第五の粘土板 森番フンババ
怒れるフンババは、赤熱していた。その腸を丸めた様な顔を膨らませ、その赤黒い巨体をブルブルと蠕動させていた。アンズーの眼を通じて見ていたが、二名の侵入者が来る。神性が高い。何者か。迫り来る脅威に対処すべく、その角に始原の力を溜めて、両手に流し始めた。
――時間がない。七つの鎖帷子を装備できない。
右から黄金の剣を持った者が、左から黄金の斧を持った者が、同時に襲い掛かって来た。かつてない重さと速度を感じる。どちらもミッタだ。だがフンババは右手を紅く、左手を蒼く発光させて、構えを取った。そしてどちらも瞬時に迎撃して、弾いた。
「神の正しい言葉により、我が森を侵す者は何人たりとも許さず」
フンババは、大地に転がる二人の挑戦者に宣言した。地に膝を突いた二人の挑戦者は、衝撃を受けた様だが、すぐに立ち直って、左右から連携して打ち掛って来た。だがそれも全て左手の青冷と右手の赤熱で受け流し、二人を退けた。
「我が右手は紅く、我が左手は碧い」
フンババは両手を交差させた。この両手には、相反する始原の力が渦巻いている。この力が、攻守の要だ。この力を行使する限り、フンババが敗れる事はない。今は鎖帷子も、兜も装備していないが、如何なる攻撃も当たらなければ、どうという事もない。
「そして青冷と赤熱を合わせると――」
フンババが両手を叩いて合わせると、爆発が起こった。二人の挑戦者は一旦、距離を取った。そして互いに目を合わせると、盾を持つ者が前に出て来た。斧を持つ者は、後ろから様子を伺っている。何か作戦がある様だ。
「来ないのならこちらから行くぞ」
フンババは盾を持つ者に向かって、全悪を吐いた。毒ガス、麻痺雲、呪いの言葉、石化、死、炎、洪水の嵐だ。この世の悪を凝縮した吐息は、黄金の盾を曇らせ、腐らせた。ミッタでも全て防ぎ切れなかったのか、先頭の者は膝を突いて崩れた。
止めを刺そうとフンババは動いたが、突如斧を持ったもう一方に襲われた。咄嗟に右手の赤熱で防いだが、蹴りがフンババの胴を捕らえた。明らかに読んでいた動きで、蹴りの重さが違った。フンババは横倒しになり、更なる斧の一撃を左手の青冷で弾いた。
だがその先は、双方続かなかった。フンババが両手を合わせて爆発を作り、距離を取る形になった。フンババが立ち上がると、二人の挑戦者も態勢を立て直して、こちらを見た。フンババは再び構えを取ると、もう崩さないと覚悟を決めた。こちらから仕掛ける必要はない。
――鎖帷子の輝きが完全ではない。一撃でも受ければ危ない。
それがフンババの判断だった。鎖帷子が完全であれば、攻めに転じられる。だがそうではない。ミッタは不味い。恐らく一撃が致命傷になる。このまま守り抜いて、返し技で痛めつけてやれば、押し切れそうだ。あの二人に、この構えを突破できない。全悪も防げない。
「我の勝ちだ。降参せよ」
フンババが高らかに宣言すると、変色した盾を持った挑戦者が、不敵な笑みを浮かべた。
「――油断であったな。我はギルガメシュ、大いなる天に仇為す者――」
ギルガメシュは前に出ると、フンババと対峙した。すでに左半身は、全悪で半壊している。放置すればじきに死に至るだろう。ミッタがなければ即死していた。
「――貴様を斃して杉の木を取り、我が名を永久に高めよう」
フンババは腸を丸めた様な顔を歪めて嗤った。
「満身創痍ではないか。勝算はあるのか」
ある。現にフンババは仕掛けて来ない。構えを解いて、全悪を吹かれれば、危ういが、そうなれば、こちらも捨て身の覚悟で、ミッタの一撃を入れる。恐らくフンババはミッタに耐えきれない。完全武装していれば話は別だろうが、今はそう ではない。勝算はこちらにある。
「――いいのだぞ。仕掛けて来ても」
ギルガメシュは挑発した。だがフンババは沈黙し、動かなかった。
――なぜ仕掛けて来ない。
エンキドゥが心の声で訊いてきた。
――仕掛けられない理由があるからだ。
ギルガメシュはエンキドゥに理由を説明した。恐らくフンババは、一撃でもミッタを喰らうと戦闘不能になる。だからあの構えを解かず、こちらからの攻撃を待っている。あの攻防一体の構えは、返し技で相手を痛めつける事ができる。それでこちらを斃すつもりなのだ。
「なぜ全悪を吹かない」
それは分からない。回数に制限があるのか。あるいは有効射程距離が短いのか。あるいは両方かもしれない。だが全悪は厄介だ。できれば封じたい。
「――とにかく仕掛けるぞ。このまま待っていてもこちらが不利だ」
ギルガメシュの身体が動くうちに決着をつけたい。ギルガメシュは、エンキドゥに黄金の弓を渡した。矢はまだ残っている。
「我が先に前に出て仕掛ける。ミッタで援護しろ」
エンキドゥはどうするのだという顔をしていた。
「母上から渡された護符がある。今こそ使う時だ」
大いなる天に仇為す者などと言っておきながら、神々の力に助力を頼むのだ。これを嗤わずに何を嗤うと言うのか。滑稽ではあったが、それも命あっての物種だ。護符の使用を躊躇うべきではない。ここで使って、何としてでも勝機を作らねばならない。
「いいか、エンキドゥ。角を狙え。それがフンババの弱点だ」
ギルガメシュは囁いた。あの構え、あの両手は厄介だ。だが突破できれば、ミッタで一撃を加える事はできる。そしてあの両手の始原の力は、額の角で制御されている。角を破壊できれば、恐らく始原の力を制御する事はできなくなる。あの構えも意味がなくなる。
要件は二つ。一つ目は全悪を防ぎ、二つ目は角を折る事だ。これができれば勝利できる。そのためにも、母ニンスンから貰った護符を使う。全悪を防ぎ、懐に飛び込んで、角を折る。機会は一度だけ、二度目はない。一か八かの賭けだ。しくじれば死ぬ――終わりだ。
ズィが高まり、滝の様な汗が流れた。恐怖だ。死の恐怖だ。かつてない。これが生か。
「――行くぞ」
それでもギルガメシュは前に進んだ。そして首に下げていた護符を引き千切ると、心の裡で叫んだ。するとシャマシュが心の裡に現れた。だが同時にフンババも全悪を吹き、ギルガメシュを打ち倒さんとした。どうやら有効射程距離がある様だ。だが遅い。
シャマシュは、ギルガメシュの全身全霊の呼び掛けに応え、恐れるなと叫んだ。そして大なる風、北風、南風、つむじ風、嵐の風、凍てつく風、怒涛の風、熱風の八つの風を召喚し、フンババの全悪を吹き飛ばした。これで最初の要件は突破した。次だ。
ギルガメシュは黄金の盾を捨てると、黄金の剣を両手に持ち替え、フンババを斬った。だがフンババも両手の始原の力を操り、巧みに受け流した。だが剣の間合いには接近した。このまま打ち合い、押し切るか、エンキドゥの黄金の矢で角を折ればよい。
「大いなる地に帰れ」
ギルガメシュは叫んだ。戦いが始まると、山は鳴り、空は暗くなった。天空には稲光が奔り、大気は轟々と唸った。ギルガメシュは神速で剣を振るい、一撃、二撃、三撃と見舞った。だがフンババは迎撃し、ギルガメシュの攻撃を全て撃ち落とした。
――速い。何という速さだ。
フンババの手は、音速を超えているのではないかと思われた。いつしか両手は千手となり、壁となって広がった。ギルガメシュの剣先とて音速を超えているが、フンババを捕らえられない。あの構えに全て防がれている――ダメだ。このままでは勝てない。負けるのか。
――下がれ。
エンキドゥの声が響いた。ギルガメシュが瞬間的にバックステップで下がると、黄金の矢が通り過ぎた。絶妙のタイミングだった。フンババは躱せず、中途半端に右手で防ごうとした。だが黄金の矢は角に当たり、フンババは後ろに崩れた。
ギルガメシュは逃さず、黄金の剣を振るって、フンババンの角を折った。杉の森に鹿の鳴き声の様な金属的な音が響いた。フンババの全身に眩い紫電が網目の様に流れ、小爆発が起きて、黒煙が上がった。見るとフンババは片膝を突いて、蹲っている。
「我らの勝ちだ」
ギルガメシュはミッタをフンババの首筋に当てた。フンババは悔しそうに見上げて言った。
「降参する。好きなだけ杉を持って行くがよい」
「――よかろう」
ギルガメシュは王者の風格さえ漂わせて、鷹揚に頷いた。
「いや、その者は討たないといけない」
エンキドゥは言った。するとフンババは答えた。
「我は大気神エンリルの配下で、神々に命じられて森を守っているだけだ」
それは最初から分かっている。だが勝ったのだから、もういいだろう。角も折ったので、無力化もした。態々殺す事もなかろう。
「この者は討たないと、神々に訴えるだろう」
ギルガメシュの中で迷いが生じた。また神々から小言を言われるのは御免だ。だがそもそもフンババを斃して、杉を持ち帰る事を神々が許すのか。打ち負かして、杉を奪うくらいなら、大目に見られるかもしれない。だが退治してしまうのは、やり過ぎに思えた。
「エンキドゥよ。フンババを討って何とする」
ギルガメシュは、フンババの首筋に当てた剣を離さずに訊いた。
「これは戦いだ。勝者が敗者を裁かねばならない」
成程、エンキドゥの言う事は尤もだ。少々、甘かったかもしれない。
「――そういう訳だ。悪く思うなよ」
ギルガメシュは一閃し、フンババの首を刎ねた。だが首なし死体が立ち上がり、反撃しようとしたので、エンキドゥが黄金の斧で、二撃目、三撃目を入れて、止めを刺した。
「何というしぶとさだ」
ギルガメシュは呆れたが、首を刎ねた鶏も庭を駆け出すのを思い出して、得心した。
フンババが完全に動かなくなると、一陣の風が吹いて、杉の森を駆け抜けた。風は森を抜けて、山を駆け上がり、天に昇って消えた。どことなく不吉な感じがした――結界が消えた。
「ズィが動いている限り、生きている。ズィを破壊しないとダメだ――」
エンキドゥは血染めの黄金の斧を、フンババの死体から抜くと、足で裏返して検分した。
「――完全に死んでいる。生き返らない」
ギルガメシュは、フンババの生首を包んだ。恐ろしい形相をしたまま凍り付いている。
「さて、どうする。殺してしまったが、神々にどう申し開きする」
シャマシュは一言も反対しなかった。母ニンスンもそうだ。身内の反対がなかったからと言って、問題にならない訳ではないだろう。大気神エンリルが部下を殺されて、黙っている訳がない。大いなる天を揺るがす大問題になるかも知れない。だがエンキドゥは黙っていた。
「やはり殺したのは不味かったのではないか」
ギルガメシュが肩を竦めてそう言うと、エンキドゥは言った。
「過ぎた事は仕方ない。これはズィを懸けた戦いだったのだ」
エンキドゥは正論を言った。全くその通りなのだが、さりとて、このまま何もお咎めなしで済むとは思えなかった。何かしら対策をしないと、碌な事にならないかもしれない。
「弱い方に問題がある。神々から杉の森を守れと命じられておきながら、守れなかった」
それは盗賊の論理ではないかと思ったが、ギルガメシュは指摘するのは止めた。
「とりあえず目的は達した。戦利品を持ち帰ろう」
ギルガメシュは、フンババの生首と、黄金の鎖帷子を持ち帰る事にした。この防具はミッタだ。大気神エンリルがフンババに授けたものだろう。勝者の権利だ。有難く使わせて貰おう。
エンキドゥは血染めの黄金の斧で、杉の木を刈り取った。大木だ。さぞかしよい木材になるだろう。持ち帰るのは邪魔にならない程度にして、残りは国元に帰ってから、臣下に採らせに来させよう。杉の森を守護する者はもういない。結界ももうない。
「それにしても傷が重い。少し休んでから行こう」
ギルガメシュは、鼻の上に手を置くと、シャマシュを呼んだ。そして神々の力で左半身を癒して貰うと、今後の事で相談した。シャマシュは帰り道、任意の神殿でエンリルに杉の木を奉納する事を勧めた。それで申し開きが立つ訳ではないが、やらないよりはましだと言う。
ギルガメシュは嘆息すると、杉の大木を担いだエンキドゥに声を掛けた。
帰り道、大気神エンリルを祭る神殿を見つけた。
「ちょうどいい。あそこにしよう」
ギルガメシュは、エンキドゥと共に杉の木を神殿に運び込み、神官に言った。
「杉の木を奉納したい」
神官達は集まり、その見事な木材を讃えた。神官の一人が言った。
「この杉の木はどこで採れたのですか」
「フンババの森だ」
ギルガメシュが鷹揚に答えると、神官達は沈黙した。どうやら信じられなかった様だ。フンババの噂は名高いし、あの森に入って、帰って来た者はいなかったからだ。
「――これを見ろ」
ギルガメシュは、血が滴る風呂敷を広げて、フンババの生首を見せた。神官達は仰天して、逃げ出してしまった。だが一人だけ腰を抜かして、動けない神官がいた。
「奉納する」
ギルガメシュはそれだけ告げて、ジグラドの祭壇に杉の木を一本置いて来た。
「旅の方よ。お待ちなさい――」
神官達がすぐに追い掛けて来た。二人は神官達を見返した。
「――ここは大気神を祭る神殿だ。フンババの森の杉は奉納できない」
「なにゆえだ」
「大気神が守護を命じた森の番人を斃し、あまつさえその森の杉を刈り、大気神を祭る神殿に捧げるなんて、罰当たりにも程がある。だから奉納は認められない」
ギルガメシュは、傍らに立つエンキドゥを見た。頷いている。
「無知であったな。我が名はギルガメシュ。ウルクのエンシにしてルガルだ。故あってフンババを斃した。シャマシュの助言により、大気神の神殿で杉の木を奉納せよと言われている」
神官達は驚き、額を集めて協議した。
「――シャマシュの助言の意図が分からない。そんな事をしたら、大気神は怒る」
神官の一人がそう答えると、これまで黙って様子を見ていたエンキドゥが怒り出した。
「いいから、言われた通りにしろ。死にたいのか」
エンキドゥが、血染めの黄金の斧を背中から抜くと、神官達は震えあがった。
「それぐらいにしておけ。エンキドゥよ――彼らに罪はない」
ギルガメシュは窘めた。だが止めるつもりもない。
「メを違えてはなりません」
神官の一人が、ギルガメシュの足元に縋り付いて来た。坊主という奴は、どこでも同じ事を言う。ギルガメシュは冷たく見下し、神官を足蹴にした。
二人は大気神エンリルに、フンババの森の杉の木の奉納を終えて、ジグラドを降りた。すると風雨が巻き起こり、稲妻が天空を奔って、何発も連続で落雷した。そしてジグラドの祭壇に置かれた杉の木に直撃し、火事が起きた。神官達は慌てふためき、逃げ惑った。
「――ギルガメシュよ。大いなる天は怒っていないか。あれは大気神エンリルの稲妻か」
エンキドゥは不思議なものを見る様な目で、炎上する神殿を見た。
「ああ、エンキドゥよ。神々はお怒りだ」
ギルガメシュはさも可笑しそうに心から笑っていた。だが二人は、シャマシュの助言通りに動いただけだ――落ち度はない。ちゃんと杉の木を奉納した。炎上してしまったが。
「なぜ大気神エンリルが怒る」
エンキドゥは、無邪気なまでに分かっていなかった。
「――どうしてだろうな。神々がする事は推し量れない」
ギルガメシュは、さも不思議そうに首を傾げてみたりした。
「まぁ、いい。これでやるべき事はやった」
エンキドゥは早くも興味を失ったのか、前を歩き、周壁持つウルクへの帰路に就いた。
――このエンキドゥの単純さよ。
ギルガメシュは、エンキドゥが愛おしくて堪らなかった。二人でどこまで大いなる天に歯向かえるのか、試してみるのも一興だと思った。だがこの時、性愛と金星の女神イシュタルが、熱い視線で一部始終を見ていて、うっとりしている事までは知らなかった。
――ギルガメシュ。何と逞しい男よ。
性愛と金星の女神イシュタルは、ギルガメシュとエンキドゥがフンババと戦う様を見ていた。その血沸き肉躍る戦いは、古の神々の戦いを彷彿させた。そもそも神格を持った者同士が、地上で矛を交える事自体珍しい。イシュタルも久しく見ていない見事な戦いだった。
――ぜひわらわの婿に迎えたい。
父である天空神アヌも反対はしないだろう。十分な神格と資質を持っている。
――あとはわらわの魅力で虜にしようぞ。
金髪碧眼の女神イシュタルは、真白き肌を惜しげもなく晒していた。ラピスラズリと黄金で飾られた首輪、腕輪、足輪、指輪をしており、薄く半透明に透けたカウナケスを腰に巻いている。その豊かな双丘は、大きくたわわに実っており、その桃色の先端は天を向いている。
――わらわは性愛と金星を司る女神。これ以上に相応しい嫁はおるまい。
女神イシュタルと結婚すれば、ギルガメシュも大いなる天に連なる神々の一人になる。それは死から逃れ、恐怖からの解放を意味する。人間から神への昇格だ。ギルガメシュの母ニンスンも、人間であった父ルガルバンダと結ばれ、ルガルバンダは死後神となっている。
イシュタルとしては、破格の条件を提案できる。ギルガメシュが乗らない筈がない。性愛と金星を司る女神は、その涼やかで淫靡な眼差しを、地上を歩くギルガメシュに向けていた。
第五の粘土板 了
『我が友エンキドゥ~いつかのどこかの誰かのための物語~』
第六の粘土板 天牛グガランナ 6/12話