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今日も日蓮はsakeを嗜む

 日蓮「南無妙法蓮華経!」
 親鸞「……南無阿弥陀仏」
 日蓮「南無妙法蓮華経!」
 親鸞「……南無阿弥陀仏」
 日蓮「南無妙法蓮華経!」
 親鸞「……南無阿弥陀仏」

 日蓮は1222年2月16日に生まれた。法華宗の開祖にして、法華経の人だ。
 若き日蓮は最初、鴨川の清澄寺で、浄土宗の念仏を学んだ。その後、比叡山に入り、天台宗の密教を学んだ。だが最終的に辿り着いたのは法華経だった。奥義は一言。
 「法華独勝(ほっけどくしょう)」
 1253年4月28日、31歳の日蓮は清澄寺に戻り、師匠、兄弟子、弟弟子、念仏宗の信徒、地頭まで呼んで、基調講演を開いた。いわゆる、鴨川の清澄寺での立教開宗だ。
 だが日蓮は、冒頭から特大の爆弾を四つも投げた。
 「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」
 これが世にいう四箇格言だった。だが日蓮は即座に、四面楚歌に陥った。
 「念仏の阿弥陀如来も、密教の大日如来も、仏そのものではない」
 師匠は仰天した。ここは念仏寺だ。一体何を言っている?
 「阿弥陀如来も大日如来も仏の親戚だ。仏の分身だ。仏の本体ではない」
 兄弟子は怒った。清澄寺は浄土系だ。阿弥陀如来を第一に立てている。
 「毘盧遮那仏、法身仏こそ、久遠実成の仏陀なのだ。」
 弟弟子は泣いた。それは知っている。日蓮は一体何をしたいのか?
 「地上に釈迦として生を受ける前から、仏陀は悟った存在で、永遠不滅だ!」
 法華経の奥義、本門(ほんもん)を説いた。念仏宗の信徒たちは黙った。
 「……我々とて、迹門(しゃくもん)の仏だけ見ている訳ではない」
 地頭、東条景信が立ち上がった。迹門とは、釈迦の実際の人生を指す。
 「いや、法華経の迹門も本門も見ていない。別の仏を立てているだけだ」
 バッサリ斬って捨てた。だが日蓮は浄土系清澄寺で育っている。これは裏切りだ。
 「……お前は法華経で言う処の地涌の菩薩とでもいいたいのか?」
 日蓮は胸を張った。いかにもと言いたい。だがそこまでは言わなかった。
 「……うぬぼれるな!この若造め!」
 それから、法難の日々が始まった。もう少し年齢を重ね、老獪であれば、ここまでストレートに、言わなかったかもしれない。
 だが真理を確信した若き日蓮は止まらない。ちょっとこの性格は、イエス・キリストに似ている。だから弾圧を受けた。
 1260年7月16日、鎌倉幕府に『立正安国論』を提出する。これは意見書で、法華経に帰依しないと、他国侵逼難(たこくしんぴつなん)に遭うと主張している。幕府はスルーした。
 『立正安国論』は、旅の客と宿の主人の対話禄だ。旅の客が、執権北条時頼で、宿の主人が日蓮だと言われている。
 物語風の会話文で、政府に意見書を出すのも面白いが、読んでみると、プラトンの『法律』に似ている。アレも対話禄だ。勿論、政治・国家の話だ。
 その後日蓮は、鎌倉で法華経の伝道に勤しんだ。
 だが幕府は黙っていなかった。
 1260年8月27日夜、松葉ヶ谷の法難だ。庵を焼き討ちされた。念仏宗を信じる鎌倉武士数百人に襲われたが、奇跡的に生き延びた。日蓮は飛び上がって喜んだ。
 『法華経』を信じる者は迫害に遭うと書いてある。これは『法華経』に書いてある刀杖難(とうじょうなん)で、自分は上行菩薩に違いないと考えた。どこまでもポジティブな男である。
 1261年5月12日、性懲りもなく日蓮は鎌倉に帰って来るが、そこで逮捕されて伊豆流罪になった。伊豆地頭、伊東祐光は浄土宗だったが、法華宗に帰依した。1264年秋、母の病気で日蓮は小湊に上陸した。だがあの東条景信が、手勢を率いて待ち伏せしていた。
 「死ね!若造!」
 馬上から一刀、東条景信は斬り捨てようとした。だが日蓮は咄嗟に左手で数珠を掴み、それで刀を防いだ。数珠はバラバラになって地に落ちた。眉間を少し斬られた。
 「とどめだ!」
 もう一刀と仕留めにかかったが、日蓮は気合を入れて印を結ぶと、落ちていた数珠が飛び上がって、礫として、雨あられと騎馬を撃った。東条景信は在り得ないと恐怖して逃げた。
 日蓮は法力が使えた。ディフェンス系に限定されるようだが、極めて強力だ。だが弟子が死に、日蓮も眉間を斬られ、数珠を握った左手を骨折した。小松原の法難だ。
 1268年1月16日、モンゴルの使者が太宰府に来た。世に言う蒙古襲来の始まりである。俄然、日蓮は吠えた。これこそ『法華経』の他国侵逼難だと主張した。
 「一切の念仏者、禅僧等の寺や塔を焼き払って、彼らの頸を由比ヶ浜で斬らなければ、日本国は必ず滅ぶだろう!」
 さらに幕府と七宗に対して、公開討論の場を設けよと、書簡を送った。日蓮は炎上した。幕府から危険人物と見なされ、佐渡流罪と見せかけた暗殺が検討された。
 1271年9月12日、龍の口の法難が起きた。日蓮は幕府の官吏に逮捕され、龍の口の処刑場(神奈川県藤沢市片瀬)に引かれて行った。日本版ゴルゴダの丘?だ。
 だがまさに幕府の官吏の刀が振り上げられた時、江の島の方から、光り物が飛んで来て、振り下ろさんとした刀を粉々に砕いてしまった。日蓮はまたもや助かった。
 この光り物の正体は今も分かっていない。宇宙人の干渉かもしれない。日蓮くらい法力が強い僧なら、その認識が宇宙にまで届いていても、おかしくはない。
 話が前後するが、1254年1月1日、日蓮は愛染明王と不動明王に夢の中で会っている。だから何だ?と言われればそれまでだが、日蓮はますます『法華経』に傾倒した。
 それにしても『法華経』とは何だろうか?日蓮によると、『法華経』というものは、ただ字面を追うのではなく、身読していく。つまり、自分自身を『法華経』に投げ込んで体得する。つまり、明日も分からぬ自分自身を、未来に向かって投企するのだ。
 あ、間違えた。後半はマルチン・ハイデッカーの『存在と時間』だった。失礼。
 少なくとも日蓮は、念仏で救われるというのは誤魔化し、騙しだと考えていた。
 「南無阿弥陀仏と唱えたら、救われるというのは嘘だ。」
 日蓮は、お弟子さんの一人をつかまえてそう言った。在家者だ。
 「いいか、これからは南無妙法蓮華経と唱えるんだ。いいな?」
 「……ええと、南無阿弥陀仏?」
 お弟子さんが間違えて念仏を唱えると、日蓮は深く嘆息した。
 「南無妙法蓮華経だ」
 「……え?どう違うんですか?」
 敵と戦っているうちに、お互い似てくる。プロパガンダだ。
 1930年代、ベルリン街頭での共産党とナチの党歌、『International』vs『Die Fahne hoch(旗を高く掲げよ)』だ。
 だがキャッチフレーズには、意味がある。日蓮は説いた。
 「南無阿弥陀仏とは、阿弥陀如来に帰依すると唱えているが、阿弥陀如来は仏の親戚で、仏の本体ではない。父親ではなく、叔父さんに祈っているようなものだ」
 「……ああ、なるほど。では南無妙法蓮華経は、法身仏に帰依すると言っている?」
 日蓮は頷いた。やっとお弟子さんも理解してくれた。
 「浄土宗は邪道だ。釈迦大如来をないがしろにして別の仏を立てている」
 だが阿弥陀如来は仏の顔の一面だろう。圧倒的な救済仏だ。他力の仏だ。
 「真言宗は邪道だ。釈迦大如来をないがしろにして別の仏を立てている」
 だが大日如来も、仏の顔の一面だろう。圧倒的な法力仏だ。自力の仏だ。
 「我ら法華宗は、釈迦大如来を立て、法身仏そのものに帰依する。だから本道だ」
 日蓮宗は理屈としては正しい。
 だが正しさの確信ゆえ、他教批判をやり過ぎた。
 日蓮は、在家者には南無妙法蓮華経をひたすら唱えるように指示し、修行者には天台宗の一念三千論を公案するように指示した。これが法華宗のお題目だ。
 日蓮は、日本天台宗最澄の影響を受けている。だが最澄は問題がある。国費(税金)で唐に留学し、国費(税金)で通訳を雇い、短期間で帰国し、帰ってからは、空海にお経をねだっている。最澄はズルっ子だ。いつも最短距離で、修行をショートカットしようとする。
 それに対して空海は、留学前に自力で中国語をマスターし、鉱山経営による自費で唐に留学し、長期間滞在して、密教の奥義を体得し、真言宗の開祖となっている。努力の人だ。
 結局、日蓮が幾ら批判しようが、念仏系も、密教系も、滅びていない。たとえ、仏の親戚を立てているとしても、大間違いという程ではない。一定の真理はある。むしろ法華宗には、日本天台宗の毒水が流れている。最澄は高僧ではない。悪僧だ。きっと迷っている。
 それにしても日蓮には、どうしても、ドイツ臭がしてならない。なぜだ?フィヒテの国家哲学や『ドイツ国民に告ぐ』ではないが、日蓮は三代誓願というものを立てている。
「私は日本の柱となろう。私は日本の眼目となろう。私は日本の大船となろう」
 この後、二度の蒙古襲来がある。1274年10月16日、文永の役だ。1279年6月6日、弘安の役だ。日蓮は『法華経』の他国侵逼難を打ち鳴らし、法華宗に帰依しないと日本は滅びると言った。だが幕府は真言宗に祈願を依頼した。蒙古退散祈願だ。
 日蓮はそれを聞き、もし真言宗が蒙古退散祈祷で、モンゴル軍を打ち払えるなら、真言宗に弟子入りしてもいいと言った。流石にこれはちょっと勇み足だった。
 真言宗の81歳の老僧叡尊が、石清水八幡宮で蒙古退散祈祷を行うと、光の矢が生成されて、西方に飛んで行き、神風が吹いて、蒙古軍が壊滅した。少なくとも、世間はそう信じた。
 ドンマイ、日蓮。君の予言は破れたけど、日本は守られたからいいじゃないか。
 だが日蓮は現実を受け入れられず、深刻な事態だと捉え、信徒に手紙を配った。
 1274年5月17日、日蓮は甲斐国身延(山梨県身延町)に入った。冬は大雪に埋もれる山で、亡くなる前に、常陸の温泉に行くまで、下山しなかった。
信徒から差入れと手紙をもらい、「本朝沙門は」と返信する日々を晩年送るが、その中にsakeなる語が散見され、見逃す事を妨げる。しかも熱燗にすると身体が温まって、心が安らぐと書かれている。年配の女性信徒が荷物を背負って冬山まで、日蓮を訪ねてくる姿を見て、悲母のようだと綴っている。母ではなく悲母だ。仏教だなと思う。父なら、苦父とでも書けば、仏教的か。悲母に苦父、まことにこの世は苦海である。日蓮は確かに頑張った!
 1282年10月13日、日蓮は亡くなった。60歳だった。これが今日も日蓮はsakeを嗜むだ。ある意味、ライバルだった親鸞は1173年生まれ、1262年没だ。49歳年上だ。
 
 「……南無阿弥陀仏」
 「南無妙法蓮華経!」
 「……南無無礙光如来」
 「南無妙法蓮華経!」
 「……南無不可思議光如来」
 「南無妙法蓮華経!」

            『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺059

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