『デス・ゾーン』ノート
河野 啓 著
集英社文庫
一般に〝デス・ゾーン〟は標高7500メートル超の領域をいう。酸素は地上の3分の1で、普通であれば即生命の危機に直面する〝死の領域〟だ。
以前にも書いたが、筆者は山岳小説が好きで、特に新田次郎の作品はよく読んだ。
この本もエベレスト(チベット語でチョモランマ、ネパール語でサガルマータ)の写真とそのタイトルに惹かれて、中を開かずに購入した。副題には「栗城史多のエベレスト劇場」とあったが、この人の名前は聞いたことがなかった。
栗城史多(くりきのぶかず)は、1982年北海道生まれ。大学山岳部に入部してから登山を始め、卒業後、プロの登山家になった。登山家としては小柄で、必要な技倆を身につけていたわけではない栗城の〝ウリ〟は、「単独無酸素で七大陸最高峰を目指す!」というものであった。そのことを資金集めのネタにした。
2004年の北米大陸最高峰のマッキンリー(現在名はデナリ〈先住民の言葉で偉大なるもの〉・6190メートル)を皮切りに、七大陸の最高峰の登頂を目指す。それも「無酸素・単独登頂」でだ。しかしこのことについては、著者の河野啓は登山関係者の発言を引いて疑問を呈している。それは、無酸素は別にして、単独登頂の定義が登山界で定まっていない事に起因する。
栗城のパフォーマンスは、山に登る自分の姿を、自ら撮影するというものである。それが彼の山登りの特徴であった。自分にとって、カメラは登山用具の一つとまで言う。登ることももちろん重要であるが、彼にとっては自分の山での姿を撮影するということがより大事なのである。
その後、2005年1月に南米大陸最高峰のアコンカグア(6959メートル)、6月にロシアにあるヨーロッパ最高峰のエルブルース(5642メートル)、10月にはタンザニアのアフリカ最高峰のキリマンジャロ(5895メートル)、大学を卒業した2006年の10月にはニューギニアにあるオセアニア最高峰のカルステンツ・ピラミッド(4884メートル)に登頂を果たす。
その翌年には2度目の挑戦で南極大陸の最高峰ビンソンマシフ(4892メートル)の登頂に成功する。これで残るはエベレストのみであった。
しかし、彼自身が8000メートル級での経験が足りないと思い始め、エベレストの前に、ヒマラヤのチョ・オユー(8201メートル・世界6位の標高)やネパールのマナスル(8163メートル・世界第8位)、ヒマラヤのシシャパンマ(8047メートル。世界14位)、カラコルム山脈にあるブロードピーク(8047メートル・世界12位)の8000メートル峰に登頂を果たしている。
もちろん、海外遠征には多額の資金が必要である。彼には資金調達の指南役がいて、有名企業を含め、多額の資金を出してくれるパトロンがいた。しかしそこから栗城の苦労が始まる。問題企業からの資金提供もあり、いわばその企業の広告塔にならざるをえなかった。またインターネットで生中継を目指したエベレスト登頂の度重なる失敗により、自分自身が掲げた「七大陸最高峰の単独無酸素登頂」といういわば彼自身の言葉のマジックに自分自身が縛られることになる。
彼は〝冒険の共有〟や〝夢の共有〟を掲げ、登山の様子を動画で撮影するなど、従来の登山家のイメージにはとらわれない活動を続け、話題を呼んだが、彼の常識を超えた言動ゆえに毀誉褒貶が常について回った。
当初は、「山と1対1で向き合いたいから単独で登る」から、「冒険の共有や夢の共有」に変わったことについて著者は疑問を呈する。
しかも4回目のエベレスト登頂への挑戦の時に、右手の親指を除くすべての指を凍傷で失うことになる。
栗城は自身からの情報発信にツイッターやブログを使っており、当初はほとんどが賞賛の声であったのが、5回目のエベレスト挑戦で失敗した翌年には、ブログが炎上し、批判的な書き込みが殺到することになる。そこで彼はエベレスト登頂を目指して余計執着するようになる。
彼はこの頃、このような言葉を残している。
「インターネットの登場でもっとわかり合えるフラットな社会ができるのかなと思ったら全く逆の社会を生み出してしまったように思えます。もっと人に優しい社会を」。
インターネットを使って、冒険の共有や夢の共有を目指した彼は、いわばインターネットに裏切られたのである。
著者もテレビマンであり、栗城史多を主人公に番組を作った自分のことを、自戒を込めて、「一人の人物を旬のときだけ持ち上げるのはメディアの性(さが)」と書き、死に追いやったのは自分ではないかと述懐する。
栗城はその後も挑戦を続け、8回目の時に周囲の止めるのも聞かずに、最難関の南西壁ルートを目指し、ついに帰らぬ人となる。2018年5月21日のことであった。享年35歳。
その活動は、彼の死後、NHKスペシャルで「〝冒険の共有〟――栗城史多の見果てぬ夢」(2019年)という題で放映された。