
『昭和時代回想』ノート
関川夏央著
集英社文庫
昭和時代回想とあるが、書かれているのは戦後の昭和である。
著者の関川夏央は昭和24(1949)年生まれ。筆者は昭和26(1951)年生まれなので、ほぼ同世代だ。
筆者が以前勤めていた出版社の隣の10階建てくらいのマンションに関川夏央が住んでいたが、会ったことはない。
関川夏央のデビュー作『ソウルの練習問題』(1983年 情報センター出版局)を昼休みに開いていたら、上司が、「関川夏央は隣のマンションに住んでいるよ」と教えてくれた。
関川の本は、講談社ノンフィクション賞を受賞した『海峡を越えたホームラン――祖国という名の異文化』(1984年 双葉社)も読んだ。
今年(令和7年)は「昭和100年」だそうだ。
西暦と年号を換算するのに、昭和の場合は西暦から25を引くと年号になると覚えているが、平成や令和となると、一覧表でも見ないことには西暦からの換算ができない。そもそも、昭和が何年まであって平成が何年まであって、ということがすぐにはわからない。
仕事柄、明治からの西暦との照合表(年号と西暦を並べた一覧表)をExcelで自作して、クリアファイルに入れてデスクサイドに置いている。
最近は、スマートフォンで、照合できるアプリなどがあるので、便利になったが、この表のほうがひと目でわかる。(いま気がついたが、西暦の下二桁を足すと令和の年号になる! しかし、これは2029年、令和11年までしか使えない……)
〈1 いわゆる青春について〉の冒頭――「〝青春〟について書けといわれた。書きます、といってからあらためて考えると、実は書くべきことがない。書くに値することがない」(P14)と関川はいう。
「青春」という言葉は世の中に流通していても、それはたんに未熟な試行錯誤の時間の総称にすぎない、というのである。それは昭和30年代から40年代に青春を送った世代に特有な考えなのか、と自問する。
著者は、いわゆる「世代論」には興味がないというが、昭和40年に高校に入り、昭和50年頃、第一次オイルショックによって低成長に転じた時代に精神を形成してしまった世代という刻印は消えないと書いている。
その頃はどういう時代だったか――「文学や映画や新劇が、まだきわどく命脈を保っていた時代」(P18)であり、「報われないと薄々知りながら、青年たちがそれらに、その年代特有の求道的な気分、いいかえればロマンチックな気分や、その過剰な表出であるところの無頼や放浪への憧れを託し得た最後の時代」(同ページ)という。
この章には、若くして亡くなった高野悦子(1949年1月2日~1969年6月24日)のことが書かれている。筆者も以前、彼女の『二十歳の原点』(1971年 新潮社刊)をnoteで取り上げた。
高野は生来の真面目さで、他者と自分との関係、社会と自分との関係をつきつめようとしたが、考えれば考えるほどそれらはとらえどころがなかったのであり、「未熟な政治的議論にもデモにも、それらから学生という、労働者でもないコドモでもないあいまいな身分であることに疲れた」(P33)のだ、という。
そして、「なにごとにつけ四捨五入ですませられる生活者の融通のみが欠けた彼女を、意味なく悩ませ焦慮させ、ついに死を選ばせたものは、60年代後半という時代の空気に底流した軽薄な悪意である」(同ページ)と書く。
全共闘による学生運動の挫折と身近な人間の裏切りとが重なり、昭和44(1969)年6月24日に彼女は鉄道自殺をする。
筆者はこの本が刊行された年に、大学の生協の書店で見つけ、購入して憑かれたように何度も読み返した。
1960年代から70年代はじめ頃は、20歳そこそこで死んだ青年たちの遺稿集が多く出版され、筆者も書店で見つけるたびに購入した。樺美智子、岸上大作、奥浩平それに高野悦子などはみな政治運動に参加したことが共通している。
筆者は左翼学生運動には関わらなかったが、大学の正門辺りには「米帝打倒!」や、「狭山事件不当判決糾弾!」などの立て看が置かれており、ヘルメットを被った学生もちらほら見かけた。また黒ヘルを被った学協(全国学生自治体連絡協議会)という民族派の団体に所属する学生もいた。ちなみに、この団体がいまの「日本会議」に人脈的にも組織的にも繋がることを数年前に知った。
筆者の高校の同級生が昭和43(1968)年、世界初の原子力空母エンタープライズの佐世保寄港に反対してデモ隊に加わり、機動隊から脛を蹴られて大ケガをして、筆者の住まいに逃げ込んできたことがある。
その彼が後に、この『二十歳の原点』を読んで、高野悦子がよく通っていたという京都・立命館大学近くのジャズ喫茶「しぁんくれーる」(『二十歳の原点』の表記では「シアンクレール」)に行ってきたとマッチ箱をくれたことがある。まだ引き出しのどこかにあるはずだ。
筆者も音楽にうつつを抜かしながらも、政治意識はあったので、その彼と会うたびによく話しをしたが、徹夜で話をしても最後まで噛み合わなかった。
関川のいう「60年代後半という時代の空気に底流した軽薄な悪意」(P33)という文章を読んで、自分の中でもやもやとしたまま言葉にできなかったその時代の空気感がいまさらだが理解できた気がした。
また昭和の時代といえば、昭和45(1970)年11月の三島事件、47年2月の連合赤軍による浅間山荘事件、同年7月の田中角栄の総理大臣就任、48年の第一次オイルショックによる高度成長経済の破綻、ベストセラーになった「ノストラダムスの大予言」(五島勉著 昭和48年 祥伝社刊)や「日本沈没」(小松左京 昭和48年 光文社刊)、昭和49年8月30日に東京・丸の内で発生した東アジア反日武装戦線「狼」による無差別テロ・三菱重工ビル爆破事件など筆者が高校から大学時代に直接見聞きし、鮮烈な記憶として残っている出来事が多くあった。
関川夏央とは2歳違いで、生まれ育ったところも違うが、同じ昭和の時代を生き、過ごしてきた筆者とのさまざまな共通点をこの本を通じて知ることができ、私たちが通過してきた時代をあらためて追体験できた。
いま、戦後生まれの昭和世代は約7800万人で、わが国人口の63%あまりを占める。
筆者は、己の来し方を振り返りながら、関川のシニカルで鋭い文章を、ほろ苦い同時代史として興味深く読んだ。
最後にひとつ。
関川は、「貨物列車の車掌になりたかった」と書いている(P29)。
筆者は小学生4年生の頃、牛乳配達のアルバイトをしていた。冬のまだほの暗い朝、配達用の頑丈な自転車を降りて踏切の遮断機が開くのを待っていた。その時、長い貨物列車がゆっくりと目の前を通過して行き、最後尾のデッキ付きの車掌室のほの暗い中に制帽を被った車掌が座っているのを見て、なぜか「あの仕事に就きたい」と思ったことを思い出した。
この関川の短いひと言で、60年以上前の光景が目の前に立ち現れ、その時の自分の複雑な思いを辿れただけで、この本を読む価値があった。