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SB742便、未帰還事件

 2029年7月1日、アメリー・ルーは、ヌメア国際空港ラ・トントゥータで、旅行用のキャリー・バッグをゴロゴロさせていた。猫ではない。だがご機嫌だ。今日からバカンスだからだ。彼女の夏を妨げるものはない。8月末までリセは何も言わない。成績優秀だからだ。
 グラン・テール(フランス本国)で、来年受験する。今回はその下見じゃないが、トゥールーズの叔母の家まで、夏の間泊まりに行く。向こうに行ったら、何をしようか?
 エアカランの窓口に着くと、航空券をチェックした。そしてキャリー・バックとしばしのアデューを告げた。もうゴロゴロ言わない。だがご機嫌だ。iPhoneだけ持って、待合室から自分が搭乗する機体を見た。Airbus A320-271Nだ。乗客291名乗れる。搭乗員は10名だ。
 尾翼に真っ赤なハイビスカスが大きく咲いている。機体後部の真っ青なブルーはヌーベル・カレドニーの海をイメージしている。機体前部は白字に青字でAir calinの文字がある。
 エール・カレドニー・アンテルナショナル。フランスの海外領土ヌーベル・カレドニーの国際線専門の航空会社で、通称エアカランと言う。ヌメア国際空港ラ・トントゥータを出発地とする。北半球では知られていない航空会社だが、南半球では知られている。
 カナキーのエールカランと言った方が通じるかもしれない。北半球では、英語名のニュー・カレドニアの方が有名で、何故か時々、天国に一番近い島とか言われる。完璧に観光地扱いだが、カナキーはニッケルが沢山採れる鉱石の国だ。南半球の資源国だ。
 アメリー・ルーは、空港で翼を休める飛行機たちを見ていた。いや、翼を温めているのかも知れない。スマホの画面に表示された航空券を見た。
 SB742便。SBはエアカランに振られた航空会社コード(IATA)だ。742便はシンガポール行きだ。そこでエール・フランスに乗り換えてシャルルドゴール国際空港を目指す。間もなく搭乗時間だ。飛行機を眺めて時間を過ごすのも終わりだ。彼女は振り返らず、歩き出した。その首元には小さなロザリオが揺れていた。
 
 アメリーが搭乗すると、ちょっとした事件があった。
 「……窓側がいい」
 その男の子はぐずっていた。隣のご両親が困っている。
 「代わる?」
 窓側だったアメリーが申し出た。
 「……いいの?」
 男の子は顔を見上げた。
 「全然いいよ。お空が見えるもんね」
 実は嘘だ。本当は窓側がいい。酔うかも知れない。
 「……ありがとう」
 アメリーが笑顔を見せると、隣のご両親もお礼を言った。
 それからアメリーは、スマホのロックを解くと、写真を見た。
 今朝のタロットだ。毎日やっている。ちょっとした習慣だ。
 結果はスマホで写真を撮って、保存している。もう数年分ある。
 タロットカードがケルト十字で並んでいた。10枚のカードだ。
 六枚目のカード、近未来が、13,DEATH(死)の正位置になっている。
 飛行機に乗る日にこのカードは在り得ない。意味不明だ。死ぬのか?
 十枚目のカード、結論は2,THE HIGH PRISTESS(女司祭)の正だ。
 この大アルカナカードが、何を助言しているのか、分からない。
 慎重に考えたが謎だ。自らの内側を見詰めるカードだと言われている。
 一枚目、現在の状態は、14,TEMPERANCE(節制)の逆位置だ。
 二枚目、問題の原因は、16,THE TOWER(塔)の正だ。
 このシンプル・クロスもヤバイ。何だ?これは?
 節制の逆は、異質なものを暗示しているし、塔は絵の通り崩れている。
 四枚目、無意識は、WANS Ⅷだ。八本の棒が空を飛んでいる。ミサイル?
 三枚目、願望は、CUPS Xだ。杯で虹のアーチが組まれている。
 無意識は事態の急変を意味し、願望は夢が実現する幸福のカードだ。
 五枚目、最近は、SWORDS Xの逆だ。不吉なカードだが意味が逆転する。
 七枚目、本心は、KNIGHT of SWORDS(剣の騎士)だ。
 どうやら自分は、この状況を突っ走りたいらしい。勇ましい絵柄だ。
 八枚目、周囲は、12,THE HANGED MAN(吊られた男)の逆だ。
 自分の周りの人たちは、相当カオスな状態になるらしい。
 九枚目の希望のカードは、7,THE CHARIOT(戦車)だ。
 神の導きがあると信じたい。そう解釈した。
 飛行機に乗る日に、こんな組み合わせが出るなんて、ヤバい。
 今までやってきた中でも、飛び切り、おかしな配列だ。
 アメリーは、世界に偶然はないと考えるからタロットをやっている。
 それにしてもこのカードは凄い。今日、一体何が起こるのか?
 アルカナには意味があり、運命を暗示している。解釈するのは自分だ。
 だから面白いが、自分だけの秘密を神様と共有している気分になる。
 大いなる特権だ。運命の前には如何なる権力、如何なる財力も無意味だ。
 正しい思考、正しい言葉、正しい行動が運命を切り開く。正命だ。
 だがこのカードの配列が意味する処は、試練が待ち構えている事になる。
 自分には、未来を見通す力があると信じている。無論、誰にも言わない。
 「……アレ見て」
 窓側に座った小さな男の子がそう言った。
 アメリーが見ると、何か飛んでいた。追い掛けて来る?
 「ドローン?」
 飛行機にしては丸い。おかしな形をしている。大きくない。
 だが高度10,000mだ。ドローンがそんな高く飛べるのか?
 男の子は興奮して、ずっと見ている。
 アメリーは念のため、スマホで動画を撮影し始めた。
 「……あそこにもいる」
 男の子が指差した。二機目が現われた。
 二機の飛行物体は主翼の近くを飛行している。
 「三機目も現れた」
 アメリーはドローンらしき飛行物体を見つめた。
 ――う~ん。ドローンかな?でも何かおかしい。
 かなり簡単な形をしており、子機という印象を受ける。
 どこかに母船がいるのかも知れない。そこまで考えて止まった。
 「これはUFO?」
 アメリーがそう言うと、男の子は喜んだ。
 「……宇宙人が来たの?」
 アレだけでは何とも言えないが、航空会社は気が付いているのか?
 その時、突然、機内放送が流れた。シートベルト着用を言い渡される。
 上から吸引マスクも落ちて来た。機体は高機動に入ると言う。
 どうやら、謎の飛行物体を振り切るつもりらしい。よくやる。
 「こっちに来なさい!」
 男の子の父親がそう言った。アメリーも手を伸ばす。
 「……え?嫌だ!ここで見る!」
 その時、飛行機が急に向きを変えた。高度が下がる。
 高機動に入った。エアバスは旅客機だ。戦闘機じゃない。大丈夫か?
 仕方なく、男の子はそのまま窓側にいた。
 アメリーも窓側を見ている。他の乗客も気が付いたようだ。
 その時、座席で悲鳴が上がった。機体に何か圧力が掛かった。
 だが機体は大きく動いていない。何の影響か?気圧の変化か?
 「……アレ見て!」
 再び男の子がそう言った。三機の飛行物体が機体の周囲を回っていた。
 どうやら、飛行機にぴったり付く形で、回転しながら付いて来る。
 ああ、これが、一枚目、現在の状態、14,TEMPERANCE(節制)の逆か。
 確かに異質な状況だ。そして二枚目、問題の原因は16,THE TOWER(塔)だ。
 間もなく、何かしら崩壊が起こる。間違いない。これは備えた方がいい。
 だがアメリーは、自分が死ぬとは思わなかった。若いからではない。
 肉体に宿っているが、永遠の生がある。死は状態変化に過ぎない。
 だから怖くはない。死とは固体が液体になり、気体になるようなものだ。
 自分というエネルギーは不変だと思っている。一貫した連続性はある。
 だが周りの人たちはそう思っていない。現にパニックに陥りつつある。
 電磁波が機内を走り、紫電が音を立てた。怒号と悲鳴が上がる。
 これが八枚目、周囲は12,THE HANGED MAN(吊られた男)の逆だ。
 「……ああ!」
 隣で男の子が声を上げていた。恐怖で目を見開いている。
 三機の子機は、光を放ちながら、機体の周囲をぐるぐる回っている。
 エアバスは逃げようとして、進路を変えるが、ぴったり付いて来る。
 もう海が見え、遠くに陸地も見えて来た。高度が下がっている。
 どの辺を飛んでいるのか分からないが、ニュージーランドは超えている。
 予定ではオーストラリアの北を飛行するが、現在位置が分からない。
 「しっかり掴まって」
 アメリーは左手を伸ばして、男の子と手を繋いだ。
 見上げる男の子の目に、希望の光が宿った。
 「皆、隣の人と手を繋いで下さい!」
 怒号と悲鳴が一瞬止んだ。アメリーの声だ。
 「必ず助かります!信じて!」
 自分は今、七枚目、KNIGHT of SWORDS(剣の騎士)だ。
 この状況を突っ走るしかない。だが解決策がある訳でもない。
 ただ心の命じるまま、直観に頼って動くしかない。
 機体に掛かる圧力が増したが、急に浮遊感を覚えた。
 視覚が変わり、赤紫色に染まった。あ、物質分解される。
 アメリーは、瞬時に精神を集中させ、転移に備えた。
 これはテレポーテーションだ。間違いない。アメリーは確信した。
 Airbus A320-271N は海上で消失した。SB742便、未帰還事件だ。

            『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺021

『SB742便、月の裏側』 SB742便 2/5話


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