花神
「参ったな……」
その宴会部長は、桜の木の下で、ビニールシートを広げて、ただ独り座っていた。
「今週の土日咲かなきゃ、いつ咲くんだ?まさか本当に咲かないのか?」
会社からの指示で、毎年場所取りをしていたが、こんな事は初めてだった。
「一体どうなっているんだ?」
その年、日本中の桜が咲かなかった。
理由は分からない。だが海外の桜は咲いていた。日本だけ咲かないのだ。
その年の春、例年にない寒冷な気候が続き、世間では、異常気象のためと説明されていたが、北は北海道から、南は沖縄まで桜が咲かないのだ。気象が原因でない事は、明らかだった。
それにしても、こんな深夜の公園で、青いビニールシートを広げ、中央に酒瓶を置き、四方に石を置いていると、場所取りだと分かるが、まるでおまじないか、何かの召喚儀式に見える。
「頼むから咲いてくれよ……」
宴会部長は、途方に暮れた。
「もう日本では、桜は咲かないぞ」
ふと声が聞こえた。見上げると、桜の木の上に、白髪白髭の老人が立っていた。
「誰だ?爺さん」
その老人は、すっと音もなく降りて来た。
「花咲爺じゃよ」
「……花咲爺?」
宴会部長は驚いた。
「今はお役目御免で、失業しているがな」
「え?花咲爺がお役目御免で失業?」
パワーワードが多過ぎて、宴会部長はついていけなかった。
「ああ、桃源郷が閉ざされた。あの世の終わりだ」
「……あの世の終わり?」
この世の終わりという言葉は聞いた事があるが、あの世の終わりとは聞いた事がない。
「ああ、あの世の終わりだ――怖いぞ?」
花咲爺は、遠くを見ていた。
「爺さんは一体何者だ?」
いきなり現れたが、只者でない事は分かった。こっそり酒を呑んで、幻を見た訳じゃない。
「日本が出来てから、ずっと桜の花を咲かせてきた。だがこんな事は初めてじゃ」
「……日本が出来てから?それはいつの話だ?」
「大陸から切り離された頃かの。どれくらい昔かよく分からん。2~3万年前?」
宴会部長が、数字の大きさに驚くと、花咲爺はやや曖昧に頷いた。
「話についていけない。もう少し科学的に語ってくれ」
宴会部長は、なぜか白髪白髭の老人の話を無視できなかった。夜一人でいたからじゃない。
「……お主の事はよく知っておるぞ。毎年、桜の開花を気にして、そわそわしているからな」
その彫りの深い老人の笑顔に、目を奪われた。決してハッとしたからではない。
「そりゃあ、会社からの指示で、嫌々やっているだけだ。誰もやりたがらないからな」
宴会部長は、元COBOLのSEで、今は営業職にいる。社内ではイベント委員会に属している。会社の盛り上げ役だ。IT会社には暗い奴が多いが、この宴会部長は、陰キャじゃない。
「でもどうして桜が咲かないんだ」
宴会部長は、これは不条理だと訴えた。
「桃源郷が閉ざされたからな。人々が何も信じなくなった」
花咲爺は淡々と語った。
「それがどう論理的に繋がるんだ?」
宴会部長は尋ねた。
「お主らは、神を全く信じなくなったからな。それ自体、罪と言えば罪だが、それがどんな結果をもたらすのかまでは、全然考えていなかったようじゃな」
花咲爺は、咲かない桜の木を見上げた。
「それがこの結果なのか?」
宴会部長は驚いた。神様を信じなくなると、桜が咲かなくなるのか。意味が分からない。
「間もなく、世界中で、神々の失業が始まるじゃろう」
「神々の失業?」
さっきも似たような事を言っていた。
「名もない端役の神々から、お役目御免じゃな」
花咲爺はそう言うと、ビニールシートに腰を下ろした。
「名前がある神様は別じゃが、わしみたいに役職名だけで呼ばれる名無しの神はダメじゃ」
宴会部長は、失業はよくないと思った。
「……どうすればいい?」
問題は解決しなければならない。
技術者も、科学者の端くれだ。
広いこの世界を探求し、努力と工夫と創意で、問題を解決しなければならない。ソリューションの精神だけは失ってはならない。社是にもある。
花咲爺は宴会部長を見た。
「酒はあるか?」
「……ここに」
宴会部長は、さっきこっそり開けた鬼殺しを一献出した。
「いただこう」
ただの紙コップだったが、二人は酒を酌み交わした。
「どうじゃ、わしと義兄弟にならないか?」
唐突だった。宴会部長は首を傾げた。
「桃園ならず、桜園の誓いという訳じゃ。尤も、桜は咲いていないがな」
花咲爺が自嘲気味にそう言うと、宴会部長は尋ねた。
「義兄弟になると、何か状況が変わるのか?」
「……共に夢を見る事ができる。共に夢を追う事ができる」
花咲爺はこちらを見ていた。
「分かった。なろう。義兄弟に」
その程度で、この老人の心が休まるなら、別にいいかと思った。
「ほ」
花咲爺は笑った。
それこそ、今ぱっと花が咲いたかのようだった。
実はこの爺さん、見た目は老人だが、中身は美少女だったりしないか。
昔、そんなエロゲはなかったか。いや、仏典の説話だったかもしれない。
「では今から、我らは兄弟だ。共に夢を追おうぞ」
二人は紙コップで乾杯をした。
「……でも具体的に何をやるんだ?」
「お主はどうしたい?」
逆に尋ねられて、宴会部長は考えた。
「……そうだな。もう一度、ここで、桜の花が咲くのを見たいな」
「ほ」
花咲爺は再び笑った。
どうやら気に入られたようだった。
「どれ一つ、夢を見せて進ぜよう」
花咲爺は、青いビニールシートに、紙コップから酒を垂らした。小さな池ができる。
「花の神よ、花の神よ、ここに来たりて、そなたの夢を教えてくだされ。それは水であり、それは酒であり、それは海だ。夢よ、実現せよ」
酒の泉から、ぶわっと桜吹雪が吹き上がり、たちまち桜の木が咲いた。
「……神様には、内緒じゃぞ。職権乱用だからな――ってわしが担当の神だったか!」
花咲爺は、おどけてみせた。
宴会部長は、深夜に突如、一本だけ咲いた桜の木を見上げていた。
感動していた。この爺さんは本物だ。たとえ幻だったとしても、これは凄い。
「担当者レベルの職権乱用はよくある事だ……」
宴会部長がそう答えると、それから二人は酒を酌み交わした。
「……お、狂い咲きか?いいねぇ」
そこに、もの好きのおっさんが通り掛かった。
花咲爺が、笑顔で紙コップを掲げると、もの好きのおっさんは、ありがたく頂いた。
「俺も俺も」
さらに若い野次馬が加わった。
「何じゃ、楽しそうじゃな。宴会芸はどうした?」
最後に、年寄りの冷やかしが来た。
たちまち、男五人で宴会が始まった。日本最後の花見だ。
「枯れ木に、花を咲かせましょう~♪」
花咲爺が舞を舞い、宴会部長が、手拍子を叩いた。
すると、隣の木の枝から、桜が吹いた。
「枯れ木に、花を咲かせましょう~♪」
花咲爺が、扇子を広げて、舞を舞うと、さらに公園の桜が吹いた。
「……流石だな。爺さん。3万年のキャリアは伊達じゃない」
宴会部長は手を叩きながら、涙を流していた。いや、これは目にゴミが入った訳じゃない。
「我、美の星を渡る星の花神、今こそ日の本に集い来たりて、桃源の花を咲かせん~♪」
花咲爺は、扇子を返して、青いビニールシートの上を舞っていた。
宴会部長は酔っていた。気が付くと、公園中の桜の花が咲いていた。人々が驚いている。
「あ~、こりゃあ、いかん。調子に乗ってやり過ぎた。あとで上から怒られる」
花咲爺は、扇子を閉じて、自分の頭をぴしゃりと叩いた。
「……別にいいんじゃないか」
宴会部長は言った。始末書なんて、テンプレートに文字を入力して、送信するだけだ。
「お主は他人事じゃのう。とりあえず、これくらいでお開きじゃ」
花咲爺がそう宣言すると、五人は「よーっ!」と一本締めをしてから、撤収を開始した。
宴会部長は、最後に花咲爺に尋ねた。
「それにしても、爺さん、何者だ?花咲爺って一体?」
「……今も昔も、ただの名もなき花神じゃよ。枯れ木に花を咲かすだけのな」
花咲爺はそう言うと、桜吹雪と共に、姿をかき消した。
『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』エピソード2