなる地に匿い、大いなる天の裁きから逃れさせて欲しい。
 ネルガルは哄笑した。左手の髑髏も主に合わせて、顎を動かした。
 ――それは無理な相談だ。お前の願いは、エンキドゥを生かす事だろう。だが大いなる地は、死者が住まう冥界。大いなる地に行くには、死者となるしかない。それではエンキドゥは死ぬ事になる。エンキドゥを大いなる地で匿う事は、お前の願いと逆の結果となる。
 ギルガメシュは沈黙した。そんな事は百も知っている。
 ――確かに大いなる地には、大いなる天の力は及ばない。死者の国だからな。
 ネルガルはギルガメシュを見た。左手の髑髏の眼が紅く光った。
 ――だが何か方法があるのではないでしょうか。
 ギルガメシュは言った。ネルガルは薄く笑った。
 ――死者として、大いなる地に行った者は、帰れない。
 それも知っている。だが何か抜け道があるのではないか。そもそも大いなる地に、神々がいる事がおかしい。何か知られていない秘密があるのではないか。
 ――女神イシュタルの冥界下りは、どうして可能なのか。
 ギルガメシュは指摘した。女神イシュタルは、姉である冥界の女王アルラトゥに会いに行っている。そして女神イシュタルは大いなる天に帰っている。
 ――稀に地上でも、死んだ者の影が見える事があります。あれは何ですか。
 大いなる地は、一度行ったら二度と帰れない、という訳ではないのではないか。
 ――方法がない訳ではない。試練を乗り越えれば、帰還できる。
 やはりな。読みが当たった。だがネルガルは言った。
 ――だがエンキドゥは駄目だ。試練を乗り越えられない。
 何故そんな事が断言できるのか。
 ――エンキドゥは誘惑に我慢できない。だから試練に勝てない。
 ああ、成程。確かにエンキドゥはそうだ。試練を乗り越えるのは難しいかも知れない。だが絶対駄目という訳でもない。機会があるなら、受けない手はない。一度、大いなる天の裁きで死んでも、大いなる地で試練を乗り越えて帰れるなら、誰も文句は言わないだろう。
 ギルガメシュは、エンキドゥが死んだ場合、試練を受けられる様に、ネルガルにお願いした。
 ――それは分かった。大いなる地で審議しよう。
 ネルガルはそう答えると、黒髑髏の哄笑と共に立ち去って行った。
 ――絶望的だな。やはりエンキドゥは助からぬか。
 ギルガメシュは再び独りで考えた。かつてない事だ。ここまで絶望した事はない。これまでは全て何とか解決できた。だが今回の件はどうにもならない。これまでの行動の結果なのだ。動かしようがない。できる事があるとしたら、ただ心構えをするだけだ。
 ――無力だな。人は……。だからこそ神になりたがる訳だが……。
 ギルガメシュは初めて、途方に暮れた。これまで当てにして来た神々は全て期待できない。ならばもう人に頼るしかない。だが神に劣る人に何ができるのか。だが神ではない同じ人であれば、何か意見はあるかも知れない。ギルガメシュは考えた――誰を呼ぶか。
 七人の長老でも呼んでみるか。ギルガメシュは、深夜ではあったが呼んだ。果たして長老の一人が来た。様子からして起きていた様だ。お互い表情は暗かった。
 「……ルガルよ。この様な夜中にどうされました」
 ギルガメシュは長老に向かって口を開いた。
 「神々から知らせがあった。近くエンキドゥが死ぬ――」
 長老は驚かなかった。平静に受け止めていた。
 「――神々と話し合ったが駄目だった。結論は変わらない」
 ギルガメシュがそう言うと、長老は口を開いた。
 「エンキドゥは何と言っておりますか」
 「死の予感はある様だ。だから夢を見て騒いだ」
 長老は黙ってギルガメシュを見ていた。
 「何とか助けたいと思っている――何か方法はあるか」
 「――ないですな。遅かれ早かれ人は死ぬものです」
 そんな事は分かっている。何か他の可能性はないのか。
 「だが永遠のズィを持てれば、話は変わります」
 「――それは神になれという話か」
 ギルガメシュが尋ねると、長老は静かに首を振った。
 「神にならなくても、永遠のズィは手に入ります」
 初耳だった。神でもないのに、永遠のズィを持つ事ができるのか。
 「死の海を越えた向こうに、遥かなるウトナピシュティムという者がいると聞きます。永遠のズィを持つと言われております。神々の秘密を見た者とも言われております」
 そんな者がいるのか。だが死の海を越えた向こうは遠過ぎる。会いに行って話を聞いている暇はない。そんな事をしている間に、エンキドゥは死ぬだろう。だが悪い話ではない。
 「その者には興味がある。だが今回は間に合わないだろう」
 ギルガメシュは考えた。神にならず、人のまま、永遠のズィを持てるとしたら、それは大変な事だ。永遠に地上に留まる事ができる。だが何か問題はないだろうか。
 「長老よ。貴重な話、助かった。覚えておこう」
 ギルガメシュがそう言うと、長老は一礼して立ち去った。独り寝室に残されたギルガメシュは、夜が明けるまで考え続けた。

 その日、女神アルルは悲しい知らせを聞いた。近くエンキドゥが死ぬらしい。しかもその死について、相談があると言う。女神アルルは、粘土を捏ねていた手を止めると、神殿の作業場を訪ねて来た水神エアを見上げた。知らせを受けてから間がない。
 ――急な話で申し訳ない。故在ってエンキドゥは死ぬ事となった。
 水神エアは静かにそう言った。女神アルルは流しで手を洗った。
 ――理由は?
 ――ギルガメシュと共に、森番フンババを斃し、天牛グガランナを討った。
 女神アルルは驚いた。なぜそんな事になったのか知らないが、大いなる天と争えば、そういう結果になっても仕方ないだろう。だがこの短期間で、二人に一体何があったのか。
 ――成程、話は分かった。それで何をやればよい。
 女神アルルは前掛けを外して椅子に座ると、水神エアにも椅子を勧めた。
 ――訪ねて来たのは他でもない。エンキドゥを創造した女神アルルなら、彼の死についても、よい考えがあるのではないかと思って来た。
 水神エアは椅子に座ると、女神アルルを真っ直ぐ見た。
 ――方法がない訳ではない。
 女神アルルは考えた。ついこないだ造ったばかりでもう壊すとは、神々も残酷な事をする。それならば、最初から造らない方が良かったのではないか。だがそんな事を言っても仕方ない。問題は女神アルルの手から離れている。どう壊すのか考えないといけない。
 ――エンキドゥに死病を与える事ができる。恐らくそれが一番いい。
 苦しみを与える事になるが、死ぬ覚悟が出来る。周りの人と話しながら逝ける。逆に苦しみを与えず、一瞬で死ぬ事が必ず良い訳ではない。本人も驚くし、死んだ後、霊的に迷うかもしれない。だから徐々に弱って、死んで逝く方がいい。
 ――お願いできるか。今日から十二日後に死ぬ様にして欲しい。
 それは可能だ。だがその事をギルガメシュは知っているのだろうか。
 ――エンキドゥが死ぬ事は知っている。
 水神エアは答えた。だがギルガメシュは大人しくしていないだろう。エンキドゥの死後、きっと何か起こす。それが何か分からないが、ただ黙って引き下がるとは思えない。元々、ギルガメシュを一人にしておくのはよくないから、エンキドゥを造ったのではないか。
 ――神々は残酷だ。一度与えて、永遠に奪い去るとは。
 女神アルルは、席を立った水神エアを見送りながら、そう思った。
 
 エンキドゥは目が覚めると、周りに誰もいない事に気が付いた。窓から差し込む光で、昼過ぎらしい事が分かった。エンキドゥは起き上がろうとしたが、よろめいて壁に手を突いた。思わず、自らの足を見た。足に力が入らない。
 ――何だ。これは。
 寝台から立ち上がって歩けない。エンキドゥは熱っぽい事を自覚した。全身がだるく、酷い痛みを感じた。病気の様だが、かなり苦しい。エンキドゥは誰か呼ぼうとしたが、掠れて声が出なかった。暫く息を整えていたが、一向に良くなる感じはしなかった。
 ――もう一度寝よう。
 エンキドゥは、寝台に身を横たえた。見ると、寝台の横にテーブルがあり、水差しとナツメヤシが盛られた皿があった。エンキドゥは手を伸ばして、ナツメヤシを口にした。美味だった。そして水差しから直接水を飲むと、エンキドゥは眠った。
 
 そこは見渡す限り荒野だった。まばらに緑が点在し、ユーフラテス川からリルが吹いていた。遠くに周壁持つウルクが見えた。人影はない。動くものは獣達だけだった。エンキドゥは当てもなく荒野を歩いた。天頂にシャマシュが輝き、肌を焦がした。
 エンキドゥは、ギルガメシュと出会う前を思い出した。そうだ。自分は突然、荒野から始まった。それ以前は覚えがない。どうしてそうなったのか分からないが、荒野を彷徨う獣達と仲良くなった。そして衝動のままに生きた。だがそれも突然終わった。
 ――あの女だ。神殿娼婦シャムハトだ。
 そう思うと、怒りが沸いて来た。全てこうなった原因も、あの女の様な気がして来た。見つけ出して呪ってやりたい。あの女が来たから、目覚めた。目覚めなければ、エンキドゥはずっと獣達と一緒に荒野を駆け巡っていた事だろう。
 ――エンキドゥよ。それは違う。
 不意に声が聞こえた。太陽神シャマシュだ。
 ――シャムハトがいたからこそ、言葉を覚え、人として目覚めたのだ。人として目覚めなければ、何も分からぬまま、獣と同じ生を送るだけだ。彼女は母も同然だ。そして彼女がいなければ、ギルガメシュとの出会いもなかった。(注22)
 エンキドゥは思った。確かに人として目覚めたから、ギルガメシュと出会えた。より高度な認識を持ち、より高度な戦闘が出来た。全てギルガメシュとの冒険のお陰だ。
 ――そうか、シャムハトがいなければ、今の自分はないか。
 不意に陽が翳った様な気がした。太陽神シャマシュの声が聞こえた。
 ――エンキドゥよ。すまぬ。庇い切れなかった。
 視界が急にぼやけて暗転し、意識が遠退いた。太陽神シャマシュの無念が伝わって来た。

 目が覚めると、近くに誰かの気配を感じた。ギルガメシュだ。
 「……エンキドゥよ。具合はどうか」
 起き上がろうとしたが、駄目だった。自力で身を起こせず、手を引いて貰った。
 「すまぬ……」
 エンキドゥは情けなくて涙した。ギルガメシュは何も言わなかった。一昨日まで戦っていたのが嘘の様だ。身体に力が入らない。下半身は動かず、辛うじて腕力だけが残されている。
 「シャムハトに礼を言ってくれ」
 ギルガメシュは、軽く驚いた様に、目を見張った。
 「夢の中、シャマシュに助言された」
 エンキドゥはどこか遠くを見た。心の裡が深く、その姿は儚かった。
 「……シャマシュは我らの仲間だ」
 ギルガメシュは言った。エンキドゥも点頭した。
 「だが悲しみに暮れていた」
 ギルガメシュは何も言わなかった。
 「我は死ぬのだろうか」
 エンキドゥはギルガメシュを見た。その琥珀色の瞳は、どこまでも平静で、澄んでいた。
 「――何を弱気な。そんな事にはならない。少し休めばよくなる」
 ギルガメシュはいつも通り、微笑みさせ浮かべて言った。
 「そうか――そうならよいのだが……」
 エンキドゥは眠気に誘われ、急速に意識が混濁した。

 気が付くと、そこは暗く、光が射さない暗黒の世界だった。足許には冷気が漂い、青白い光を纏いながら流れていた。エンキドゥは当てもなく歩いた。広い。方向感覚さえ失われる。程なくして、紅い篝火の様な炎が、幾つも咲いた。
 ――ようこそ。エンキドゥ。我はネルガル。戦争と疫病を司る神だ。
 漆黒のリルが吹いて、戦場の鬨の声が遠くから聞こえた。そして紅い篝火が近付いて来た。全て二対の輝きがある。何だろう。よく見ると、全て黒い髑髏の双眸が、紅く輝く光だった。大きく衣を翻す音がして、右手に剣、左手に黒い髑髏を持った黒衣の神が現れた。
 ――ここはどこだ。なぜネルガルが我に語りかける。
 エンキドゥは尋ねた。戦争と疫病の神ネルガルは答えた。
 ――ここは死者達の住まう国、大いなる地だ。我は汝を案内するために来た。
 では死んでしまったのか。何と言う事だ。
 ――それは違う。まだ汝は死んでいない。だが予め伝えるために来た。
 これは何だ。死の予告か。
 ――ギルガメシュに頼まれている。近く汝には試練を与える。
 試練とは何か。なぜ試練を受けなければならない。何のためか分からない。
 ――試練を突破すれば、大いなる地を出る事も可能だ。
 それは生き返るという事か。それであれば、ぜひ試練を受けたい。
 ――試練は一度切りだ。失敗すればそれまでだ。
 分かった。それでも受けたい。またギルガメシュと冒険の旅に出たい。
 ――だがまだ死んでいないから、これは予告に過ぎない――時を待て。
 エンキドゥが点頭すると、急速に意識が上昇するのを覚えた。

 目覚めると、最早手を動かす事さえ叶わなかった。エンキドゥは目を動かして周りを見た。ギルガメシュがいた。椅子に座り、静かに微笑みながら、見下ろしている。
 ――冥界でネルガルに会った。
 エンキドゥは念話を使った。
 ――何と言っていた。
 ギルガメシュも念話で尋ねると、エンキドゥは少しの間考えた。
 ――忘れた。だが試練がどうとか言っていた。
 ギルガメシュは何も答えなかった。
 ――次の冒険は何時にする。何処に行く。
 エンキドゥが陽気に尋ねると、ギルガメシュは微笑んだ。
 ――何処に行きたい。
 そうだな。何処がいいだろうか。上手く頭が回らない。ああ、あそこがいい。
 ――大いなる地に行きたい。そこで試練を受けたい。
 エンキドゥが答えると、ギルガメシュは言った。
 ――二人でか。
 ――ああ、二人でだ。
 その答えに満足したのか、ギルガメシュは微笑んだ。
 ――エンキドゥよ。また大変な冒険になりそうだな。
 ――これまでも突破して来たのだ。冥界の試練が何だ。
 エンキドゥはズィが熱くなるのを感じた。
 ――我等は森番フンババも天牛グガランナも斃した。向う処、敵なしだ。
 ギルガメシュがそう言うと、森番フンババや天牛グガランナとの戦闘が脳裡に掠めた。
 ――そうだ。我等は強かった。
 そこからは、ギルガメシュとの冒険の日々が溢れ出して止まらなかった。長い様で短い日々だった。だが決して後悔はしていない。共に駆け抜けた日々は、ディンギルの様に輝いていた。
 ――我等は強い。これからもだ。
 ギルガメシュは力強く言った。
 ――ああ、そうだな。
 エンキドゥも頷いた。不思議と苦しみがなくなってきた。代わりに睡魔がやって来た。瞼が重く、考えも纏まらなくなってきた。
 ――眠い。少し休ませてくれ。それから出発しよう。
 ――分かった。少し眠れ。
 ギルガメシュは手をエンキドゥの額の上に置いた。心地よい眠りがやって来た。あれほど苦しかったのが嘘の様だ。これなら戦える。これなら冒険できる。エンキドゥは大きく息を吸い込むと、大きく息を吐いた。ギルガメシュは何も言わなかった。
 その夜、エンキドゥは死んだ。

                          第七の粘土板 了

『我が友エンキドゥ~いつかのどこかの誰かのための物語~』
第八の粘土板 ギルガメシュの慟哭 8/12話


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