【米大統領列伝】第一回 ジョージ・ワシントン初代大統領(前編)
はじめに
告知通り、初代大統領であるジョージ・ワシントンが大統領職に至るまでの物語になります。
ジョージ・ワシントンの生い立ち
1732年2月22日にバージニア植民地ウェストモアランド郡コロニアル・ビーチ南部に位置するポープズ・クリーク・プランテーションにて、ジョージ・ワシントンは生まれます。ワシントン家はイングランド系移民でバージニア州に移住し、黒人奴隷プランテーションを経営し、鉱山開発も行いました。ジョージ・ワシントンが11歳の時に父親が他界し、14歳の兄ローレンス・ワシントンや義父の影響を受けたとされます。父親からプランテーションを相続したジョージ・ワシントンは測量を学ぶようになり、測量士として才能を発揮し、関連する仕事の収入で新たなプランテーションを購入できるまでに成功します。青年になる頃にはジョージ・ワシントンは身長が188 cmになり、物理的な意味合いでもよく目立つ存在になります。兄ローレンスはバージニア民兵隊長を務めていたが、病死しました。地区分隊長としてジョージ・ワシントンがポストを継承します。地位は少佐です。
軽く民兵について触れると、民兵は平時に職業をしながら定期的に軍事訓練を受け,有事に召集される部隊を形成する兵のことを指します。ジョージ・ワシントンの時代も今も民兵の基本戦術はゲリラに傾倒する傾向があり、専門職である常備軍とは異なった立ち位置にあります。
若かりし軍人のジョージ・ワシントン
民兵隊長としてのジョージ・ワシントン
ジョージ・ワシントンは民兵隊長の役職を与えられ、一年程が経った頃、英国とフランスの植民地間の領地主張が過熱していた。そんな中で英国の植民地行政官であるロバート・ディンウィディがフランス側の情報偵察兼伝言目的であり、ジョージ・ワシントンをル・ビューフ砦に派遣されます。伝言内容はフランスのオハイオ開発の停止を勧告するもので、フランス側は「ケベックを当たってくれ」と一蹴されます。帰る際、原住民に襲われたり、凍った川で溺れかかったり等したが、無事に帰れたことやその勇気は称えられた。ジョージ・ワシントンの作成した報告書はバージニアだけでなく、海を越えてロンドンでも読まれるようになった。その報告書が読めるリンクも掲載しておきます。
この派遣を契機にジョージ・ワシントンは大きく出世することになります。ジョージ・ワシントンはバージニア市民軍の大佐としてバージニア西部砦を構築し、バージニア州知事の命令でオハイオ渓谷に派遣され、フランス軍を排除する目的で向かいます。しかし、民兵が大国フランスの正規軍に勝てるはずもなく、ジョージ・ワシントンの部隊は数で圧倒され、抵抗する為の砦が低地に作られたことから激しい雨で氾濫し、どうあがいても降伏せざるを得ない状態でした。他にも、要塞周りの木を処分することをしなかった為、フランス側に隠れる場所を与え、蜂の巣にされており、戦術面でも有能とは程遠い存在だったと言えるです。ジュモンビル・グレンの戦いの戦果として、フランス側で斥候と指揮官のジュモンヴィル合計10人を倒したことになっており、ジョージ・ワシントンが降伏する際、フランス語でそのことが明記され、フレンチ・インディアン戦争の直接的な要因を作ってしまった。尚、ジョージ・ワシントンはフランス語が使えないので、何が起きたのかよくわからず、戻った後に明記された内容にジュモンヴィルの暗殺を行った首謀者と書かれたことを知り、辞任します。
注:ジュモンビル・グレンの戦いには諸説があり、目撃者曰く、怪我をさせたところ、ワシントンが率いてた友好関係にあった原住民が指揮官のジュモンヴィルに止めを刺したという説があります。
フレンチ・インディアン戦争の際、エドワード・ブラドックが指揮する遠征でイギリス軍に従軍し、オハイオ領土を取り戻す試みに参加しました。結果は大敗北で、フランスと原住民に奇襲され、部隊の死傷者が三分の二にも及び、エドワード・ブラドックも死亡。しかし、馬やコートに複数の被弾を受けても、動じずに撤退を指揮した冷静さへの評価が高いです。主な活躍として、イギリス軍やバージニア民兵の残存兵を撤兵させた功績が大きいです。これで名誉が回復したとされます。他にデュケイン砦のフランス軍を排除に成功したジョン・フォーブスが指揮した遠征隊に参加したことが挙げられます。ジョージ・ワシントンは戦争が終幕する前に軍役から退き、バージニアでプランテーション主と政治家を兼任してたとされます。
注:フレンチ・インディアン戦争は人口差で英国が押し切ってるという説があり、ヌーベルフランス(英語:New France)が総人口10万人程だったのに対して、英国領米国植民地が200万人程だったことも指摘がされてます。
ゴールインするジョージ・ワシントン
ジョージ・ワシントンはバージニアのホワイトハウス・プランテーションに住んでいる未亡人マーサ・ダンドリッジ・カスティスと出会い、2回合っただけで結婚するスピード婚ぶり。結婚がきっかけでマウントバーノンに移り住み、上流階級のプランテーションオーナーと共に戯れていた。マーサの以前の夫との間に生まれた子供2人を育てた。ジョージとマーサの間には子供は生まれてない。
ジョージ・ワシントンの妻マーサ
注:ジョージ・ワシントンは天然痘からの結核で無精子症になったとする説があり、書かれた論文の名称もインパクトのあるものです。
"George Washington’s infertility: Why was the father of our country never a father?"
「ジョージ・ワシントンの不妊症:なぜ我々の建国の父が父親ですらなかったのか?」
マーサという裕福な未亡人と結婚したジョージ・ワシントンは社会的地位も向上させることも手を抜かず、相続した土地を担保に自分名義で土地を増やし、奴隷100人以上を所有するようになります。また、戦争の英雄としても尊敬され、1758年以降はバージニア植民地議会にも出ていることから見られるように彼の出世に結婚は影響してたことが窺えます。上流階級に入ったジョージ・ワシントンは議会に参加し、支持を得る為にラム酒を無償提供していたという記録があります。
注:Spirituous Journey – Book One: From the birth of spirits to the birth of the cocktailという本に書かれてて、他の指導者の酒に関する逸話が書かれています。
全英国領米国植民、重税でキレる
七年戦争で財政難に堕ちった英国はその引き金であり、英国の加護を必要とした英国領米国植民に様々な税金を課すようになります。1764年に砂糖法、
注:砂糖法の全身である糖蜜法は競争力で劣ってた英国領を保護する目的で輸入される糖蜜に対し、法外な高関税を課す法律であった。
英国の収入印紙の画像
1765年に印紙法等の税を多数設けた。
注:印紙法はあらゆる種類の紙に印紙を張り付け、課税させる法律。課税のわかりやすさもあり、国民の間で大議論を巻き起こしたとされます。
しかし、英国の憲法によれば、英国臣民は、本国議会における自分たちの代表の同意なくして税を課されることがあってはならないとされており、憲法違反ではないかと指摘されるようになります。
では、重要な役割を果たすジョージ・ワシントンは英国に対してどう思っていたか?彼のタバコプランテーションと引き換えに英国側から受け取る交易品が頻繁に壊れていたり、質の劣る品が送られてくることによる二流市民扱いに不満を懐いていました。こうした不満を議会でも漏らすようになり、二流市民扱いの空気が世論でも漂い始めるようになります。更に英国側から原住民との野生動物の皮を交易する為、西部開拓を控えるよう通達されたことも根に持っている。おまけといわんばかりに印紙法の施行で英国の通貨で印紙を購入しなければならず、全英国領米国植民地の現地通貨も二流市民扱いにされたことも不満の種になっていました。
注:英国が印紙法を後に撤回する理由は交易を阻害してるからであった。
ジョージ・ワシントン以外の政治関係者も二流市民扱いに不満を覚え、「代表なくして課税なし」というスローガンが掲げられる。英国側の主張としては英国で支払う義務の税よりも少ない額だから問題ではないというスタンスをとっていました。ジョージ・ワシントンは税が撤回されるよう英国製品のボイコットするよう民衆に求めたました。英国領米国植民地と英国の間で対立が激化し、ボストン虐殺事件に発展します。こうしたこともあり、サミュエル・アダムズの元で反英国の情報戦が開始されます。
ボストン虐殺事件を描いた版画
注:サミュエル・アダムズは酒類の醸造所を受け継いでいて、ここでも酒繋がりの話が出てくる。もう、酒=米独立戦争のイメージでいいのかな?
現在でもサミュエル・アダムズのビールが売られてる
情報戦の中で増税に対する恐怖心を煽るものがあり、その影響を強く受けた者達がボストン茶会事件を起こします。この事件からBoston Tea Partyと呼ばれるようになり、ティーパーティー運動という名称が現代まで使われ続けるきっかけの事件でした。英国はティーパーティー運動を抑制する目的で公的な集会を規制し始め、賠償責任を果たすまで解かない構えで応じます。しかし、サミュエル・アダムズの情報戦において思う壺になり、反英国の意見をより強くすることに繋がりました。
茶を海に投棄するサンズ・オブ・リバティー
次に英国は銃に使用される弾薬を押収し、抵抗できない状態に持ち込み、平和的手法で解決をしようとします。しかし、ここでも英国は情報戦で内部にいたスパイに情報を漏洩されて、民兵の反撃の応酬にあわされます。独立戦争の火蓋となるレキシントン・コンコードの戦い後、第二次大陸会議でジョージ・ワシントンはそれまで築いた支持層と経歴の肩書や噂で民衆から威信のあるカリスマ軍人で強い愛国者と思われていて、指揮官の職を任せたいと考えていました。当の本人は遠慮深く、そのような職を与えてもらえることにふさわしくないのでないかと述べるものの、代わりがいないので指揮官になります。ジョージ・ワシントン自体はトマス・ペインのコモンセンスを読むまで独立を支持するまでには至らなかったことから見られるように慎重な人物であったことが窺え、遠慮深さも慎重さからくるものだったとも考えられる。ただし、必要があると考えたら、民衆の意見を代弁することも忘れず、耐え難き諸法の成立の際に「我々の権利と主権に対する侵害」との言ってたりする。こういうこともあり、大陸会議で創設された大陸軍の植民地軍総司令官を任され、米独立戦争で戦うようになります。
大陸軍時代のジョージ・ワシントン
米独立戦争中のジョージ・ワシントン
総司令官になったジョージ・ワシントンは民兵の集まりで結成された大陸軍をみて、残念に思っていたそうだ。理由は軍としての規律が行き届いてなく、装備も不十分であった。一方、英国軍は世界一級の装備と一定の規律が行き届いていました。この差は大きいと判断するのは正常です。この頃になると独立派についた者は売国奴として、英国による厳しい待遇が課される状況です。ただ、それでも民衆は立ち上がったのはよほど二流市民扱いへの不満や重税が頭に来ていて、民衆側が世界の覇権国に喧嘩を売るという正気の沙汰とは思えない行動を支持します。独立派は国内外で策を練り、外交でフランスやオランダといった七年戦争で英国にしてやられた国々を上手いこと利用することになるが、ジョージ・ワシントンは国内での戦いがメインですが、ちょくちょく外交の話に繋がります。
ジョージ・ワシントンは策で相手と戦うことになる。まず、火薬がないと戦えないので、フロリダの南にある西インド諸島の英国軍の兵器庫を襲い、自国での製造も試みる等したが、ほとんどの火薬は外交ルートを通じてフランスからきた。
西インド諸島のイメージ図
注:ジョン・ポール・ジョーンズという人物がいて、海賊の戦法を使って、英国を惑わしてした人物がいて、西インド諸島はひとつの対象に過ぎず、番外編で詳しいことを紹介したい人物ではある。
これはボストン包囲戦の間に行われ、軍の再編成もなされます。更に、フランスのラファイエット侯爵マリー=ジョゼフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ(以下からラファイエットと略)が米独立戦争の大儀を聞き、自費で米大陸に渡る。訪仏中のベンジャミン・フランクリンの説得もあり、指揮官として向かえられます。ジョージ・ワシントンと初対面の際、他の欧州軍人のような教育しに来たという態度とは異なり、「私は学びに来た」と述べたことで好印象を持った。尚、ラファイエットは14歳から従軍し、米大陸に渡った時はわずか19歳であった。ジョージ・ワシントンとラファイエットは父と息子の関係という歴史家もおり、ラファイエットはジョージ・ワシントンに対し、七年戦争で英国に殺害された父親像を求めていたと言われてます。ラファイエットが貴族ということもあり、フランス本国に送られる手紙で英国の影響力を削りたいフランスの国益になりうる戦いであると説得することに成功します。これはジョージ・ワシントンがラファイエットを重鎮にして、銃創を負った時も最大限の看病をすることで独立派の好印象を与えることに成功したという功績と言ってもいいでしょう。
ラファイエット侯爵マリー=ジョゼフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエの肖像
注:ラファイエットの功績があっての米国独立なので、外交の話でベンジャミン・フランクリンの話もかねて、番外編で紹介したい人物ではある。
ボストン包囲戦でも英国軍を撤退に追い込んだジョージ・ワシントンであったが、英国側の新聞や議会から掲げる大儀に賛同は出来ないが、勇気、忍耐、軍隊への気配りが賞賛され、見習うべき例もあると言われる状態であった。英国の戦時になっても、冷静に分析をする姿は万国の習うべき姿です。ジョージ・ワシントンが政治とも距離を置いたことで党派争いの次元を超えた存在であると高く評価されます。1776年7月4日に独立宣言がされ、合衆国軍に名称も変更されます。ここでもラファイエットとの繋がりが有効に発揮され、のちに大国フランスが合衆国を国として承認することになります。ボストン包囲戦後、ニューヨークにて次の戦いに両者が備えます。独立戦争全体でも最大の戦いであるロングアイランドの戦いでは敗北した。その後も度重なる敗北でジョージ・ワシントンはニュージャージーまで撤退を余儀なくされ、軍の士気も低下。起死回生を狙い、クリスマスの日にデラウェア川を越え、攻撃を仕掛けたり、新年早々攻撃を仕掛けたりして、ニュージャージーを奪還し、軍の士気も戻った。
デラウェア川を越えるジョージ・ワシントン
が、英国軍は首都フィラデルフィアを攻撃し、抵抗もなく、フィラデルフィアに入ります。首都奪取作戦が計画されるも天候と混乱で失敗。ただ、英国軍の連携の乱れにより、サラトガ方面作戦で成功をおさめ、フランスがこれをみて、参戦を決意し、それまでの物資提供だけでなく、合衆国軍が持っていない海軍を出し、海での戦闘でも応援します。
フランス海軍が活躍するチェサピーク湾の海戦
注:シーパワー的観点から制海権を維持する方法がなかった独立派からしたら、フランス艦隊はそれを担保してくれる形になり、英国のシーパワーとしての猛威を回避する要因にもなったと言える。
運気を掴んだ時以外は勝ててないジョージ・ワシントン総司令官だが、1778年の春にプロイセンからやってきたフリードリヒ・フォン・シュトイベン男爵が訓練させる形で軍として引き締めた。モンマスの戦いが終わると英国は南部を攻めたが、そこで交戦することはしなかった。スペインも南方で英国と戦っており、英国は戦線拡大で戦力を分散させられ、本来の力を削がれた点も大きいです。フランス軍とフランス艦隊が到着する1781年に英国軍を南部からも追い出す為の包囲戦をしかけます。ヨークタウンの戦いの後、英国側はこれ以上戦う合理性が見いだせず、1783年のパリ条約によって、大英帝国はアメリカの独立を承認する形をとります。
1783年のパリ条約でイギリス使節団がポーズを拒否し、未完成になる
注:敗北を恥た英国は米英戦争(第二次独立戦争)でまた攻めることになる。アンドリュー・ジャクソンの回で詳しくやる予定。
明確にジョージ・ワシントンが指揮をとった戦いの記録として7戦3勝で以下の通りで、考慮してあげても、負けた回数が勝る。
・ロングアイランドの戦い(英国圧勝)
・トレントンの戦い(英国の雇ってたドイツ傭兵に圧勝)
・プリンストンの戦い(大陸軍の勝利)
・ブランディワインの戦い(英国の勝利)
・サラトガの戦い(大陸軍の勝利)
・モンマスの戦い(英軍が撤退するも、決着つかず)
・ヨークタウンの戦い(フランス・アメリカ連合軍の大勝利)
闇大将ジョージ・ワシントン
ジョージ・ワシントンの表を見てきたが、彼にも闇の部分はあるので、軽く触れる。フランス軍が到着すまでの間、原住民の民族浄化を行っていました。和平条件があれば、聞くようにと言っているが、基本的に村潰しをしてました。原住民は英国側と連携していて、ゲリラ戦での活用で強かったとされる。ゲリラにやられるくらいならゲリラを行う者達を先に倒せばよいという考えがあったと推測できる。
注:ゲリラ駆除は米国軍の伝統のようなもので、度々こういった話が出る。
ただ、あまりにも悲惨だった。彼は「村落すべてを破壊し、根絶やしにするように。同国を単に制圧するだけでなく、絶滅させるのだ。」と部下に伝える。
しかも、絶滅させるだけでなく、衣服を作る材料として原住民の尻の皮を剥ぐというとても文明人がするとは思えない蛮行を指示していた。
村潰しで数十の村を絶滅させた。虐殺を命辛々生き延びたインディアンたちは、「町の破壊者 」という不名誉な名称を与えた。
注:フランクリン・デラノ・ルーズベルトの回でも似た話が日本人に対して行われる話が登場する予定。
米国初の大統領選挙
表の話に戻す。植民した者達にとって、ジョージ・ワシントンは英国を追い払った英雄として扱われます。初の大統領選挙は対抗者が事実上いない状況でいかにジョージ・ワシントンを説得するかという課題を抱えてたくらいです。ジョージ・ワシントンは遠慮はしながらも、選挙に出ることにした。選挙人の支持率100%という民主主義国家で前代未聞の支持率をたたき出し、歴代最も支持率が高い米国大統領として、歴史に刻まれることになります。
前編のあとがき
今回は大統領職に至るまでのジョージ・ワシントンの経歴を追って説明しましたが、いかがだったでしょうか?栄光ある指導者のように教科書で軽く書かれていますが、彼も苦労したり、惨敗したり、運だよりな時もありました。加えて、どんな歴史人物でも光と闇があるようにジョージ・ワシントンも例に洩れず、当てはまりました。次回の中編でジョージ・ワシントン大統領が第一期で何をした人なのかについて書く予定です。