第一の粘土板 ギルガメシュの憂鬱
序 我が友エンキドゥ~いつかのどこかの誰かのための物語~
この物語の主人公は、ギルガメシュである。
ギルガメシュは、紀元前2600年頃、シュメール人の都市国家ウルクの伝説的な王だ。『ギルガメシュ叙事詩』は、紀元前1800年頃、バビロニアのアッカド語で書かれた。そしてこの物語は、『ギルガメシュ叙事詩』ちくま学芸文庫矢島文夫訳(1998年刊行)を、参考にして書いた。
表記の問題だが、この物語はシュメール語とアッカド語が混在している。より知られている言葉、より分かり易い表現を選び、書いたが、統一性がない点は、ご容赦願いたい。また使っている表現や言葉も、かなり現代的になっている。この点もお話だと思って、大目に見て欲しい。
台詞や場面の描写だが、一部矢島文夫訳の訳文を参考にして、小説向きに変えて書いた。内容は、前後の文脈に合わせて、変えているが、元の訳文が参照できる様に、参考にした箇所は全て注を付けた。興味があれば、参照されたし。
この物語の基本構成は、『ギルガメシュ叙事詩』の十一の粘土版であるが、番外編である『ギルガメシュの死』と『冥界のエンキドゥ』も参考にして、内容を補完している。
物語の主題として、不老不死の追求がある。そして神々と人間の間で揺れる英雄が、最終的に辿った運命を描く目的でこのお話を書いた。そのため、原文にはない挿話もかなり混ぜている。崩れて断片化した物語を、お話として再構成するため措置だが、『ギルガメシュ叙事詩』を、一つのお話に繋げられた分、原文からかなり離れてしまった点は、ご容赦願いたい。
第九の粘土板の最後の方に、石化した木がある園の描写がある。訳文では原文が殆ど破損しているため、よく分からないが、この園を巡って、様々な解釈がある様だ。この物語では、大洪水前から世界にあった「忘れ去られた園」とした。無論、創作である。
また第十一の粘土板で、大気神エンリルが、ウトナピシュティムの額に触れて、不老にした事と、ギルガメシュが、ウトナピシュティムの指示で、川の水底で水草を手に入れて、不老になろうとする事に、整合性のなさを感じる。これは何を意味するのか。
不老という目的では同じだが、不老になるための手段が異なる。なぜギルガメシュの場合は水草なのか。この水底には何があったのか。そこでこの物語では、大洪水で沈んだ忘れ去られた園があり、その水草を食べると、不老になれるというお話にした。
結果として、ギルガメシュは水草を失い、不老になれない。だが不老不死になれるもう一つの機会として、女神イシュタルとの神聖結婚があった。だが彼は断っている。そこに彼の選択があり、考えがある。最終的に彼が辿った道は、彼の考えが導き出した運命とも言える。
神々は不老不死であるが、人間はそうではない。神々は完全であるが、人間はそうではない。だからこそ何らかの形で、人は不滅性を追求するのかも知れないが、何のために不滅性を追求するのか、という根本的な問いは残る。この物語は、この問いに迫ったつもりである。
第一の粘土板 ギルガメシュの憂鬱
全てを見たる人ギルガメシュは、ライオン狩りをしていた。居並ぶ臣下の前で、天蓋付きの御車に乗り、荒野に散らばる猛獣の群れを見ていた。照りつけるシャマシュが容赦なく大地を焦がし、ユーフラテス川から湿り気があるリルが吹いている。周壁持つウルクは遠い。
「――前へ」
ギルガメシュは、御車から降りた。羊毛で織られたカウナケスを腰に纏った青年だ。随所に留め具として、ラピスラズリが蒼く輝いている。王冠はない。頭髪は黒い巻き毛で、毛先は全てカールしている。そして長い顎鬚を、丁寧に結んで四角く垂らしている。
瞳は琥珀色で、不思議な光を湛えている。口元は涼やかだが、どこか歪んでいた。鼻筋は高く端正だが、傲慢に見えなくもない。全体として美麗な顔立ちだが、表情が厭世的なので、淫靡な印象を与えないでもない。そして傍らには、腕長きシャマシュが立っていた。
「――槍を」
投げて届く距離ではない。だが衛兵の一人が進み出て、槍を渡した。構える。かなり太くて重い。投げる槍に適していない。だが投げた。それも無造作に。槍は寝そべるライオンのすぐ近くに突き刺さった。臣下達からどよめきが上がった。
猛獣の群れはいきり立った。数頭のライオンが立ち上がり、こちらに向かって奔って来た。全て雌ライオンだ。ライオンの群れは、主に雌ライオンが狩りをする。群れの中心である雄ライオンは動かない。じっとこちらを見ている。
ライオンは扇状に広がった。そして衛兵達に襲い掛った。忽ち何人かが喰い殺され、断末摩と怒号が響いた。衛兵は長槍で距離を取って対峙するが、上手く対応できていない。
僅かに鼓動が高まるのを感じた。死、恐怖、断末摩、血飛沫、全て眼前で繰り広げられる光景だ。だがまだ高揚感はない。未だ緊張感に留まっている。恐怖もない。
ギルガメシュは再び槍を構えると、投げた。今度は命中し、背中から地面に串刺しになった。雌ライオンは暴れて脱出しようとするが、抜け出せない。
その隣を別のライオンが奔って、ギルガメシュに飛び掛かろうとするが、投げた槍が雌ライオンの口腔を貫いた。ライオンは地に墜ち、衛兵が止めを刺した。
襲い掛っていたライオン達も、衛兵達の長槍に突かれ始めた。他のライオン達も、立ち止まって威嚇の咆哮を上げた。そして群れの中心にいた雄ライオンが動き出した。
咆哮を上げる。一際大きい。腹の底から震わせる。微かに恐怖を感じた。衛兵達が動揺し、浮き足立つ。雄ライオンは、最初はゆっくりと、やがて速度を上げて、荒野を奔った。
――王と王の戦いだ。
槍を構えると、ギルガメシュは投げた。一撃、二撃とライオンの身体を貫いたが、止まらない。もう瀕死の筈だが、雄ライオンは、せめて一撃を喰らわせようとしているのか、勢いを失わず、立ち向かって来る。その姿は獣ながら、神聖さと気高さがある。
「――剣を」
ギルガメシュは言った。衛兵達が台車で運んで来た。剣というより青銅製の柱だ。ミッタではない。通常の武器だ。それでもとても人が振り回せる代物ではない。だが軽々と片手で持ち上げると、飛び掛かって来る雄ライオンに振り下ろした。
ライオンは絶命した。倒れた巨木の下敷きになったかの様に潰れた。百獣の王として、相応しい死に方だったのかどうか分からない。だがギルガメシュは、静かに見下ろしていた。恐怖はない。遅れて臣下達の歓声が上がった。勝利の鬨の声だ。王と王の戦いは終わった。
――見事だ。ギルガメシュよ。天空神アヌもご照覧されるだろう――
腕長きシャマシュがそう言うと、ギルガメシュは鷹揚に答えた。
「ルガルの務めだ」
そして雄ライオンを足元に運ばせると、ギルガメシュ自ら壺を高く掲げ、葡萄酒をかけた。血の赤と葡萄酒の朱が交わり、濃厚な酒気と生気が立ち上る。ライオン狩りは、ルガルの務めであり、神聖な儀式だ。ルガルの力が強大である事を、内外に示す機会となる。
ギルガメシュは天を見上げ、鼻の上に右手を置いた。
――水神エアよ。我に力を。我に勇気を。我にズィを。
すると、水が流れるが如く涼やかな音楽と共に、知恵の深淵から奔流が噴き出し、神の形を取った。臣下達には見えないが、ギルガメシュの脳裡には、ありありと見える。蒼い水の男神エアだ。だが臣下達も、只ならぬ雰囲気を感じ取り、全員が片膝を落とした。
――ギルガメシュよ。よくやった。汝の務め、これからも果たし、精進する様に――
高揚感はない。微かに緊張感が残った。そして疲労となって消える。
***
ギルガメシュは、王宮の見晴台で独り、リルに吹かれていた。ライオン狩りは終わった。次のエシュエシュ祭まで、大きな行事はない。高い処から見下ろしていると、大いなる天にいる七柱の大神が、人間達を黒頭共と呼ぶ気持ちも分からないでもない。
その昔、神々は、自分達の仕事を肩代わりさせるために、泥から人間を造ったのだと言う。それが今は大地に溢れて、必ずしも神々の仕事を、肩代わりする訳ではなくなってきている。ギルガメシュが感知するところではないが、一部の神は、それを不快に感じているらしい。
仕事は任せられる者に任せればいい。重要な事だけ自分がやればいい。ギルガメシュはそう考えているから、諸事は神官や書記に任せていた。神以外で、自分に並び立つ者はそういない。だから自らの神性の高さゆえ、友もなく、生も謳歌せず、無聊を託っていた。
――いっそ大いなる天に逆らうか。
戯れにそんな事も考えてみる。一体何のため自分は生を受け、この地にいるのか。根本的な疑問だった。自らの使命が分からない。本来、神であれば、役割がある。だがギルガメシュにはない。少なくとも与えられていない。ルガルは人間の称号であって、神のそれではない。
「ルガルよ――」
臣下の一人である貴族が、進み出て進言した。
「――民が贈り物を持って挨拶に来ました。如何なされますか」
珍しい。ギルガメシュは問うた。
「誰か」
臣下は衛兵から耳打ちされ、それから答えた。
「名はメメム。近くに住んでいる子供です。ナツメヤシを持っています」
ギルガメシュは嗤った。これはどういう天の采配か。戯れか。
「よかろう、通せ」
十代前半と思われる少女が、ナツメヤシを持って現れた。長い黒髪を後ろ束ね、澄んだ翡翠色の瞳をしている。上は薄い密着服を着て、下は簡素なカウナケスを腰に巻き、首飾り、腕輪をしている。快活そうな表情を浮かべ、見るからに好奇心が旺盛そうで、明るい感じがした。
衛兵に連れて来られたメメムが、テラスのテーブルに就くと、ギルガメシュは目を細めた。個人神がいない。不運な人だ。身体の中に不在のままで、身体の外に出て行ってしまっている。一時的なものだろうか。良く分からないが、注意を促すべきか。
だがこの少女が霊的に、異常な状態である事以外、特別変わった様子は見受けられなかった。それ以外は全く普通の人間に見える。この少女は何のために来たのか。
「――挨拶を許す。楽にしろ」
ギルガメシュは鷹揚に言った。
「ありがとうございます。ルガルにしてエンシたるギルガメシュよ」
メメムは答えた。礼儀正しい。ギルガメシュは良とした。
「――して今日は何用か」
「よいナツメヤシが取れたので、納めに来ました」
それは口実だろう。何が目的か。
「よい心がけだ。後で褒美を取らせよう――本題は何か」
「今日はお話に来ました」
ギルガメシュは動きを止めた。今日は子供の相手をしなければならないらしい。
「構わん。続けろ」
メメムは、皿に盛られたナツメヤシを見た。
「どこで採れたと思いますか」
知らない。ナツメヤシはどこにでも生える。食べようと思えば、いつでも食べられる。ありふれた果物だ。だがそれがどうしたと言うのか。メメムは、皿から一粒摘まんで食べると、翡翠色の瞳を輝かせて、美味しいと言った。ごく自然な子供の微笑みだ。
それからメメムは、このナツメヤシがどこで採れ、誰と一緒に採ったのか、そして採った時に起きた出来事や、その後の話をして、近所の誰それが笑ったという話をした。全てメメムの周りの人達の話であり、ギルガメシュが全く預かり知らない事だった。
「――前に一度、ルガルを見た事があります。大通りをお車で渡りました」
それはいつの事だろう。ライオン狩りの時か、エシュエシュ祭の時か。
「その時、思ったんです。寂しそうだなって――だから今日来ちゃいました」
そう言って、メメムは微笑んだ。
ギルガメシュは、寂しいと思った事は一度もない。周りには常に人がいて、うんざりするくらいだ。時には心の中で、神々に語り掛けられたりもするので、自分の時間というものがない。
「一粒どうです。美味しいですよ」
メメムはそう言って、皿からナツメヤシを取り、ギルガメシュに渡した。一粒食べてみる。美味しかった。何かいつもと違う様な気がした。メメムが微笑む。
「沢山ありますよ。良かったら食べて下さい」
メメムはそう言って、帰って行った。ギルガメシュは、夕暮時、西の空に沈んで行くシャマシュを見送りながら考えた。あの少女は、自分が寂しそうに見えたと言っていた。だからナツメヤシを持ってきたと言った。話はただの世間話であり、自分には関係がなかった。
――これは一体何だ。
ギルガメシュは分からなかった。後で神に問うてもよいかもしれない。
翌朝、起きると、昨日の衛兵が控えていた。何用か訊いてみると、メメムが死んだと言う。今朝事故で死んだらしい。直ちに出立を命じ、現場に急行すると命じた。王宮は慌ただしく動き、御車の支度がなされた。ギルガメシュは待つのが惜しかった。
「――よい、近くだ。歩いて行く」
そう言うと、軽装のまま、近習の者を引き連れて、メメムの事故現場に向かった。見ると、道端に人が集まっていた。ギルガメシュが近づくと、人々は下がった。荼毘が付してある。小さな足が二つ覗いている。微かにズィに痛みを感じた。跪き、荼毘を捲った。
メメムだ。頭から血を流している。その翡翠色の瞳は閉じられ、首が捻じれている。見上げると、ナツメヤシの木があった。どうやら落ちて死んだらしい。愚かな事だ。こんな詰まらない理由で、人は死ぬのか。ギルガメシュは、鼻の上に右手を置いた。
――シャマシュよ。メメムは本当に死んでいるのか。
腕長きシャマシュは、心の裡でギルガメシュに答えた。
――メメムは死んでいる。明後日には大いなる地へ旅立つ。
そうか。では仕方ない。大いなる地の神々であるアルラトゥやネルガルに口利きをしよう。ギルガメシュの知り合いがそちらに向うと。幼き者であるが故罪がなく、裁量は公平に願うと。
ギルガメシュが立ち上がると、メメムの父母と思われる人物が、そして兄弟や友人と思われる子供達が現われ、一様に挨拶をした。皆、同じ表情を浮かべていた。感謝、憐憫、同情、悼み、そんな感情だ。怒りはない。純粋に、不幸だったのだろう。
そう言えば、昨日会った時、メメムの個人神がいなかった。思えば、あの時、不吉の兆しがあった。ギルガメシュは再びメメムを見た。まだ頬は赤く、血の気もある。とても死んだとは思えない。ズィを吹き込めば、再び動くのではないか。
ギルガメシュは、近習の者に、メメムの埋葬を手伝う様に命じた。
王宮に帰ると、ギルガメシュは寝室に戻った。鼻の上に右手を置き、母ニンスンを呼んだ。すると、知恵と夢解きの女神リマト・ニンスンは、高らかな旋律と共に、虹色の光を纏ってギルガメシュの裡に現れた。豪華な羊毛のカウナケスを腰に巻き、上は白い密着着を付け、蒼く輝くラピスラズリの首飾りと腕輪を付けていた。そして不思議な香が辺りに漂う。
――ご機嫌麗しゅう。母上。
ギルガメシュがそう言うと、母ニンスンは答えた。
――息子よ。表情が優れぬ。申してみよ。
母ニンスンの涼やかな声が聞こえた。
――昨日、我と言葉を交わした少女が今朝死にました。何故か――
メメムの死は何を意味するのか、それが知りたかった。
――それは人間だからです。人間は死から逃れられない。
それは知っている。だがあの死に方は一体何だ。
――人の死は、各々で受け止めなければならない。
母ニンスンは、ギルガメシュの心を読んだ様だ。
――我も人間である。死は逃れ得ぬ。なぜ三分の二が神で、なぜ三分の一が人間なのか。
ギルガメシュが問うと、母ニンスンは少し考えてから答えた。
――母が女神で、父が人間だった。それ以外の答えは自らで探せ。
もっと近くで、人間を見たいとギルガメシュは思った。王宮にも人間はいるが、全てギルガメシュの手足でしかない。ルガルからも、神々からも、自由な人間を見てみたかった。メメムという少女も、そういう人間の一人だった筈だ。これはきっと何か意味がある。
――そう考えるなら、身分を偽って街に行けばよい。わらわもそなたの父と街で出会った。
母ニンスンはそう答えると、ギルガメシュの裡から立ち去って行った。ギルガメシュは、立ち上がると、寝室を歩き、窓から階下の街を眺めた。午後の喧騒が始まり、市場は今日も賑い始めている。昨日の今頃であれば、メメムも街にいただろう。
「街か――人の住む街」
行ってみるか。王宮にはないものがある筈。エンシでもルガルでもない只の人として、街を見てくる。無論、変装する。そして認識を阻害する術を使えば、ギルガメシュだと分からなくなる。ただ人と話す上で、名前がないのは困る。偽名も必要だろう。
ギルガメシュは腕組をすると、独り寝室で考えた。
***
翌日、一人の青年が街を歩いていた。名をウル・マフと言う。
簡素なカウナケスを腰に巻き、顎鬚を結い、見事な巻き毛頭だった。態度に余裕があり、口元に歪んだ笑みを浮かべていた。目元は涼やかだが、どこか人を見下す風があった。鼻筋は通っているが、その傲岸な態度のせいか、実際よりも高く見えた。
街の中央通りを歩いて、エドゥブバを目指していた。メメムがそこに通っていたという話を聞いたので、まずはそこから行ってみる事にした。間もなくして、日干し煉瓦を積み上げた大きな家が見えて来た。街の子供達が、そこから出入りしている。
敷地に入ってみると、若いシュシュガルが出て来て、何用か尋ねてきた。ウル・マフと名乗り、メメムの知り合いで、見学に来たと答えた。若いシュシュガルは、それで納得したのか、それ以上は追及しないで、エドゥブバを案内してくれた。
教室に入ると、ドゥムエドゥブバ達が、粘土板に楔形文字を刻んでいた。年長のシュシュガルがそれを見て回り、指導していた。あの年長のシュシュガルは王宮で見た事がある。書記の一人だ。昼間はここで働いていたとは知らなかった。
「ここで書記を目指す者に文字を教えます」
若いシュシュガルは言った。ウル・マフは頷くと、後ろからその様子を見守った。題材は、諺や謎々だった。年長のシュシュガルが口頭で伝え、それをドゥムエドゥブバが粘土板に文字で書き取る。間違いがあれば、容赦なく年長のシュシュガルから鞭が浴びせられた。
教室は、ドゥムエドゥブバの悲鳴で満ちていた。正確に書けなかった者が多かったのか、年長のシュシュガルは再び諺を大声で叫んだ。
「貧乏人は死すべし。生きる事は能わず」
ドゥムエドゥブバも唱和すると、粘土板に再び刻み始めた。やがてお昼になると、ドゥムエドゥブバ達は、包みを開いて、ニンダを食べ始めた。楽し気な歓声が教室に溢れる。
「――エイムグラはどこか」
ウル・マフは、粘土板の保管所を見たいと思った。
「案内しましょう」
若いシュシュガルは答えた。エイムグラに行くと、年老いたウンミアがいた。見た事がある。筆頭書記官だった者だ。引退してウンミアを務めていたとは知らなかった。
「――ようこそエイムグラへ、何用かな」
ウル・マフは見学と答え、エイムグラを見て回った。ドゥムエドゥブバに文字を教えるため、見本となる経済文書が沢山、保管してあった。王宮や神殿にあるものと変わらない。
「ここで学んだ者は書記になれるのか」
年老いたウンミアは、ウル・マフを見た。
「全ての者はなれぬ。極一部の者だけだ」
それなりに厳しい選抜があるらしい。ウル・マフは良とした。
「なぜ書記を目指す」
「――それは本人に訊くべき事だ」
年老いたウンミアは答えた。ウル・マフは尋ねた。
「では誰か紹介して欲しい」
年老いたウンミアは、エイムグラの片隅で、粘土板の文字を追う二人の若者を見た。あまりに熱心に見ていて、静かだったので、気が付かなかったくらいだ。
「彼らは候補者だ。書記が一人死んだので、その補欠だ」
お互い競争相手という訳か。どういう関係なのか。
「彼らは幼い頃からの友人でもある。手前がマシュダ。奥がメスヘデ」
二人は顔を上げて、一瞬こちらを見たが、すぐに視線を落して、粘土板を再び見た。マシュダという男は、体格がよく、書記というより兵士が向いてそうだった。メスヘデという男は、目が悪いのか、間近で粘土板を見ている。背丈はあるが、細い身体をしている。
二人とも粗末なカウナケスを腰に巻き、手入れをしていない顎鬚を伸ばしている。勉学に打ち込むあまり、身形を整えていない様子だった。元々違う人間なのに、表情が一様で、顔色も悪いので、あたかも兄弟の様だ。だがよく見ると、違いはある。
「近く試験がある。採用は一名」
つまり、どちらかしかなれない。そして採用された者は、王宮で勤められる。職を手に入れ、家族を養える。二人ともまだ結婚していないが、共通の意中の相手はいた。幼馴染の女性だ。そして書記になれた者と婚約すると言う。面白い。興味が沸いて来た。
「彼らと話がしたい――いいか」
ウル・マフが尋ねると、年老いたウンミアは首を振った。
「邪魔しない方がいい」
ウル・マフは少し考えた。
「では食事に誘う。こちらで金は出す」
年老いたウンミアは、マシュダとメスヘデを呼んだ。二人は了解し、一休み入れる事にした。外で食事をしつつ、二人から話を聞こうとウル・マフは考えた。
エイムグラを立ち去る直前、ウル・マフはふと思い出して、年老いたウンミアに訊いた。
「ところで、メメムはここではどんな子供だった」
「――文字を学んでいた訳ではない。ただ遊びに来ていただけだ」
メメムらしい。自由だ。だが本来、子供とはそういう存在だ。
ウル・マフはエドゥブバの近くの店に入った。水とニンダを頼み、マシュダとメスヘデを椅子に座らせた。小さな木のテーブルに、身を寄せ合うと、体格のせいでややむさ苦しかった。水とニンダを運んで来た女も、この不思議な集まりに、首を傾げて立ち去った。
「――そなたらに訊きたい事がある」
ウル・マフは尋ねた。二人は友人であり、幼馴染でもあるが、一つしかない書記の役を巡って争い、共通の意中の女性さえいると言う。そして書記の試験に勝った者が、全てを手にし、負けた者は、全てを失うと言う。確実に片方が負けるが、どう考えているのか。
二人はお互いに顔を見合わせると、マシュダという体格のよい男が答えた。
「恨みっこなしだ。全て事前に話し合ってある。問題ない」
ウル・マフは穏やかな笑みを浮かべた。
「――本当に問題ないのか。敗れた方が、勝った者を斃して、奪い返す事もできる」
実際、世の中ではよくある話だ。そういう事が起きないとは言えない。
「そんな事をすれば、ゲメギグンナがすぐに気が付く――無駄だ」
なるほど、その女が裁定者という訳か。不正をすれば、愛想をつかされるらしい。
「――だが国も女も、相手が一人しかいなければ、その男を選ぶしかないのではないか」
二人とも顏を見合わせると、メスヘデが答えた。
「国も女も、不正をしてまで残った男を信用するのか、別の男を選ぶのではないか」
道理だ。ウル・マフは嗤った。
「不正をすれば競争は台無しになり、他の候補者が入る余地ができる。だから不正はしない」
マシュダは、ニンダを一口食べて言った。なるほど、筋は通っている。ウル・マフは問うた。
「では我がゲメギグンナを奪ったらどうなる」
マシュダは固まった。メスヘデは水を零した。
「――それはどういう意味だ」
マシュダは詰問した。回答次第では許さないという態度だ。
「我はギルガメシュ、ウルクのエンシにして、ルガルだ――」
突如、認識阻害の術を解き、高らかに宣言した。二人は目を見張った。
「――油断であったな。だが不覚と思わぬ方がよい。我が優れているが故」
二人は、ギルガメシュの後光に焼かれて、平伏した。
「また我でなくても、同じ考えに至る者はいる筈。競走に構掛けていると全てを逃すぞ」
二人は平伏したまま震えていた。マシュダは怒りで、メスヘデは怖れで。
「――恐れながら申し上げます。ルガルと言えど、違えてはならぬメはございませんか」
マシュダがそう言うと、ギルガメシュは口元を歪めた。
「書記を目指しているだけあって小賢しい事を言うな。だがエンシには初夜権がある。問題はあるまい。もしくは、我の力に靡かぬ女はそうそうおるまい」
メスヘデが怖れで震えながら言った。
「――なぜルガルは我らを責める」
ギルガメシュは鼻白んだ。別に責めている訳ではない。例えばの話をしているだけだ。二人には友情があり、正々堂々互いに挑み、青春を懸けて、競走している。またそれを応援する女もいる。だがそんなもの、何の価値があると言うのか、横やりで簡単に崩せる。
「そなたらが友だと言うので、試したまでだ」
最早ここまでと思いギルガメシュは、路銀を置いて立ち上がった。
「――ルガルに申し上げます」
マシュダが言った。何だ。まだ言う事があるのか。
「ゲメギグンナに手を出してはなりませぬ」
不快だった。それを決めるのはマシュダではない。
「メは違えておらぬ」
ギルガメシュはそう言うと、立ち去った。そしてその夜、ギルガメシュは、ゲメギグンナを探し出すと、エンシとして初夜権を行使した。ゲメギグンナの絶望と憎悪を一身に抱いたギルガメシュは、満足して王宮に帰った。当然の事だが、誰も咎めはしなかった。
翌朝起きると、王宮が騒がしかった。ギルガメシュは何事か衛兵に尋ねると、賊が侵入したと報告があった。間もなくして捕まったので、今取り調べをしていると言う。ギルガメシュは、鮮やかな笑みを浮かべると、衛兵に向かって言った。
「――その者の名はマシュダではないか」
ギルガメシュは、近習の者を従えて、取り調べを受けているマシュダの許に行った。武器を所持し、ルガルの殺害を試みたと言う。間違いなく極刑であり、死は免れ得ない。処刑する前に、特別にギルガメシュが会う事になった。
「――大儀であった。よかろう。我が許す。縄を解け」
ギルガメシュはマシュダに会うなりそう宣言した。周囲の者は呆気に取られた。
「メを違えてはなりませぬ」
捕縛されたままマシュダは叫んだ。唇から血を流し、血走った眼で叫んでいた。
「――その方、二度目はないぞ」
ギルガメシュは鋭く言った。
「メを違えてはなりませぬ」
間髪入れず、マシュダは叫んだ。全ては覚悟の上らしい。上等だ。
「では死を賜る。」
マシュダは、満足な表情を浮かべた。ギルガメシュは気に食わなかった。
「――その方、今日は一人か。友であるメスヘデはいないのか」
マシュダはここにはいないとだけ答えた。ギルガメシュは興醒めだった。もっと面白いものを期待していたのだが、やはり土壇場で行動が分かれた様だ。所詮は他人、人は人だ。だがいないならいないで、呼んでみればよい。ひょっとしたら、面白いものが見られるかもしれない。
「メスヘデをここへ」
ギルガメシュは、周囲の者に命じた。マシュダの表情に変化はない。それが気に食わなかった。程なくして、メスヘデが王宮に連れて来られた。顏色は悪いが、動揺はしていない。どうやら事前に、二人で話し合って行動した様だ。
「その方、友がルガルを殺害する動機で王宮に侵入した――知っていたか」
「――知りませぬ。だが予想はしておりました」
メスヘデはそう答えた。横にマシュダがいるが、目を合わせていない。
「予想をしていたならなぜ止めぬ。友であろう」
だが次の答えは、ギルガメシュの予想を超えていた。
「――止めませぬ。どちら一方が必ずやらなければならぬ事故――」
どういう事だ。ギルガメシュは考えた。
「――我々は誓ったのです。どちらか一方が必ずゲメギグンナを幸せにすると」
いつしかメスヘデの震えは無くなっていた。不思議と声だけはよく響く。
「なるほど、良く分かった――」
つまり、マシュダは死を恐れず、メスヘデは死を恐れた。それだけだ。
「――マシュダよ。そなたは死を恐れぬか」
「死を恐れます。だが友に全てを託せます故、安心して大いなる地に旅立てます」
その表情に迷いはない。そして一瞬だけ二人は眼を合わせた。ギルガメシュは言った。
「では二人に死を賜るとしたら……」
二人の表情に初めて変化が生じた。
「メを違えてはなりませぬ」
間髪入れず、マシュダは叫んだ。
「メを違えてはなりませぬ」
間髪入れず、メスヘデも叫んだ。王宮は沈黙した。ギルガメシュはズィの鼓動を感じ、微かに痛みさえ感じた。臣下達も戸惑い、お互いの顔を見合わせている。だが止める者はいない。
――ギルガメシュよ。それ以上はならぬ。
心の裡で声がした。父ルガルバンダだ。静謐な調べと共に、精妙なお香の香りが立ち込め、白い神官衣を纏い、棒と輪を持った壮年のカウナケス姿の男神だ。蒼い光に輝いている。よく見ると、傍らに虹色の光を纏った母リマト・ニンスンもいる。
――これは父上、お久しゅうございます。どうされましたか。この様な場に。
ギルガメシュは答えた。
――これ以上はならぬ。よいな。伝えたぞ。
父ルガルバンダはそれだけ言うと、早々に立去って行った。母ニンスンも言った。
――母を悲しませないでおくれ。
ギルガメシュは本よりそのつもりはない。二人の真意を確かめたかっただけだ。
――承知致しました。父上、母上。
母ニンスンも微笑みと共に立去って行った。ギルガメシュは宣言した。
「神の正しい言葉により、マシュダには死を賜る。メスヘデは放免とする」
マシュダは喜悦の涙を流し、メスヘデは腰が抜けたのか、床に座り込んだ。ギルガメシュは気分が悪かった。足早に寝室に向かう。あの二人は何だ。友がいれば死も恐れぬと言うのか。友とは何だ。死すら超えるのか。ギルガメシュには分からなかった。
黄昏時、ギルガメシュは、得体の知れない怒りに取り憑かれていた。自分は何も間違っていない。だがこの不愉快な感情は何だ。処理し切れない感情が、膨れ上がっていた。今日は一日、政務は取り仕切っていない。ただ寝室の中をうろうろしていた。
――死を恐れないだと。死すべき者が。
マシュダはそうは言っていない。正確には、むしろ死を恐れると言っていた。だが友に全てを託せるなら、安心して大いなる地に旅立てると言っていた。それは実質、死を恐れていないとも取れる。そしてどちらか一方が、やらなければならない事とも言っていた。
つまり、彼らの中では、役回りの問題で、どちらでも良かったという事になる。ギルガメシュには信じられない話だった。死とは、生の終わりであり、全ての終わりだ。それが役回りの問題で、どちらでも良いというのは信じ難い。終わるのは自分の生かも知れないのに。
――我は死を恐れているのか。
ギルガメシュは気が付いて、愕然とした。今まで、意識していなかったが、三分の一は人間である以上、いつか必ず死は訪れる。その時、自分はどうなるのか。どういう心境なのか。
――だが友さえいれば、死さえ恐れないだと。
そもそも友とは何だ。何を以って友と言えるのか――自らの思いを託せる者の事か。
――我には友がいない。
ふと、ギルガメシュは思い至った。ああ、そういう事か。これが、この得体の知れない怒り、不愉快な感情の正体か。そうと分かれば、話は早い。友を作ればよい。だがどうやって。なぜか最初にメメムの笑顔が浮かんで、消えた。あれは――もういない。大いなる地に旅立った。
ギルガメシュは、周りを見渡した。大勢の臣下がいる。だが誰一人として、友と呼べる者はいない。いるのは、ギルガメシュの代わりに手足となって働く者達だ。神が人間を泥人形から造ったと言うが、外れた表現ではない。あれは生きているが、人形に等しい。
――我は孤独なのか。
今初めて、メメムが言っていた事の意味が分かった。子供とは言え侮れない。なまじ偏見のない目で、自分を見て、感じた事をそのまま言って、実行していたと言える。
――そういう事だったのか。
だからと言って、解決策がある訳ではなかった。むしろ今まで意識していなかっただけで、問題は深化したと言える。ギルガメシュは死を、死の恐怖を乗り越えたいと渇望した。だがそのためには友が要る。ギルガメシュと友になれる様な人物が。
第一の粘土板 了
『我が友エンキドゥ~いつかのどこかの誰かのための物語~』
第二の粘土板 荒野の野人エンキドゥ 2/12話