ホテル家族
よく晴れたある日、うらぶれた中年のサラリーマンは、公園のベンチにいた。
桜が咲いている。
今年は日本で桜が咲いていないそうだが、なぜかここだけ咲いていた。
公園の桜には、非常線が敷かれていて、立ち入り禁止のマークがぶら下がっている。物々しく警備する警官たちを遠巻きに、スマホで桜の開花を撮影している人達がいた。
まるで、事件の現場であるかのような扱いだった。
昨夜、この公園で突如桜が咲き、SNS上、話が広がった。現場で場所取りをしていた宴会部長の話では、花咲爺が出たらしい。マスコミも駆けつけ、テレビのインタビューもしていた。
花咲爺というキーワードに、妙な既視感を覚えたが、特に追及はしなかった。
その動画をよく見ると、取引先の営業が話していた。以前、人を借りた事がある。
サラリーマンはする事もなく、有休消化に入っていた。手元には、一冊のすり切れた真っ赤な血のような奇書があるが、特に読んでいる訳でもない。ただぼんやりしていた。
習慣的にいつもの時間に家を出て、ここに辿り着いただけだ。
もしかしたら、この公園が、人生の終着駅かもしれない。
ポーンと手元のスマホが鳴ったので、画面を見ると、妻と間男のやり取りが始まっていた。
またサラリーマンから、慰謝料をふんだくる話をしている。
不倫をしているのは妻だ。自分ではない。
なぜ不倫された方が、不倫した方に慰謝料を払わなければならないのか。全くの謎理論だが、妻の中では正義であるらしい。「私を幸せにしなかった罪でギルティ」なのか。
どこの世界に、妻を寝取られて、慰謝料を払うバカがいるのか。
NTRも大概にしてほしい。自分にそんな属性はない。
それにしても、間男も行けると思っているのか、妻と話を合わせているように見える。
こちらに非がない以上、どこから検討しても、裁判で負ける余地はない。
これでも元法学部だ。腐ってもその程度の事は分かっている。
ここは日本なので、離婚したら、親権は確保できないかも知れないが、娘も要らない。
パパ活女子など、知った事ではない。新しいパパの元に行け。
トレースしている娘とパパのやり取りを見た。
行政書士を目指すためにお金がいるから始めたと娘は言っているが、特にこちらにそんな話を持ち掛けてきた訳でもない。大学の学費は払っているし、その行政書士を目指す理由もまともなものであれば、検討しないでもない。
だがそんな事はないのだろう。
パパからお金を貰っているうちに、行政書士でお金を稼ぐより、パパからお金をもらう方が早いという事に気が付いて、娘はあたかも人生の勝利者であるかのように振る舞っていた。
しかも娘は、妻と情報交換しており、裏で慰謝料の件で結託しているようだった。
バカらしい。お金など取れる訳がない。
だが問題は、娘のパパだった。何か余計な入れ知恵をしてくるかもしれない。
娘とのやり取りでも、どこか第三者の目を意識したような発言をしており、巧妙に自分を隠していた。問題が起きた時、被害を最小限にするため、逃げ道を確保しているように見える。
しかしサラリーマンは、最近このパパが何者なのか突き止めた。
IT業界大手Sierの監査役だった。コンプライアンス委員会を纏めている。
どうやら、うちの娘は、性的な監査対象として、目を付けられたらしい。
笑える話だが、哀れでもあった。
妻も娘も男たちに、踊らされているのだ。
彼女たちが考える程、世の男たちは甘くない。
利用しているつもりが、利用されているのだ。
それが分からない程愚かな女は、墜ちる処まで堕ちるだろう。
そう言えば、部下でもあった会社の若い女もよく言っていた。
「私を幸せにしなかった罪でギルティだよね」
頭に花が咲いた女だった。娘より2歳年上で、大学まで同じだった。
基本的に言う事を聞かない女だった。現状維持を至上命題に、テコでも動かない女だった。そして一度獲得した既得権益は、死んでも手放さない。そういう女だった。
またスマホが鳴った。
いい加減、妻と娘の痴態も見飽きてきた。
よくあんな写真を送るものだ。ア〇顔ダ〇ルピ〇スとは何か?
全人類の女性にちょっと意見を訊いてみたい。
こういう示威行動は一般的なのですか?と。
サラリーマンは静かに復讐を決意していた。
離婚してやらない。これが回答だ。
別に裁判しても負ける訳がないが、するのはバカバカしい。
彼女たちは騒ぐかも知れない。
向こうが、「私を幸せにしなかった罪でギルティ」と言うなら、こちらは「約束が違う」とだけ言うつもりだ。そしてこちらが許すまで、家族関係は維持する。
これは単なる意地ではない。男の責任だと思っている。
いまさら彼女たちが泣いて非を詫びるとは思わないが、最低限のラインだけは残しておく。
だがそれも失業した今、厳しいかもしれない。
さらに厄介な事に、やる気が全く起きなくなってしまった。
どうしてこうなってしまったのだろう。どこからおかしかったのだろうか?最初からか?
両親のような家庭は作るまいと考えていたが、結果的にはそれより酷くなった。
祖父母、両親、そして自分の家庭を比べて、何が違って、何が悪かったのか分からない。
今となっては、サラリーマンの家は、ホテルのように立ち寄る場になっている。それは妻や娘だけではなく、自分も変わらない。お互いの存在を感知するだけ鬱陶しい。
まさにホテル家族だ。家族でさえ、他人となり、核家族でさえ崩壊する。
ふと家で、白猫が独り「にゃあ」と鳴いているような気がした。
最近、他界した祖父母の事をよく思い出す。
子供の頃、夏休みに泊まった祖父母の家は良かった。
もう二十年以上、墓参りも行っていない。お彼岸とは何だったのか?
あの家の居間には、神棚があり、奥には仏壇があって、先祖が祀られていた。神道なのか、仏教なのかハッキリしないが、手を合わせる習慣だけはあった。
考えてみると、両親の家には、神棚も仏壇もなかった。無論、今の家にもない。
祖父母は上手く行っていたように見える。
もしかしたら、よく分からないこの信仰形態を失った事がいけないのかもしれない。
――神様は存在するのか?
牛丼屋の出来事は何だったのか、未だに分からないが、仙人とやらに遭遇した。
こうやって、神様が下界に降りて来るのは、確かに世界の終焉を意味するのかもしれない。
そう言えば昨日、ヨーロッパのどこかの都市に、核ミサイルが落ちたと報道されていた。
ネットは大騒ぎしているが、自分の周囲を見る限り、いつもの日常と変わらない。
SNSに遠くから映した映像が出回り始めているが、現地の情報は錯綜していてよく分からない。どちらかと言うと、自分としては、妻と娘の頭の上に、核弾頭を落として欲しかった。
あるいは、自分が地球周回超極音速ミサイルとやらに乗って、妻と娘の頭の上に人間核弾頭として、降下してやろうかとさえ思う。20年以上遅れてやってきた恐怖の大王だ。
だが自分は失業し、世界はまさに闇に堕ちようとしている。
ソドムとゴモラの街で、妻は不倫に勤しみ、娘はパパ活に忙しい。
西洋文明は間もなく終焉を迎え、アジアには軍靴の靴音が高らかに鳴り響く。
世も末だ。そして自分は、壊れたATMとして、夜精を漏らすぐらいしか能がない。
ふと手元にある真っ赤な奇書を、紐解いてみた。
發行日昭和九年(1934年)七月五日、著者澤田謙、發行者野間清治、發行所大日本雄辨會講談社、定價壹圓五拾錢、『ヒツ〇ラー傳』とある。
外箱の表面には、でかでかとちょび髭のドイツの独裁者の白黒写真が映り、裏面には真っ赤な背景に、白い円があり、そこに黒字で、スヴァスティカが不吉に打ち付けられていた。
中のハードカバーの表紙も、ナ〇ス・ドイツの鍵〇字で飾られていて、どこから見ても、危険思想の本だった。ページ数は551もあり、意外と厚い。
この本は、神保町の古書街で、500円で購入した。
コロナ前に、客先に謝罪の電話を入れながら、古書街を歩いていたら、ふと店外に放り出されていた書架の中から一際、赤と黒の異光を放つ本が目につき、その場で一本釣りした。
その後、客先に電話を入れながら、神田の喫茶店で一気に読破した。
この本は、ちょび髭の独裁者を激賞しており、ドイツ不世出の英雄として取り上げている。
1934年と言えば、すでにドイツの政権も獲得していて、全権委任法も通っている。
この担当政権は、我が世の春を詠い始め、突〇隊を粛清した長いナイフの夜も起きていた。
この本は、そこまでは叙述しており、ドイツは千年王国、第〇帝国を建設するだろうと結ぶ。
間違いなくこの本は、戦前の日本の息吹を伝える貴重な本だ。歴史的と言ってもいい。
今から見たら、この本は真逆の世界で、正真正銘の英雄として、ちょび髭の独裁者を扱っている。同じ著者で『ム〇ソリーニ傳』も存在するようだが、こちらはまだ見つかっていない。
探せば、神田の大古書海からサルベージできるかもしれないが、そこまでやる気力はない。
同じシリーズのタイトルも、『乃木将軍』『二宮奠徳』『敵中横斷三百里』などネタが尽きない。
だがこの本を読んで一番思った事は、歴史は本当に分からないだった。
その時、英雄扱いされている人物が、結果でもって判断され、後世で評価が逆転する。
これは現代でも同じだろう。そして歴史は繰り返される。文明の終焉に向かって。
そう考えると、素人なりに歴史の見方というのが出て来て、要するに、大衆の評価の逆を突けば、真実の評価、未来の評価に、辿り付けるのではないかと思うようになった。
これは大発見だった。それが実感として分かっただけでも、この本は価値がある。
そう考えてみると、現在の世界情勢も見えて来るものがないだろうか。現在の英雄は、未来の独裁者であり、現在の独裁者は、未来の英雄ではないか?そういう可能性はないか?
そして自分も、世界に復讐を誓うちょび髭の独裁者となり得るのか?
「……ちょっと君、いいか?」
ふと気が付くと、警官が二人立っていた。国家警察だ。特警の腕章が目につく。
「その本は何だね?ちょっと署まで同行願おうか?」
サラリーマンは、慌てて本を隠した。だが警官は本を奪おうとした。
「いや、この本は魔導書なんだ!1934年の世界と繋がっている!」
自分は一体何を口走っているのか。神田の古書街に魔導書なんてある訳がない。
「君はネオ・〇チか?偵察総局を呼んだ方がいいか?」
二人の警官が迫ってきた。国家権力がチラつく。その時、サラリーマンは叫んだ。
「待て、俺はそんなんじゃない。ただ妻と娘に復讐したいだけなんだ!」
『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』エピソード4
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