玄奘、屈支(クチャ)に滞在
石や瓦で積み上げられた粗末な塔があった。
街道沿いに崖があり、その下には泉が湧いていた。
旅人が休憩して、水補給する場になっている。
「……この水場には言い伝えがあります」
若い従者が言った。一行は水場で休憩を取っている。
「それはどのような言い伝えかな?」
玄奘が尋ねると、若い従者は答えた。
「……昔、商人たちの隊商が、水不足で困っていました。1人の僧がいたのですが、皆、水がなくて困っているのに、僧は少しも困っていない。だから僧に相談しました」
女の童が、近くに来て座った。こちらを見上げている。
「……もし水が欲しかったら、仏に礼して、三帰五戒を受けなさい。そうすれば、私はあの崖に登って、あなたたちのために、水を何とか用意しましょう」
玄奘は黙って話を聞いている。女の童が錫杖を預かった。
「……商人たちは、仏に礼して、三帰五戒を受けました。僧は商人たちに、あの崖に登って、私のために水を下さい、と祈るように伝えました」
女の童は、玄奘の顔と若い従者の顔をそれぞれ見た。
「……商人たちが、崖に登り、水を請うと、崖の下から水が沸いて、泉が出来ました。商人たちは喜び、僧にお礼を言おうとしましたが、僧は何処にもいません」
「ああ」
玄奘は声を出したが、その後は続かなかった。
「……僧は亡くなっていました。商人たちは、西域の習いに従い、僧を火葬しました。そして僧がいた場所に、石や瓦を積んで、塔を作りました」
三人は、崖の上の小さな塔を見上げた。
「祈りの力は偉大だ。だがそれも信心あっての事だ。信心がない祈りは、呪いに転化する。己の欲望を果たそうとする願いだからだ。だからみだりに祈るなと言う」
玄奘がそう解説すると、若い従者も頷いた。
「……師よ。その通りだと思います」
「反省と祈りが、我々に与えられた手段だ。反省は過去を変え、祈りは未来を変える。仏道は反省に強く、景教(キリスト教)は祈りに強い」
「……師が他の教えに触れるのは珍しいですね」
「ここから先は、論戦になる。備えだよ」
玄奘が立ち上がると、休憩は終わった。老赤馬がいなないた。
旅の途中で、盗賊に遭った。胡人、ソグド人だ。
深目均鼻(じんもくきんび)、紫髯緑眼(しぜんりょくがん)だ。
キャラバンだったから、見つかったのかも知れない。
だが物を与えると、盗賊たちは立ち去った。屈支(クチャ)は近い。
旅を急ごう。夜、寝ている間に、隊商から離れる者たちがいた。
先に屈支に行って、金を稼ごうとしたらしい。
だが昼間、路上に遺体になって転がっていた。
金目なものはなく、全員斬り殺されている。
玄奘は道端で供養した。盗賊の仕業か。悲しい。
屈支は、天山南路の中間地点にあった。
ここには、高昌人がいて、先に寺に泊まるように勧められた。
だがその前に、屈支王と仏僧モークシャグプタが出迎えた。
二人の胡人は、見るからに居丈高で、ちょっと嫌な感じがした。
王城の東門に幔幕を張り、楽師たちが胡弓を奏でている。
テントの中には立像が置かれていた。それは仏像だった。
玄奘らが到着すると、僧たちが現われて、慰労の言葉を述べた。
一人の比丘尼が、美しい花を盆に盛り、捧げ持って玄奘に授けた。
受け取ると、仏前で散華礼拝(さんげれいはい)した。天竺の習いだ。
玄奘が用意された席に座ると、一人の僧が木杯を出した。
蒲桃漿(ほとうしょう)で口を清めた。ジュースの一種だ。
それから、屈支王と僧グプタと多少、言葉を交わした。
だが高昌人たちが来て、寺に泊まるように玄奘に言った。
「……お願いしたい儀がございます」
その高昌人は、耳元で声を潜めて、玄奘に言った。
「それは何かな?」
「……ここでは言えません。話は寺で……」
厄介そうな話だった。余計なトラブルは勘弁願いたい。
夜になると、玄奘は高昌人の僧たちから話を聞いた。
それは僧グプタの件だった。この国で大変尊敬されているらしい。
「……しかしながら、良くありませぬ。話して下さいますか?」
「何が問題なのだ?」
「……教学を怠っております。しばしばお経を忘れております」
増上慢か。よくある話だ。だがこの国で解決すれば良かろう。旅を急ぐ。
「……お待ちください。我らにも西天取経の意義を説いて下さい」
「こちらは大乗だ。小乗と論戦をやれと言うのか?」
見た処、僧グプタは小乗仏教のようだった。
「……それも必要ならば、ぜひともお願い致します」
高昌人たちから頭を下げられた。トルファンの話が伝わっているらしい。
「分かった。僧グプタと話そう」
玄奘はこれも修行と思い、引き受ける事にした。
王城には、阿奢理弐(アーチシャリヤ)伽藍があった。
僧グプタが全て差配し、取り仕切っている。
玄奘らが訪れると、お斎が配された。
ちょうど昼時だった。屈支王も同席した。
玄奘は調理された肉を見て、箸を置いた。
「三浄は大乗で許されておりません」
「……なぜか?小乗では許されているのに」
「民が見ているからです」
玄奘がそう答えると、僧グプタはこちらを見た。
「一切衆生救済を謳いながら、三浄を食べるのは殺生を連想する」
「……三浄は殺生ではない」
死肉だ。衰弱死、事故死した家畜の肉を調理して出している。
「……まぁ、かたい事を言うな」
屈支王が二人の間を取り持った。だが僧グプタは納得しない。
「……小乗の教えを否定されるのか?」
「否定はしない。小乗もまた仏陀の教えなり」
そう答えると、屈支王と僧グプタは玄奘を見た。
「大乗もまた仏陀の教えなり。だが今は大乗がより適している」
「……どう適しているのか?」
僧グプタは斬り込んで来た。
「小乗は個の悟り、大乗は全体の悟り」
そんな事は分かっているという顔をしている。
「僧が個の悟りに満足しては、全体が救えぬ」
「……だがそれは政治の話ではないか?」
僧グプタが指摘した。玄奘は認めた。
「そうかもしれぬ。仏陀は政治・経済の教えを説かなかった」
僧グプタはますます身を乗り出した。
「……それなら、どうするのだ?大乗では?」
「なぜ釈迦族が殲滅されたか分かりますか?」
玄奘が尋ねると、僧グプタは戸惑った。なぜ今その問いを立てる?
「小乗の教えに則り、戒律を守っていたからです」
それの何が間違っているのかという顔をしている。
「だが国は滅びた。個の悟りでは全体は救えぬ」
「……個の悟りと国は別ではないか?」
「国全体で小乗の教えを守った結果、国が滅びては意味がない」
「……仏陀の批判とも取れる言葉だぞ。破戒僧め」
僧グプタは警告した。玄奘は静かに首を横に振った。
「だから大乗の教えだ。釈迦族は教えの選択を間違えた」
「……大乗だと滅びないと言えるのか?」
「少なくとも小乗と同じ結果にはならない」
屈支王が二人の間に入ってきた。
「……大乗の教えに興味がある。国が救われるか?」
「無論、大乗は一切衆生救済の教えです」
「……具体的にはどうするのだ?」
「全体を救うという観点、人類の幸福という観点から考えて行動する」
「……それは場合によっては、戒律も捨てろと言うのか?」
僧グプタが再び斬り込んできた。
「涅槃に入る前、少々戒は捨ててもよいと仏陀も説いている」
「……拡大解釈を許す。規律が守れない」
僧グプタは受け入れられないという構えを取った。
「繰り返すが小乗教は否定しない。個の悟りも大事だ」
「……余は大乗の教えを聞きたい。国を預かる身として」
屈支王がそう言うと、僧グプタはショックを受けていた。
「……適しているという意味も何となく分かった。ここに留まれ」
「そういう訳には行きません。天竺に行かせて下さい。」
結局、数か月滞在した。それが玄奘、屈支(クチャ)に滞在だった。
『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺043
『玄奘、天山南路を通過』 9/20話 玄奘の旅 以下リンク
『玄奘、西天取経の旅に出る』 1/20話 玄奘の旅 以下リンク
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?