モンスの天使
1914年8月23日、ベルギー南部で、モンスの戦いが起きた。
第一次世界大戦で、イギリス遠征軍とドイツ帝国軍が戦った。
英軍が80,000で、独逸軍が160,000で、遠征軍が押されていた。
だが突如、天使の軍勢が現われて、ドイツ軍を押し返した。
その正体は百年戦争の弓兵で、20世紀の遠征軍を助けたと言う。
これがモンスの天使の粗筋だ。戦場の伝説だ。
「この話は創作だよ。ウソの伝説さ。現実の話じゃない」
その少女は、10月号の雑誌を机に投げ出した。
19世紀ヴィクトリア朝の男装をしている。
フロックコートに鳥打帽子だ。金髪碧眼で髪をともはねに結んでいる。
付け髭をして、手には木のパイプに見える加熱式タバコさえ持っていた。
「……そうなのですか?」
ヴィクトリア朝のメイド服の少女は、紅茶を入れていた。
「ああ、アーサー・マッヘンの短編小説が元ネタだ」(注116)
霊探偵の少女は、本棚から『The Bowmen』(弓兵)を取り出した。
「3ページのショートショートだ。これが広まって、モンスの天使が信じられた」
メイド服の少女は、薄い本を手に取って、パラパラと捲った。
1415年10月25日、百年戦争のアジャンクールの戦いで、イギリスの長弓隊7,000名が、フランスの重装騎兵20,000名を破った後、1914年8月23日のベルギー南部モンスに飛んで、イギリス遠征軍を救援し、ドイツ帝国軍を鮮やかに撃退する空想愛国文学だ。
「これが当時の新聞だよ。イギリス国民は沸いた」(注117)
鳥打帽子の少女は、分厚い図鑑から一枚のイラストを見せた。
塹壕戦を長弓の曲射で、支援攻撃している絵がある。アジャンクールのイギリス弓兵は、戦史上評価が高い。これが第一次世界大戦に投入されたら、どうなるかという話か。当時、両軍とも機関銃を装備していたが、曲射はできない。塹壕戦では防御兵器でしかない。
「……1915 年 11 月 29 日」
メイド姿の黒髪の少女は、新聞の日付を読み上げた。
ロンドンの新聞だ。『イブニング・ニュース』という夕刊紙だ。
「……モンスの戦いから一年以上経っていますね」
「そうだ。戦闘直後ではない。だがこれは少し妙な話だ。単なる妄想でもない」
フロックコートの少女は、紫煙を燻らせるフリをした。だが加熱式タバコだ。
机に投げ出された雑誌には、数行だけモンスの天使の記事が載っていた。
「21世紀でも、本当の話として、未だ広まっている」
「……フェイク・ニュース?」
メイド姿の黒髪の少女は、ちょっと顎を出して、唇を尖らせてみせた。
「いや、碌に原典を調べないで載せたんだろう。ちょっと調べれば分かる」
霊探偵の少女は、手に再び雑誌を持ってヒラヒラ振った。
「今、グデーリアンの『戦車に注目せよ』を読んでいるが、そんな話はない」(注118)
「……ドイツ側では騒ぎになっていないと」
「そうだ。もしそんな事が起きたなら、ドイツ側でも騒ぎになる」
鳥打帽子の少女は、意地悪な笑みを浮かべていた。どうせ、神智学系統のドキュメントでも読んだのだろう。イギリス以外で、モンスの天使を広めたのは彼らの仕業だ。
「……でもどうして人々は信じたのでしょうか?」
メイド姿の黒髪の少女は、疑問を呈した。
「さぁな。聖書を読んでいる人間には、さぞかし響く文章だったんだろうよ」
フロックコートの少女は、『The Bowmen』(弓兵)を手に取った。
「そして彼は新聞記者もやっていたから、戦場の記事も書いていた」
「……なるほど、それでフィクションだと思われなかったと」
メイド姿の黒髪の少女がそう答えると、霊探偵の少女は頷いた。
「うん。聖ジョージの加護か?なぜか皆信じた。そこが不思議だ」
「……そうですね。すぐにバレそうなウソなのに」
「それな」
霊探偵の少女は、木のパイプ風加熱式タバコで指した。
「マッヘンは本編より長い序文を付けて、この小説を出版している」
「……序文には何と?」
メイド姿の黒髪の少女がこちらを見た。
「このお話は完全な創作であり、全く事実ではないと強調した」
メイド姿の黒髪の少女が、少し可笑しそうな表情を見せた。
「……それでもなぜか信じる人が絶えないと」
鳥打帽子の少女は、木のパイプ風加熱式タバコを燻らせた。
「心霊研究協会( SPR )まで動いたが、証拠なしと報告された」
彼らはわざわざ関係者に会って証言を集めたが、何も出て来なかったらしい。
ごく僅かにそれらしい証言も出てきたが、過労による幻覚で片付けられた。
「……心霊主義のSPRも喰いつかなかったんですね」
「喰いついたのは教会関係者と、アホなドイツ人だ」
フロックコートの少女は、本を机に置いた。
「だが当時のイギリス国民も信じたい気持ちを持っていたのだろう」
「……1915年11 月 29 日なら、イープルの戦いの後ですものね」
第一次イープルの戦いは1914年10月19日だ。英国陸軍はこの戦場で、19世紀式の白兵突撃を繰り返し、機関銃の餌食となり、大英帝国の将来を担う筈だった最良の若者たちを失う。
第二次イープルの戦いは1915年4月22日だ。人類は初めて毒ガスを戦場で経験した。未曾有の砲弾投射量で、塹壕戦が長引き、砲弾の炸裂音で精神を病む者が続出した。
「そうだな。他にも信じたくなる要因は幾つかある。少なくとも市場に需要はあった」
ドイツ無制限潜水艦戦による豪華客船ルシタニア号の撃沈。ドイツ硬式飛行船ツェッペリンによる空襲。西部戦線の突破失敗と戦線膠着。イギリス国民は、いい知らせに飢えていた。
「……それで、皆この短編小説を信じた」
メイド姿の黒髪の少女が言った。
「戦争だから、情報戦が仕掛けられた可能性もある」
国民の士気を挙げるために、マッヘンの短編小説が利用された可能性がある。
「そういう意味では、大した作品だよ。一つの現実まで作り上げている」
この本自体、30ページもない。まさに短編小説だ。
「……マッヘンとはどんな人ですか?」
メイド姿の黒髪の少女が尋ねた。
「オカルティストさ。ホラー小説ばかり書いていた」
霊探偵の少女は続けた。あとは不道徳小説を書いていた。
「唯物論、無神論、科学主義、商業主義を嫌い、ボヘミアンだった」
「……なるほど、どっかの誰かさんみたいですね」
「Ordo Hermeticus Aurorae Aureaeにも入っていた」
「……あ~、秘密結社の?」
「そうだ。黄金の夜明け団とか、ヘルメス教団と言われる」
英国には、フリーメイソンとか、バラ十字会とか色々ある。
「……そこで何をやっていたんですか?」
「さあな。それは秘密という奴だ」
鳥打帽子の少女は、揺り椅子に身を委ねた。
「日常世界の向こう側に、いつも神秘の世界があると思っていたのだろう」
メイド姿の黒髪の少女は微笑むと、お茶を入れ直そうと、席を発った。
その部屋には扉があった。壁のど真ん中にある。
そしてまだら男が、正面の椅子に座っていた。
「アーサー・マッヘンよ。依頼していた台本をもらいに来た」
その神秘著作家は、黙って原稿を渡した。『The Bowmen』(弓兵)だ。
「確かに預かった」
まだら男は原稿を確かめると、静かに立ち上がった。
「扉は暫く残しておく。気が変わったらいつでも訪ねて来い」
まだら男は、原稿を小脇に抱えて、鳥打帽子を被った。
「……本当にその話をどうする気だ?」
「イギリス遠征軍を救うのさ。イープルで死んではいけない者もいる」
その神秘著作家は、視線を落として、静かに首を振っていた。
流石に在り得ない。だがこの男はこの扉から出て来た。
「気が変わったら、この世界線でも実現可能だぞ」
「……それは止めてくれ」
「どうしてだ?」
「……自分の筆で世界を書き換えるなんて恐ろしい」
「だがお前さんは、思い付いてしまった。違うか?」
「……シナリオは自然に出て来たものだ。止められない」
まだら男は嗤った。まさに嗤っている。
「だからモンスの天使は存在するのさ。他の世界線に」
その神秘著作家は、視線を落として、黙っていた。
「お前さんは、ちょっとだけ世界からはみ出している。他の世界を覗いている」
それは昔からそうだ。気が付いたら、そうなっていた。だから書いている。
「実際、お前さんはいい仕事をしたよ」
「……そう言うお前は何者だ?」
「ただの笛吹きさ。ネズミとか子供を集められる」
「……お前はハーメルンの笛吹きか?」
「いや、運命のまだら男さ」
注116 Arthur Machen(1863~1947) Mystic Author, Novelist, Wales
注117
https://en.wikipedia.org/wiki/Angels_of_Mons#/media/File:Nov_29_1915_-_Illustrated_London_News_The_Ghostly_Bowmen_of_Mons_fight_the_Germans.jpg
注118 Heinz Wilhelm Guderian(1888~1954) Generaloberst(Heer) Deutschland
『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺020