見出し画像

『写真が語る満州国』ノート

太平洋戦争研究会 編著

ちくま新書


 編著者の「太平洋戦争研究会」は、1970年に結成された在野の研究者集団である。代表を務める平塚柾緒は60年安保闘争のあと、徳間書店に入社し、戦争に関わる連載の編集者となった。現在は、出版やドキュメンタリー番組に写真を貸し出す「近現代フォトライブラリー」を主宰している戦史研究家である。

 この団体は主に日中戦争や太平洋戦争を研究テーマとしており、これまで『満州帝国がよくわかる本』、『東京裁判がよくわかる本』、『日中戦争』、『占領下の日本』、『写真が語る銃後の暮らし』などを刊行している。

 平塚代表は、「戦争を取り上げないと、日本の近現代史は語れないし、書けません。ノンフィクションや歴史学を目指す人はしっかりと目を向けてほしい」(2020年10月4日付毎日新聞東京朝刊インタビュー)と語っている。

 筆者は戦後生まれだが、これまで様々な著作を読んだり、戦前から満州国の各都市に在住していた高齢の方々から、「また行ってみたい」という懐かしさを込めた話を聞いたりする機会が多かった。その裏には満州からの引揚げ時の大変な苦労があったのだろうが、そのことについては皆あまり多くを語ってはくれなかった。

 本書を開いて、掲載されている250枚以上の写真や図版とその詳細なキャプション全てにまず目を通した。写真とキャプションだけで満州国の全容を通史的に理解できるほど充実している。

 また解説本文も満州国建国に至るきっかけとなった日清・日露戦争から、日中戦争さらには太平洋戦争におけるわが国の敗戦と満州国の崩壊に至る歴史が詳細にして重層的に著述されている。

 そして関東軍、南満州鉄道(満鉄)、満蒙開拓団、軍部の様々な策謀、関東軍の謀略と暴走、太平洋戦争の敗北、さらには満州からの引揚者とシベリア抑留の悲劇に至るまでの詳細な歴史の出来事が書かれており、満州国を軸としたわが国の近代の戦争と野望の歴史を俯瞰することができる。

 その中で筆者が初めて知ったことや歴史の経緯とその背景についていくつか書き出してみる。

 まずは関東州のこと。関東州とは旅順と大連を含む遼東半島の最南端部分であるが、「関東」というのは中国でもともと万里の長城の東端にあたる山海関から東の地方を指しており、当時の満州の省である奉天省、吉林省、黒竜江省の三省の総称であった。すなわち満州全体の呼び名であった。

 筆者はこの関東州と関東(=満州)の区別がよくわかっていなかった。

 日露戦争後のポーツマス条約の締結により、日本政府は関東州を統括する「関東総督府」を置いたが、この総督府のもとに軍政署を置いて統治を始めた日本政府の姿勢について、清国や英米から不信と不満を招いていた。

 そのため、1906(明治39)年になって西園寺公望内閣は軍政署を廃止して、関東総督府を平時組織に改めることを決め、「関東都督府」を設置した。

 この「関東総督府」と「関東都督府」の違いは、関東総督府は天皇の直隷で、関東州における政務だけでなく軍務を含むすべての権限を持っていたのだが、「関東都督府」は、軍政と作戦は陸軍大臣と参謀総長の監督を受け、政務に関しては外務大臣の監督を受けるという点にあった。しかし、関東都督(関東都督府の責任者)には、陸軍の大将や中将をあてるとされていたことから、命令系統の変更にすぎないと各国から批判された。

 またこの関東都督府の設置と同じくして、政府は半官半民の鉄道会社の設立を決めた。当時、日本はロシアから譲り受けた鉄道路線のほかに、付帯事業として撫順炭鉱と煙台炭鉱の経営、鴨緑江の沿岸の森林伐採権、遼東半島一帯の漁業権も持っていた。

 加えて沿線各駅の周囲の土地が「鉄道付属地」として含まれており、政府に代わって行政権行使の必要もあったので、国策会社でなくてはならないというのが、政府の考えであった。のちに南満州鉄道株式会社(通称:満鉄)につながる構想であった。

 満鉄設立時の資本金は2億円(うち国が1億円出資)で、1907(明治40)年4月1日に営業を開始したが、その業務内容は、鉄道や炭鉱の経営だけではなく、鉄道付属地という名前の〝植民地〟内の土木、教育、衛生などの施策も任されていた。そしてその費用を賄うために、付属地に住む住民への「徴税権」までも与えられていた。その後、ホテルや病院や学校、さらには大連の本社に調査部という調査情報機関――後に諜報機能まで備える――まで持ち、最終的には70社に上る関連企業や傍系機関を持つまでになった。まさに満州経営の中心となった国策会社、というよりもある種の国家機関ともいえる存在であった。

 調査部については、草柳大蔵の『満鉄調査部(上・下)』(昭和54年初版 朝日新聞社刊)に詳しいが、資金も豊富にあって人材も集まっていた。満鉄調査部は当時の日本最大のシンクタンクであり、戦後になって、政財界で活躍したり、学界で重きをなした著名人も多く在籍していた。

 満鉄の経営が順調に発展してその規模も拡大するにつれ、日本政府は満州全土の独占を目指す野望をますますふくらませていたが、その唯一のネックが、関東州の租借の期限と満鉄の経営期間のズレであった。

 遼東半島の租借権は1898(明治31)年から25年間であり、満鉄の経営権の期間は、1903(明治36)年から36年間となっている。これでは本格的な満州進出は果たせないと思っていたところに、時の総理大臣の大隈重信の言葉を借りれば〝千載一遇の機会〟が訪れた。

 1914(大正3)年にヨーロッパで第一次世界大戦が勃発し、戦火はたちまちヨーロッパ全土に拡がったが、アジアでもその影響が出てきた。

 英国は大戦への参戦決定の3日後の8月7日、日本にも対独戦への参戦を求めてきた。その理由は、当時ドイツが中国から租借していた山東省の膠州湾・青島にはドイツ東洋艦隊の拠点があり、それらの艦隊がインド洋などでイギリス商船を狙う恐れがあったので、日本がドイツ艦隊を撃破してくれることを期待してのことであった。

 日本は翌8月8日の臨時閣議で対独参戦を決定し、参戦した以上は、艦隊の撃破だけでなく、東亜におけるドイツの勢力を一掃するため、取り得る一切の手段をとることが必要だと英国政府に伝えた。

 日本の参戦の真の目的は、ドイツが日清戦争後に清国から租借した膠州湾地域を奪い取ることにあった。この日本の狙いを察知した英国は即座に参戦要求を取り消してきたが、日本は聞き入れないまま、8月23日にドイツに対して宣戦布告して青島に出撃し、日英連合軍でドイツ守備隊を圧倒し、11月7日に降伏させた。

 そして日本軍は膠州湾地域を越えてさらに兵を進め、これが満州全土掌握の第一歩となった。

 その後、1917(大正6)年3月にはロシア革命が起き、ロマノフ王朝は崩壊。第一次世界大戦も終息していない中、1919(大正8)年4月に日本政府は満州駐箚軍の機構改革を断行し、満鉄の経営をはじめ、軍隊の指揮権、警察権、領事権などすべての権力を掌握していた関東都督府を廃止して、権限を縮小し、関東州の統治機構から軍政が分離され、民政となった。

 しかしそこには軍の深謀遠慮があった。

 関東都督(関東都督府の責任者)には、陸軍の大将や中将が就き、関東都督府の全権を掌握していた軍部が、この機構改革によって駐留部隊と鉄道守備隊の指揮権のみに限定されたように見えるが、軍政が分離されたことによって、作戦と動員計画は参謀総長の指揮を受けるが、軍は「統帥権(軍隊の最高指揮権=天皇が保持)の独立」が保証されている以上、日本政府の指示を受けることはなくなった。ここに実質的に満州駐箚軍「関東軍」が誕生し、独自の行動をとることが可能となり、その独自の行動が統帥権をも侵し暴走に繋がっていくのである。

 満州国は1932(昭和7)年3月1日に「五族協和」「王道楽土」を掲げて建国し、清国最後の皇帝の愛新覚羅溥儀を執政に迎え、2年後には皇帝とし満州帝国が成ったが、皇帝には事実上は何の権限もなく、行政権もほとんど日本人が全てを握っており、まさに日本の傀儡国家であった。掲げたスローガンも欺瞞としかいえないものであった。

 満州国ではアヘンを禁止しながら、〈中毒者〉は当局に登録をし、治療名目で政府が販売するアヘンに限り、吸引を許可するなどしており、実態は満州国政府によるアヘンの専売制であった。

 ある年の歳入予算6400万円のうち、アヘン専売の収入が1000万円をしめていたという説もある。また関東軍の財源もアヘンによる収入が大多数を占めていたともいわれていた。ただし日本政府は国際条約違反をおそれ、一貫してそのことを隠蔽してきたのである。「アヘンがあってこその満州」という言葉があるように満州国はアヘンという薬物で栄えた国であった。

 満州国が日本のエネルギー供給地としての役割を担わされ、炭鉱やオイルシェールを原料に石油の代替燃料を生産する工場、さらには自動車工場の生産ラインなどの写真も収められているが、新興国にふさわしい近代的街並みや、開拓の希望に溢れた表情をしている人たちの写真も収められている。

 しかし、その後の日本の敗戦とソ連軍の侵攻による満州国崩壊に伴っての苦難と悲惨の歴史に思い致すとき、その一時的繁栄と笑顔の写真の落差に愕然とする。

 わずか13年あまりの満州国の歴史であった。

いいなと思ったら応援しよう!