アッラーアクバール!我は煙の出ない火、ジンだ
米軍がいなくなって、奴らがやって来た。
そのターバンを巻いた男は、また自分の娘を売った。
家族の生活費のためだ。やむを得ない。1,000ドルで売れた。
6歳の娘が人買いに連れ去られて行く。バンに乗せられた。
こちらを見る目が意味深で、やけに網膜に焼き付いて離れない。
彼女の姉たちも売られている。何処に連れ去られるのかは知らない。
ターバンを巻いた男が、家に戻ると、子供たちの目は死んでいた。魚の目だ。
自分たちも売られるかも知れないからだ。すでにこれまで何人も売られている。
妻は二人いた。子供は多数いる。一夫多妻制だ。だがお金が足りなくて、子供を売り、また子供を作る。そういうサイクルで、この家族は生活している。子供たちにとって、ここは地獄だった。学校にもまともに行けない。女子教育など存在しない。
奴らがやってきて、女子高等教育は全面禁止となったからだ。中等教育までだ。
だから女子が年頃になると、嫁に出さないといけないが、お金が出て行くだけなので、ターバンを巻いた男は、年頃の娘は全部売った。男子は働き手として、外に出す。
これで何とか、家族全体が養えるように維持している。ターバンを巻いた男は、仕方ない事だと考えていた。自分も金は稼ぐが、娘を売る方が手っ取り早いので、奥さんと子作りに励む。妻は汝の畑、勝手に耕せだ。クゥルアーンにもそう書かれている。(注82)
妻たちは、最近嫌がって、ターバンの男を避けるようになっていた。自分の子供たちが売られて行くのだ。気分がいい訳がない。これでは家畜の生活だ。彼女たちの行動は当然だった。だがターバンを巻いた男は、平然としていた。生きるためだ。仕方ない。
部屋で、銀のポッドから、シャーイを注いだ。琥珀色のお茶が湯気を立てる。
――そろそろ新しい妻を家に入れるか。
そんな事を考えていた。家に奥さんを入れる事は、持参金も来るので、悪い話ではない。
特に多くの奥さんを養っていると、見栄えがいいので、先方も安心する。
――若い娘がいいな。子供を沢山生んでくれる。
米軍が立ち去り、状況が一変してから、ターバンを巻いた男は、家族の絶対の支配者になっていた。彼を止めるものはない。無論、警察は存在するし、人身売買が公に認められた訳でもない。だがお金を渡せば、いつでもどこにでも、道は開けるものだ。
噂が流れていた。子供をたくさん買って行く者がいると。この人買いは仲介業者で、また別の売り先があるらしい。山を越えてその向こう側にある大陸だと言う。
その噂の中では、ハラール臓器という言葉が飛び交っていた。豚肉を食べない等、戒律を破っていない健全な臓器という意味合いだ。もっと西の方の産油国の富豪たちが、争って買い、臓器移植をやっているらしい。全て噂だ。この目で見た訳じゃない。
ただ150,000ドルという数字には驚いた。こっちは1,000ドルだ。最終的な売価は、原価の150倍だ。臓器を取り出して、移植する技術などないので、ターバンを巻いた男は、何もできない。これでは、生きた羊を売るのと変わらない。ものをしゃべるが。
家畜も加工されて、市場に並ぶと高く売れる。自分の娘たちも加工されて、高く売れているのだ。それだけの話だ。自分は畑から育てただけに過ぎない。
実際、自分の娘たちがどこに売られて、どうなっているのかは知らない。もしかしたら、新しい主人の家で、幸せに暮らしているかも知れない。そんな事も考えていた。
その日も、仲介の人買い業者と話をしていた。茶飲み話だ。
「サバーフルハイル」(おはよう)(呼び掛け)
「……サバーフンヌール」(おはよう)(応答)
日陰で天幕を張っている。銀のポッドから、冷たい雫が垂れていた。
「聞いたか?先週また一人死んだ。最近派手に子供を買い集めていた奴だ」
ターバンを巻いた男は、仲介の人買いの言葉を待った。
「ジンだよ。ジン」
ジンというのは、ジャーヒリーヤ時代から存在すると言われている煙の出ない火だ。
「……誰か見たのか?」
「いや、誰も見ていない。だがそいつは、誰かに殴られて死んでいた」
ボコボコに殴られて、頭が潰れていたらしい。相当な数、殴られたらしい。
「……どういう状況だった?」
仲介の人買いは、銀のポッドを見た。
「そいつはお茶を飲んでいた。その細い注ぎ口から出て来たと叫んでいた」
銀のポッドを見た。ただの銀のポッドだ。冷たいシャーイが入っている。
「……ジンなんて本当に存在するのか?」
「少なくともクゥルアーンには書いてある」
ターバンを巻いた男は、笑みを浮かべた。それはそうだ。
「アッラーフユサッリムカ」(アッラーがお守りくださいますように)
会話はそれで終わった。家に帰ると、ソファーに横になった。テーブルには、果物と銀のポッドがあった。細い湯気を立てている。熱いシャーイが入っている。
ターバンを巻いた男は、うつらうつらしていたかもしれない。
「アッラーアクバール!我は煙の出ない火、ジンだ」
突然、大声がした。見ると、銀のポッドから、筋骨隆々な青い魔人が腕組みして、浮いていた。頭にターバンを巻き、大きな上半身は、銀のポッドから出ている。だが下半身はすぼんで、銀のポッドの細い注ぎ口から出ている。ちょっと意味が分からない。
「……お前は誰だ?」
ターバンを巻いた男は驚いて、ソファーから落ちた。
「アッラーアクバール!我は煙の出ない火、ジンだ」
もう一度、同じ事を言った。これは何だ?何が起きている?
「……一体、何の用だ?ジンなんか呼んでいない!」
「これからお前を殴る。娘を売った数だけだ」
昼間の話が脳裡に霞めた。これは不味い。何としても回避しないといけない。
「……他の選択肢はないか?娘を買い戻してもいい!」
咄嗟にそう言った。機転は効く方だ。どんな状況でも突破口はある。
「選択肢が二つある。娘を売った数だけ我に殴られるか、娘を買い戻すかだ」
「……娘を買い戻す。だが売られた先が分からない。どうすればいい?」
筋骨隆々な青い魔人が腕組みして、浮いていた。頭にターバンを巻き、大きな上半身は、銀のポッドから出ている。下半身はすぼんで、銀のポッドの注ぎ口の中だ。
「……我の前で、その金額を置け。さすれば、娘は買い戻されるだろう」
ジンはそう言って、消えて行った。銀のポッドからは細い湯気が出ている。
これは現実か?夢か?だが何者かに殴られて死んでいる人買いがいる。何もしない訳にもいかない。誰かに相談する事も考えたが、相談した処でどうにもならないだろう。
それからターバンを巻いた男は、金策に走った。方々に当たって、お金を借りたりして、売った娘の金を作った。だが全員分は足りない。4,000ドルだ。売ったのは5人だ。
家の妻たちや子供たちは、ターバンを巻いた男の奇異な行動を遠巻きに眺めていた。一体何をやっているのか、さっぱり分からないからだ。ひそひそ相談する。
ターバンを巻いた男は、これ以上、金策を立てられないと思って、冷たいシャーイを飲んで、部屋で休んでいると、またジンが現われた。
「アッラーアクバール!我は煙の出ない火、ジンだ」
また銀のポッドからだ。今度から、銀のポッドは全て捨ててしまおう。
「……金を用意した」
4,000ドルを床の絨毯の上に置いた。
「ではこれよりお前の娘たちを買い戻す」
ジンがそう宣言した。ターバンを巻いた男は、一体何が起きるのか、待った。
「……アブ」(お父さん)
「アブ」(お父さん)
見ると、20%身体を欠損した黒衣の娘たちが5人、絨毯の上を這いずり回っていた。手を伸ばして、足を掴まれた。冷たい。強力な力で引っ張られる。
ターバンを巻いた男は仰天して、逃げようとした。だがジンに回り込まれてしまった。
「……5,000ドル用意する!もう少し待ってくれ!」
ジンは頷くと、また消えて行った。
ターバンを巻いた男は頭を抱えた。何だ?あの娘たちは?幻か?
だが足を掴まれた感触は残っている。見ると、手形の青いアザが付いていた。
ターバンを巻いた男は走り出した。街を駆け回り、必死に最後の金策を立てた。
「……ジンが出た!ジンだ!」
軒先で天幕を張っていた人買いを捕まえると、ターバンを巻いた男は叫んだ。
「……妻を売る!早く金を出せ!」
人買いは目を白黒している。銀のポッドを寄せて、シャーイを入れようとしている。
「どうした?まずは落ち着け」
ターバンを巻いた男は、銀のポッドが気になって仕方ない。
「……そいつを遠ざけてくれ。先に金だ。妻は3日後連れて来る」
人買いは、首を傾げながら、銀のポッドを遠ざけた。
「先に妻だ。金は後だ」
ドンと銃声が鳴った。空に向かって撃った。ターバンを巻いた男だ。
人買いは止む無く、1,000ドル先に用意した。
ターバンを巻いた男はその金を掴むと、慌てて家に帰った。そして家中をひっくり返して、銀のポッドを捨てた。これでいい。万が一現れても、5,000ドルある。助かる。
だが翌日には、妻たちはまた銀のポッドを用意して、シャーイを飲んでいた。
ターバンを巻いた男は悲鳴を上げた。慌てて、捨てようとする。だが遅かった。
「アッラーアクバール!我は煙の出ない火、ジンだ」
速攻で5,000ドル出した。その場にいる妻たちは驚いている。ジンが見えないのか?
「ではこれよりお前の娘たちを買い戻す」
また絨毯の上に、這いずり回る5人の娘たちが現われた。その姿は黒衣を纏っている。
「……アブ」(お父さん)
「アブ」(お父さん)
欠損はない。五体はある。だがお腹が大きく抉れている。空っぽだ。
「お腹がないの」
「……お腹がないの」
娘たちが覆いかぶさる。ターバンを巻いた男は絶叫を上げて、倒れて死んだ。
注82 『コーラン』(上)井筒俊彦訳 岩波文庫 (第2章牝牛223節)p54 1957年
『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』エピソード108