見出し画像

敗訴

 そのうらぶれた元サラリーマンは、家で何度も裁判所から来た書面を見ていた。
 不倫をしている妻との離婚が成立し、あまつさえ慰謝料の話さえ示されていた。
 敗訴していた。
 信じられなかった。不倫をしているのは妻だ。自分ではない。そしてこちらは離婚には同意していない。そもそも離婚が成立する事自体異常だった。在り得ない。ここは日本か?
 配偶者が行方不明、すでに死んでいるとか、あるいは重度の精神障害を起こしているとか、そういう理由があれば、裁判所も離婚を認める事はある。
 あとは長期間別居しているという証拠や、家庭内暴力で犯罪と認定された場合だ。だが今回のケースではどちらでもない。妻は家にいる。顔は見せないが。
 意味が分からなかった。
 配偶者の同意がないのに、離婚が成立するケースは、第三者的に見ても、それに相当する理由がないといけない。だが今回のケースは全て超えていた。恐ろしく一方的な判決だった。
 弁護士に連絡を取るべきだろう。
 だが元サラリーマン、あるいは失業者は、裁判所から来た書面を持って家を出た。
 いつもの公園に向かう。
 季節は変わり、梅雨に入っていた。あれから三か月経過したが、職には就いていない。有休消化を終えた後、そのまま退職した。その後ずっと裁判と掛かり切りになっていた。
 全てがおかしかった。
 裁判所の判断を疑っていた。通常では在り得ない判決だ。外部から何か圧力が掛かったとしか思えない。妻は政治家の娘だった。だが義理の父であるこの人物から何も連絡はない。
 この人物は、有力な国会議員で、裁判所に政治的な圧力を掛ける事はできるのかもしれない。だが娘のために、そこまでやる理由があるのだろうか。ないように思われる。
 恐らくこの人物は今回の裁判と関係がない。シロだ。
 ますます意味が分からず、思考は迷路に入った。日本の裁判は変わった?
 最近、アメリカの裁判を見ていて笑った事があった。
 そもそも制度が違うので、あまり参考にはならないが、久しぶりに色々判例を見ていたら、カー〇ックス裁判という話があった。車の保険会社が敗訴したケースだ。
 男性が感染症の病気に罹患しており、車の中で女性と性〇為をして、その病気を感染させた。その女性は怒って、車の保険会社を訴えた。驚いた車の保険会社も弁護士を立てて対応したが、結果的には敗訴した。理由としては、車の保険の約款に書いていなかったからとされた。
 アメリカ社会は驚かなかった。むしろ当然とされ、高度にソフィスティケートされたケースとして取り上げていた。誰も頭がおかしいと思わなかったらしい。
 この場合、裁判所というより、陪審員たちの頭が問題だろう。
 それはアメリカ社会の常識を示している。
 その失業者は、対岸の火事と思い、そんな事もあるかぐらいに思っていた。ここは日本で良識がある。そんな荒唐無稽な裁判は起きない。そう思っていた。
 しかしウルトラ裁判という意味では、これはカーセッ〇ス裁判並みに思われた。
 意味が分からない。誰得だ?いや、それは妻か。
 スマホを取り出したが、どこにも連絡する気が起きなかった。弁護士も含めて、世間全体がグルになって、悪意でもって、こちらを包囲殲滅して来るようにさえ思えた。
 惨めだった。いつもの事だが。
 不倫している妻と話すべきとも思われたが、それは止めた。不気味に感じ始めていた。
 パパ活をやっていた娘は様子が変わった。どうやらパパ活をやめたようだった。理由までは分からない。家で白猫と一緒にいる。大学には行っているようだが、夜時々家を出ている。今何の活動をやっているのか分からない。だが問題はなさそうだった。それならいい。
 しかし、職を失い、家庭も失う事が確定した。
 ふと裁判所から来た書面を見たが、娘の親権の事は書かれていなかった。だがこの調子では、妻の方に行くだろう。日本社会とはそういうものだ。
 本人の意志はどうだろうかという疑問が、ふと頭に過った。
 いや、自分の意思はどうだろうか。元パパ活女子大生を引き続き娘として扱うべきか。
 理由までは分からないが、パパ活を止めて、まっとうな道に戻るなら、それはそれでよいと思う。本人が望むなら、引き続き面倒を見てもよい。まだお金はある。
 問題は妻だったが、本当の問題は自分自身だった。
 半世紀近く生きて、何の役にも立たない男が独りだけ残ってしまった。
 別に世間に申し訳ないとか、昔の人みたいな事は考えないが、さりとて、今後どうするのか問題だった。娘の大学卒業までは目途が立っている。自分はいてもいなくても関係ない。
 本格的にする事がなくなってしまった。
 自分は何のために生きてきたのだろう。他の人は、何かしら道を見つけて、生きているようにさえ見える。だが自分に関しては、偽りの道を歩いて来たようにさえ感じ始めていた。
 全てに価値がなく、全てが無意味。そういう暗い穴が覗いて見えた。
 元サラリーマンは公園のベンチで独り、緑の葉を茂らせる桜の木を眺めていた。
 スマホを見ると、電波の柱がちゃんと立っていた。今日は調子がいいようだ。
 ニュースを見ると、世間は相変わらず騒がしかった。百里基地の基地司令解任がヘッドラインを飾っていた。海外報道機関経由で、日本のUFO情報を発信したためとされていた。
 よく分からないが、アメリカのケーブルテレビが日本のUFO情報をすっぱ抜き、動画付きで全世界配信した。日本のマスコミは、取り上げるもの、無視するものに分かれた。
 ただどの日本のニュースも、UFOをフェイク・ニュースとして扱っていた。基地司令の解任ばかり強調されていた。しかしアメリカからフェイク・ニュースではないとクレームが来た。
 検証番組まで作られ、日米でUFO問題が論じられていた。日本人は全て評論家になった。
 幕末、浦賀に黒船が来た時も、数年前から前触れがあった。似たようなものかもしれない。
 失業者は独り、心の中で嗤うと、スマホをそっとしまった。どうでもいい。
 ベンチから立ち上がると、公園を歩いた。
 不意に背後から、悪意の笑いを感じて振り返ると、若者たちがいた。
 「……よう、おっさん。また会ったな」
 以前、元サラリーマンに対してオヤジ狩りをしてきた若者たちだった。
 「今日は幾らくれるんだ?」
 若者たちはニヤニヤ笑いながら、近づいて来た。
 実はこの公園には、いつも警察がいる。なぜか桜の木に張り付いている。流石に人数は少ないが、まだ非常線は撤去していていない。だがあの警察は当てにならない。特警だ。
 一瞬、取調室での記憶がフラッシュ・バックした。顔面の痛みが蘇る。
 「……持ち合わせはない。財布は家においてきた」
 取られる事を想定して、用心した訳ではないが、手元に財布がないのは事実だった。
 「家まで取りに行けよ。金ねンだわ。ていうか令和高過ぎ」
 若者の一人がそう言った。
 「ついて行ってやるからよ。慈善活動だ」
 また別の若者がそう言った。
 失業者は少し歩いて、場所を変えた。
 「……それは勘弁してくれないか」
 「ああ?」
 若者の一人が凄んだ。
 そこで元サラリーマンは振り返った。
 「勘弁してくれないか」
 桜の木の下に立つ警官がこちらを見ていた。特警の腕章を付けている。
 「……じゃあ、俺たち全員の股の下を潜ったら、許してやるよ」
 その若者は言った。
 「分かった。そうしよう」
 失業者は黙って、オヤジ狩りをやる若者たち全員の股の下を潜った。
 桜の木の下に立つ警官がこちらを見ていた。特警の腕章を付けている。
 「……これでいいか」
 元サラリーマンが膝の汚れをパンパンと払うと、若者たちはニヤニヤ笑いながら立ち去った。
 その公園には小さな池があり、柳の木があった。近くにベンチがある。
 失業者はそこに移動すると、ベンチに腰掛けて、水面を見ていた。
この水面の向こう側に、もう一つの世界はないだろうか。その境界面には厚さがないのに、世界を無限に反射している。水面とは一体何だろうか。その時、光が溢れた。
 「……お前さん、酷い顔をしているね」
 見ると、柳の木の下に老婆が立っていた。手に何か下げている。白いビニール袋だ。
 「いい年してどうした?」
 元サラリーマンは答えなかった。反応が鈍い。
 「仕方ないね。これでも食べて元気を出しな」
 それは牛丼だった。テイクアウトだ。大盛りだ。
 見ると、急に腹が減って来た。そう言えば、朝から何も食べていない。
 「……いいのか。貰って」
 この時、断るという選択肢が思い浮かばなかった。理由は分からない。
 「いいよ。たんとおあがり」
 老婆は優しかった。目に染みる。割り箸を手に取った。
 その牛丼は旨かった。最後に牛丼を食べたのはいつだったか。
 いや、最後に牛丼屋に行った時、食べたのは牛皿だった。牛丼ではない。
 「……ありがとう。旨かったよ」
 失業者は牛丼を食べてしまった。そしてなぜか用意していたお茶まで貰う。
 ふと疑問が生じた。街の牛丼屋は全滅した筈だった。最近の物価高騰を受けて、原町田の飲食店が壊滅してしまったのだ。入手は不可能ではないにしても、恐ろしく高い筈だった。十倍どころではない。そう言えば、あの時貰った聖徳太子の一万円札は、まだ返していない。
 老婆がこちらを見ていた。どこか死んだ田舎の祖母に似ていた。気のせいかもしれない。
 「……婆さんはどこの人?名前は何て言うんだい?」
 「あたしゃ、ヒロインだよ」
 間が空いた。空気の入れ替えが必要だったかもしれない。
 「元気が出たかい。いい年をした男ならめげるんじゃないよ。一人で立つんだ」
 その老婆は何かを示した。あるいは何も示さなかったのかも知れない。
 失業者は立ち上がると、世界に対する復讐について想いを馳せた。
 「……ああ、まだ終わらんよ。まだな」
 うらぶれた元サラリーマンは、老婆にお礼を言った。まだできる事がある。
 その桜の木の下に立つ警官はこちらを見ていた。特警の腕章を付けていた。

          『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』エピソード20

いいなと思ったら応援しよう!