[書評] 新約聖書 (10) 塚本訳のしらべ
新約聖書のマタイ22章37節の新共同訳「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」で〈精神を尽くし〉の表現に疑問をもち、ギリシア語、ヘブライ語を調べ、佐藤訳や共同訳で衝撃を受け、その後の新しい共同訳をながめつつ、関連書をめぐる旅の途中の10回めです。
結論めいたことを言うのは早すぎますが、共同訳的プロジェクトは良い面がたくさんあるとは思うものの、各方面への配慮を抜きにすることはできず、どうしても翻訳そのものの純粋性とか純一性といった側面は弱くなるだろうと思うのです。
翻訳者自身が〈ここはこうに違いない〉〈ここは他に考えられない〉などと確信したとしても、それは共同プロジェクトの前では一意見に過ぎなくなるでしょう。
翻訳者個人が全方面に配慮することはもとより無理だとしても、聖書のある箇所の解釈に限れば、筋の通る、したがって通読したときに自然に受取れる翻訳のできあがる可能性はあると考えます。
かつてのヒエロニムス訳はそのようなものではなかったでしょうか。
そこで、個人訳にも目を向けることにします。すでに佐藤訳という衝撃を通ったあとなので、何でも来いではありますが。
今回は次の本を見ます。
塚本 虎二『新約聖書 福音書』(ワイド版岩波文庫、1991)
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もともとは岩波文庫で1963年に刊行された書です。
岩波書店は本書について〈本文庫版は口語訳の実現に半生を捧げた訳者が、教説に捉われず、正確さ、分りやすさに全力を注いで成った万人のための福音書である〉と内容を紹介します。
塚本 虎二(1885-1973)は、佐藤 研(1948- )よりも二世代ほど上の世代ですが、現代のわれわれが読んでもわかる翻訳をしています。
早速、マタイ22章37節の塚本訳を見てみましょう。
イエスは言われた、「"心のかぎり、精神のかぎり、" 思いの "かぎり、あなたの神なる主を愛せよ。"
本書では「" "」は旧約聖書の引用を示します。
一見すると、新共同訳の「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」と言葉が似ているようですが、〈尽くし〉と〈かぎり〉のところが違います。
原語の「プシュケー」(ψυχή , 魂)を〈精神〉と訳した場合、日本語として〈精神のかぎり〉なら、私にはすんなり理解できます。このあたりは、コロケーションに対する個人の語感に左右されるところでしょう。
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そもそも、塚本訳に興味を惹かれたわけは、次の箇所を聞いたからでした。
(世の終りが来る前に、)"民族は民族に、国は国に向かって(敵となって)立ち上がり、" また大地震や、ここかしこに疫病や飢饉があり、いろいろな恐ろしいこと、また天に驚くべき前兆があらわれるであろう。(ルカ 21章10-11節)
この箇所を引用した小宮光二さんは、〈民族は民族に〉にふれ、「いまスラブ人とスラブ人が戦わされていますね」と語りました(YouTube「これから日本に起こること!」2022年9月10日)。まさに、現下の烏克蘭情勢を表すかのようです。
このような表現が聖書にあったかなと思ったのですが、これは塚本訳の引用でした。塚本訳では上記の括弧内の言葉は小型活字で印刷されており、訳者の敷衍や意味の補充を表します。こういう敷衍があると、耳で聞いてもすぐに分ります。
ここは、例えば、新共同訳だと、〈民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。〉となっています。聖書協会共同訳だと、〈民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がる。〉となり、塚本訳に近づきます。
おそらく、〈民は民に〉のままで覚えていれば、現在の世界情勢を思い起こすことはなかったでしょう。塚本訳にふれて、一気に聖書と世界との関りに意識を向けるようになりました。