「にゃー」から始まるABC
家猫になって、
四季が一巡りした頃かしら。
クロがやってきた。
ペットショップから来たオスね。
ママが買ったみたい。
猫アレルギーなんだけど、
猫好きが勝ったのかしらね。
私とご主人様の関係を見て、
羨ましくなったのかも。
後輩ができた感じだけど、
生粋の家猫のクロとは合わなかった。
なんて言うか、
何でも当たり前だと思っているのよ。
餌があるのが当たり前、
撫でられるのが当たり前、
寝床があるのが当たり前……。
外猫だった私は、
人間のありがたさが分かるけど、
クロには分からないみたい。
まぁ、生まれた時から、
屋根の下にいたクロには、分からないでしょうね。
外の雨の冷たさも、
餌にありつけないひもじさも……。
お互いを避けるようになったのは、
自然の流れね。仕方ないわ。
ただクロにはこの家しかないけど、
私は違った。外猫だったからね。
クロが受け入れられているのを見ながら、
私は何となく思った。
私の居場所は、
もうここではないかもしれないと。
そう思うと、
私の行動は早かった。
ちょこちょこ、
家の外に出た。
昔の仲間たちとも連絡を取った。
でもあの人の事が気に掛かった。
私の大好きな、大好きなご主人様。
愛しいわ。
いつも傍にいたい。
でも私は猫。
人間じゃない。
だから「人間合格」を目指すのよ。
遠いわ。
初心忘るべからず。
やっぱり初志を貫徹しないとね。
私が家を出る日の朝、
あの人が仕事に出るのを見送ったわ。
いつものように、
行ってらっしゃいと鳴いたわ。
勿論、笑顔よ。お行儀よく、
玄関でお座りして、よく見上げたわ。
できるメスは、何も悟らせないの。
最後まで笑顔を忘れないわ。
前の日の夜に、
最後のお出迎えも堪能したし、
私の愛は満たされたわ。
あの人が出て行くと、
私はママと娘ちゃんに挨拶しに行ったわ。
あの人の事をよろしくね。
あなたたちにも感謝を。
ずっと幸せにね。
猫の一生は短いからね。
これが今生の別れよ。
私の幸せを忘れないでね。
最後にクロに会いに行った。
何か言い残す事はないかしら。
クロは私を見ると、
全てを察したみたいだけど、何も言わなかった。
あなたの幸せはここにあるわ。
あなたはここにいていいのよ。
でも私はもう出ないといけないみたいだから、
出て行くね。元気でね。
クロは何か言いたそうだったが、
感情の変化しか、読み取れなかった。
クロは家猫だけど、
持ち合わせている言葉が少ないわ。
私ほどじゃない。
元人間のミミちゃん並に、
話せる不思議猫は珍しいからね。
じゃあね。
にゃーお。
私は再び電車猫になった。
込合(こみあい)から土多端(どたばた)まで、一駅ね。
窓から、飛ぶように流れて行く景色を独り、眺める。
ああ、あの家の思い出ばかりだわ。
何を見ても、何かを思い出す。戦車と蝶々?
ヘミングウェイだったかしらね。
かの文豪も猫を愛したそうよ。
私は猫ひげを震わせると、座席から飛び降りた。
電車から降りて、独りホームに立った。
目指すは古巣よ。
私は一年ぶりにキャンプ場に戻った。
やっぱりここが私の職場で、私の持ち場かしら。
管理人さんに挨拶に行くわ。
またお世話になります。
にゃー。
「アレ?シロじゃないか!」
管理人さんは驚いたけど、すぐに歓迎してくれた。
「一体どこに行っていたんだ?この看板猫は……」
ちょっと遠くに、バカンスに出かけていたのよ。
でも私のロマンスはおしまい。
これからバリバリ働くわよ。
え?売上が下がっていたの?
もう!ここの連中は何やってるのよ!
新入りもいるみたいだけど、
ホスピタリティ精神が足りないんじゃないの?
猫だから、無条件で人間から愛されるとか、
思ってないでしょうね?
私が復帰したからには、
キャンプ場の売上はV字回復よ!
その後、猫の集会に参加すると、
多少メンツが入れ替わっていた。
だが大半は私がいた時と変わらない。
ただ雰囲気は変わっていた。
人間に対する理解度が下がっている。
やっぱり私がいないとダメね。
古巣の仲間たちは、私の復帰を歓迎した。
正直、困っていたらしい。
このキャンプ場の経営が傾いても困る。
結構、大所帯なのだ。解散は避けたい。
委細は管理人さんに任せるけど、
現場は私たちに任されている。
いかにリピート客を作るかが勝負よ。
それはどれだけ人間に寄り添えるかよ。
私は家猫だった時の経験を生かして、
人間が喜びそうな事を色々伝えた。
基本、このキャンプ場の猫は、
人間の傍に寄るけど、それだけなの。
人懐こいだけじゃダメだわ。
他の猫キャンプ場と差別化ができない。
こっちから積極的に近づいて、
人間に話し掛けないと。
とにかく、「にゃー」から始まるABCよ。
向こうは本当に豊富な言葉を持っていて、
それで話し掛けてくる。
その全ては理解できないけど、
感情の色は分かるわ。全動物共通よ。
そこから何をして欲しいのか、
読み取って、人間に寄りそうのよ。
別に鳴かなくたっていい。
私たちが傍にいるだけで、癒される人はいるわ。
何に悩んで、何に傷ついているのか、
分からないけど、必要な事は分かるわ。
とにかく、傍にいて、温めてあげる事よ。
外の世界は冷たいからね。
せめてこのキャンプ場にいる時だけでも、
私たちからぬくもりを受け取って。
猫っていうのはね、神仏の愛なのよ。
ずっと人を見ているわ。
昔の人は、猫の目を通じて、
神様が人間を見ている事を知っていた。
猫のまなざしは、全動物の中でも特別よ。
世界を見る事に特化している。
神様の監視カメラなんて言うと、
ちょっと語弊があるけど、そんな感じよ。
今の人には、
思いも拠らない事かもしれないけど、
これも世界の秘密よ。
にゃーお。
そのお爺さんは独りだった。
老人の一人キャンプというのは珍しい。
場違いな釣り具もだ。
そのお爺さんを見ていると、
青い感情が読み取れて、気になった。
かなり冷えている。
正直、ゾクっとした。毛が逆立つ。
これは私が対応した方がいい。
他の猫には任せられない。
なぜか、駅のホームと電車の線路が見えた。
これは彩南町(さいなんちょう)?
にゃーお。
私は最初から、お爺さんの足元にすりすりをした。
お近づきの手順をすっ飛ばした。
「何だ?キャンプ場の猫か?」
お爺さんは気が付いて、こちらを見た。
頭を撫でてきたので、そのまま撫でられるがままにした。
手の力も弱い。
エネルギーを殆ど感じられない。
生気がない。
「週末の終値は1987年のブラックマンデー以来の下げ幅だ」
お爺さんは私に向かって、独り言を吐き出す。
「時間外で3,000円以上の下げ幅だ」
「週明け、月曜日の朝から、バンバン電車が止まるぞ」
「新NISAは失敗だったな。老後の資金全部溶かしたよ」
「政府に一杯喰わされたな」
「市場は本当に回復するのか?」
「年金13万じゃやっていけないな。どうする?」
おまんまの話ね。分かるわ。生きるのって、大変よね。
釣りでもやって、お魚でも取れば、何とかならないの?
私が釣り具の糸に、前足をからめると、お爺さんは言った。
「なんだ?魚でも欲しいのか?ここは川もないようだが……」
お爺さんは立ち上がろうとしたが、
私はジャンプして、止めようとした。
「うわ!」
お爺さんは驚いたが、
私が肩によじ登ると、意図を察したようだった。
「何でこの猫はこんなに懐いてくるんだ?」
お爺さん、あなた、急患よ。
至急、温めないと危ないわ。
「おーよしよし。なんか孫娘が生まれた時を思い出すな」
お爺さんは、私を腕の中であやしながらそう言う。
そうよ。
お爺さんの幸せだった時の記憶を思い出して。
優しい気持ちが心に灯れば、火がつくわ。自明灯よ。
「もう一度、やり直せたら……」
お爺さんは眼鏡を外した。光が二つ零れ墜ちた。
一瞬、水滴の中から黄緑の光が見えて、
学校の校舎が見えた。古い記憶?
やり直す事はできないけど、
未来はあるのよ。元気を出しなさい。
「もう金も希望もない。何のために生きているんだ?」
誰かのためよ。
たとえ姿は見えなくても、誰かのために生きるのよ。
「こんな老人に何ができる?」
最期の瞬間まで、誰かのために存在するのよ。
「もう何の役にも立たない」
役に立つから、愛されるのではないわ。
愛するから、愛されるのよ。それだけの話よ。
私たちを見なさい。食っちゃ寝しているだけよ。
それでも存在しているから、愛されているのよ。
「シロは何か言いたいような目をしているな」
そうよ。
まだまだお客さんには生きてもらわないと困るんだから。
元気を出しなさい。ほらほら。
私は白い猫だよ 5/5
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