所有権と自由権
はたと思ったこと。気付いたこと。
なかなか大きな気付きでした。いえ、今までも、なんとなくぼんやりとは気付いていたのです。でも今日、くっきりと言葉になった気がしまして。
今日はそれをnoteに記してみます。
私は猫が好きです。たまらんです。
でも、なんで猫なのか。なぜ、犬ではないのか。
おそらく、私は猫が好きというよりむしろ、猫に憧れているのです。羨ましいのかもしれません。
猫になりたい。
ぽっと、そういう願望が出てきました。
彼らは自由です。その代わりに、何も所有しません。しようとも、しません。少なくとも、私にはそう見えます。
人間とは真逆。私は、いまだに何かを所有しようと、躍起になっています。
自由権よりも、所有権を優先させてしまいます。
女性と比べ、男性はこんな意識が特に強いと思います。どうしても、人と比べてより多く「所有」することに価値を見出そうとします。
私が女尊男卑な考えを持っているのは以前お話しましたが、私が男性を軽蔑してしまうのはここが大きな理由のようです。
所有権というのは、人間社会という小さな範囲でのみ通用する、便宜的な権利に過ぎません。
本来の自然界では、私たちはこの世にあるいかなるものも、所有することなどできません。
石ころひとつでさえ、私のものにすることはできません。
さらに言えば、私のこの肉体でさえ、私のものではありません。これは地球から一時的に借りているもの。さしずめ、期限付きのレンタル品なのです。
期限が来れば、地球にお返しする身体です。
レンタル品だから、大切に扱うのは当然です。
「自分のもの」と勘違いしているから、ないがしろにしてしまう。所有することで、私は大切なものを失っているのではないか。
そんな思いに駆られました。
もちろん今は、私は人間社会に生きています。
最低限の物の所有権は主張していかないと、生きていけません。ただ、ほんとうに最低限にしたい。
自由でありたい。
私はまだまだ未熟なため、自由を権利としてしか表現ができません。
生き物は全て、生まれながらに自由です。誰かにその権利をもらうわけではありません。
だから、「自由権」という言葉自体が矛盾しています。
でもあえて、私はこの「自由権」を所有権よりも優先して、この先の人生を生きていきたいのです。
自由。この言葉をほどくと、「自らの由」となります。
つまり自由とは、自らの存在理由そのものであることが分かります。
まずは自由権。そこからほんとうに自由に。
「もたらされるものではない」ので、おそらく、気付くだけで私はすぐに自由になるのでしょう。
でも、私はもう少し時間がかかりそうです。
あぁ、猫になれたらなぁ。
今日も近所の駐車場でくつろぐ猫たちに、想いを馳せるまいけるなのでした。
お付き合いいただき、ありがとうございました!