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マリア様は見ている

 その神父は、飛行機の中で嘆息していた。実は困っている。
 ヴァチカンの教理省からの指示で、マリア様を追い掛ける事になった。
 聖母マリアだ。世界各地に出現していると言う。全て教区内だ。
 噓みたいな話だが、本当の話だ。実は20世紀から、そういう話はあった。遡ると、19世紀にもそういう記録はあるし、あるいは、もっと古い記録もある。
 とにかく、マリア様が、教区に現れるのだ。そしてメッセージを伝えて、お祈りをする。そして次回予定を伝えて、立ち去る。それだけだ。
 ただし、目に見えない存在であり、若いシスターや子供、老人にしか感じられない存在だ。決まった特定の人が選ばれて、お話をしたり、お祈りをする。そして次回予定を伝えて、立ち去るスタイルは全て共通しており、世界各地で続いている。
 これを捕まえて、調査せよというのが、教理省からの指示だ。教理省というのは、昔魔女狩りで、呪われた異端審問をやっていた部署だ。規律部門が特にそうだった。法王庁教理聖省異端審問局と言う。今は法王庁教理省規律部門と言う。
 神父はこの部署に属している。時代が時代なら、彼は異端審問官だ。
 なぜこんな話になっているのかと言うと、とある教区の神父から、クレームのような陳情が入り、このままでは、信徒たちが言う事を聞かなくなるかもしれない。教区の皆が、マリア様の話をしており、統制が効かなくなっていると訴えがあった。
 厄介な事になった。
 信仰の対象となっている人物が、実際に現れて、人々に影響力を及ぼす。ヴァチカンとしても無視できない話であり、困っていた。無論、これまでも目撃情報や証言はあった。だが問題にならなかった。少数だったからだ。しかしここ最近、急増した。
 理由は分かっていない。なぜ増えたのか?
 ここ200年、教会は報告を受けても、あまり動かなかった。確かに一部のシスターが、こちらが指示していない事をやっていたが、害になるという程ではなかったので、放置していた。有名なルルドの泉(注82)もあったが、例外だ。認定した。
 教会とマリア様は、これまで共存して来たのだ。上手くやっていた。
 だがこのバランスが崩れて、とうとうヴァチカンが調査に乗り出してしまったのだ。これは面倒な事になった。神父は、資料を読んで、このマリア様が偽者とも思えなかったので、より苦悩した。もし本物のマリア様なら、捕まえてどうするのか?
 そもそも、目に見えないのである。捕まえようがない。聖霊か。テキトーに調査して、テキトーな報告書を書いて、済ませたいが、厄介な人物がお目付けに来た。エクソシストだ。本物の悪魔祓い師という触れ込みで来ている。薄気味悪い奴だ。
 神父は、こんな人物と一緒に出張に出て、マリア様を追い掛ける事にストレスを感じていた。なぜ神は、このような試練を与えたもうたのか?意味が分からない。
 神父は飛行機の中で嘆息した。
 スマホのカレンダーで、マリア様の予定を見る。これまで世界各地で、報告があった次回出現予定を纏めたものだ。昔は難しかったが、今はネットもあり、報告はリアルタイムで届く。それを入力しただけだが、それだけですでに驚きの結果だ。
 かなりのハードスケジュールで、マリア様が、活動している様子が伺える。とある日など、午前中は南米、お昼に東欧、夕方はまた中米と、飛行機で追い掛けても、時間的に不可能な場合さえある。このマリア様は、一体何をしているのか?
 主に、東欧と南米が多いが、一部アジア地域もあり、出現場所は多様だった。ちょっと気になったのは、北米が出現予定ゼロという事だった。西欧も少ない。これは一体何を意味するのか?カトリックの勢力を反映してそうなったのか?よく分からない。
 今回は、ブエノスアイレスに向かっている。南米アルゼンチンの首都だ。
 聖母マリアは、この首都のスラム街の一角にある、小さな教会に現れると言う。
 2人の若いシスターが、マリア様から指名を受けており、指導を受けていると言う。やる事はお祈りだけだ。あとはスラム街で、子供たちの前に現れて、お話をしたと聞いている。正直、羨ましい。これでも聖職者だ。会えるなら、会ってみたい。
 「多分、見えないと思いますよ」
 その若いシスターは、開口一番そう言った。神父は微笑んだ。
 「……そうですか。まぁ、それは仕方ないです」
 自慢ではないが、霊が見えない。このマリア様は、聖霊みたいな存在のようだが、目に見えなくても、声は聞こえると言う。ただしそれは大人のシスターの話であって、子供たちは明確に姿も見ていると言う。やはり、穢れた大人ではダメなのか。
 「どのようなご用件で参られたのですか?」
 まさかマリア様を捕まえに来たとは言えない。現地協力が得られない。
 「……まぁ、ちょっとした見学です。お邪魔しません」
 どの道、様子を見ないと動けない。だがこの同行者は邪魔だ。
 「……あなたは外で待ちなさい」
 神父はエクソシストにそう言った。その人物は黙って外に出た。
 予定の時間になると、礼拝堂の様子が一変した。少なくとも、二人の若いシスターが何かに反応していた。目を閉じて、小さな声で呟いている。何か目に見えない存在と交信しているように見えた。ふと、視線のようなものを感じた。見られた?
 「終わりました。マリア様からスピリチュアル・メッセージがあります」
 神父はシスターを見た。次の言葉を待つ。
 「法王庁に伝えて下さい。祈りなさいと」
 ドキッとした。マリア様が正面切って、ヴァチカンに意見する?これはヤバイ。
 「……分かりました。お伝えします」
 気が付いたら、そう答えていた。いや、どう報告する?これは不味い。不味いぞ。
 「マリア様と会った子供たちに会いますか?」
 シスターがそう言うと、神父はとりあえず、会う事にした。スラム街を歩く。
 そこは小学校低学年の教室だった。子供たちがいて、マグダラのマリアが、オルガンで『猫踏んじゃった♪』を激しく演奏している。いや、待て。二度見した。
 完全な顔をした女性がいる。保母さんみたいな姿をしているが、これは間違いない。
 「……あなたはマグダラのマリアか」
 神父は震える声で、近づいた。マグダラのマリアは気が付いて、こちらを向いた。
 「来たね。ヴァチカンの異端審問官さんとエクソシストさん」
 退魔師は咄嗟に構えて、何かしようとしたが、一瞬でノックアウトされた。一体何が起きたのか分からない。霊的戦闘があった?凄腕と聞いていたが。
 「面倒だから眠ってもらったよ。後で起こして、連れて帰ってね」
 マグダラのマリアはそう言った。若い。弾むような声だ。だがやはり風格がある。彼女は原初キリスト教シスター軍団No.2だ。実は彼女の隠れファンだったりする。
 あの方が十字架に掛けられた時、もう終わりだと思って、12弟子は皆逃げてしまった。だが女たちは残った。踏み留まった。信仰を捨てず、最初から最後まで付き従った。女たちの信仰は強く、男たちは弱かった。殉教と引き換えで、逆転したが。
 そしてこの女たちの中心に、聖母マリアがいた。原初シスター軍団No.1だ。
 「私はあの方からマナを頂いて、現界しているの。サーヴァントじゃないよ」
 元娼婦の聖女はそう言って、スマホをかざした。現代っ子みたいだが、違うだろう。
 「……世界で今、何が起きているのですか?」
 思い切って、神父は尋ねてみた。予ねてからの疑問だった。最近、世界がおかしい。
 「終局だよ。今の文明が終わろうとしている」
 それは世界が終わると言っているのか?しかしどう終わるのか、よく分からない。
 「他もそうだけど、キリスト教もどうなるか分からないね」
 衝撃的だった。そんなバカなと崩れそうになる。聖女がそんな事を言うのか。
 「……あのお方は今、何をされているのですか?」
 「天なる父、主と共に、この星を救うお仕事をなさっています」
 そこは真面目な顔をして言った。マグダラのマリアでさえ、かなり差があるようだ。
 「……聖母マリア様は?」
 「今は現場かな。あの方から任されたから、全力で動いている。私もそうだけど」
 案内した若いシスターが、そろそろ時間だと合図を送る。なぜかこちらを見る。
 「……最後にどうか、お手に触れさせて下さい」
 「やだ。H!」
 だが神父は、元娼婦の聖女の手に軽く触れて、接吻した。隠し撮りも忘れない。一生の宝だ。懺悔室に飾ろう。スマホを素早く確かめる。懺悔だ。次の目的地に向かう。
 聖母マリアは現場に出ている。考えてみれば、あのインドの聖女もそうだった。
 ちょっと衝撃的な話もあったが、思わぬ形で、マグダラのマリアの写真を入手できた。懺悔しなければならない。だがこのヒヨコの保母さん服も似合っている。ちょっとびっくりしたような表情もいい。早く懺悔しなければならない。ああ、マリア様。
 次の目的地は南欧の片田舎だった。クロアチアの首都ザグレブの近郊だ。小さな教会がある。礼拝堂で、独り祈る老シスターがいた。
 一瞬、時を忘れた。老いさらばえ、枯れたシスターだったが、その横顔はとても穏やかで美しい。人が祈る姿が、これほど美しいと感じたのは初めてだ。
 それに対して、自分はどうだ。マグダラのマリアの写真を手に入れて、喜んでいる。
 「あのもし?」
 老シスターが気付いて、こちらに声を掛けてきた。
 「……ああ、どうぞお構いなく!」
 予定の時間をブッチした。神父は教会を出て、路地を歩く。
 マグダラのマリアの写真を手に入れたのだ。もういい。帰ろう。報告書なんてどうでもいい。ブエノスアイレスに、エクソシストも忘れて来た。回収に行かないと。
 するとなぜか、路地裏に先程の老シスターがいた。回り込まれた?
 「写真を消しなさい」
 神父はびっくりして飛び上がる。そして気が付く。この人物が何者であるかを。
 「恐らく、わざと撮らせたのでしょうけど、あの子にも困ったものです」
 聖母マリアは言った。光輝く姿を見せる。完全な顔だ。眩しくて、目が潰れる。
 「もう一度いいますよ。写真を消しなさい」
 「……はい。分かりました。消します」
 後日、神父はヴァチカンに報告書を送った。聖母マリアは現場にいる。マリア様は見ている。無論、祈れという文言も忘れない。法王庁上層部に伝える。その後、法王自ら、一人の僧として、世界のために、祈りの時間を取ったと聞いた。
 
注82 1854年フランスのルルドに聖母マリアが現れて、病気を癒す泉を示した。

         『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』エピソード106

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