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自分自身を愛するように隣人を愛しなさい
標題に掲げたのはレビ記19.18。
この言葉は簡単なように見えて意外にむずかしい。
結論からいうと、本当の意味で自分を愛することができなければ、隣人を愛することは不可能だ、ということになる。
本当に自分を愛するためには神を知らなければならない。神を知らないなら、自分を愛することができない。
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これで議論はおわりだけれども、これを理解するのがなかなか難しい。
まず、「隣人を愛せ」の部分を考える。これを山上の説教でみると、「悪人に手向かうな」(マタイ5.39)や「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」(同5.44)とある。
これは不可能事だ。できるわけがない。これを全員が守れば世の中はめちゃくちゃになる。悪人の天下になる。
しかし、イエズスがこれを山上で説いたのはなぜか。そこにはわけがあるはずだ。
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「自分を愛する」とはどういうことか。なぜそんなことが可能なのか。
「自分が神の神殿である」(1コリント3.16)との聖パウロの言葉が心底から実感できるなら、それは可能だ。
その実感はどこから来るか。神を知ることから来る。惜しみなく与えるキリストの姿から来る。キリストを通して、天の父なる神の与え尽くす愛を知ることから来る。
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これが実現する世とは、この世の損得勘定の支配する世でない。それは「神の国」である。つまり、「神の支配」(バシーレイア)だ。
見えない働きによって保たれる国だ。目に見えるこの世とは働きが異なる。
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神の与え尽くす愛を知ることで、はじめて自分を愛することが可能になる。
神の愛は究極の「無私の愛」だ。これほどの無私の境地になることは考えもつかないほどの無私だ。
これほど神に愛されている自分を愛さないなどということができるだろうか。