『からだの美』ノート
小川洋子著
文藝春秋刊
小川洋子の本で読んだことがあるのは、『博士の愛した数式』だ。発想に意表を突かれ、数字の面白さに気付かされた本であった。寺尾聰と深津絵里主演の映画も観た。
『からだの美』は120ページ余りのエッセイ集ではあるが、その言わんとする中身には濃い。
人間のからだや動作のことが殆どであるが、全16話あるうち、大はシロナガスクジラの骨格から、動物園のゴリラの背中、小はハダカデバネズミ(空想の動物かとはじめは思った)の皮膚、カタツムリの殻まで取り上げている。
〈外野手の肩〉は、メジャーリーグで大活躍したイチローのレーザービームと名付けられた強肩のことだ。ライトの深いところからホームまで一直線にノーバウンドでキャッチャーミットに収まったボール……唖然とするランナー。強肩とは、体から発せられるあらゆる力の、滑らかで精密な連携であると書く。
「一人の外野手の肩を通し、人々は記憶に刻まれた太古の肉体の美と再会する」のである。
〈棋士の中指〉の主人公は将棋の羽生善治九段。今年3月に藤井聡太六冠と王将戦を戦ったばかりだ。残念ながら敗退したが……。
著者が書くのは、将棋のタイトル戦の静けさである。
「たった九×九の枡目の中になぜ、人間が最高の知力を持って挑んでもまだ解き明かせない謎が潜んでいるのか。不思議としか言いようがない。……(中略)……盤上は大海原や宇宙にたとえられる。……(中略)……彼らは自分をアピールするために将棋を指しているのではなく、与えられた駒を使い、無限の宇宙にあらかじめ刻まれた物語を、読み解こうとしている。人間が全存在を賭けてたどり着ける、未知の一点を目指している。
棋士たちの持つこの謙虚さが、独特の静けさを生み出している。畏怖する存在の前で人はおのずと口をつぐみ、頭を垂れ、言葉の無意味さをかみしめる。静寂の中でしか見出せない真理があることを彼らは示している。」
つい引用が長くなった。
羽生のよく知られる話に、一手もミスも許されない終盤、ぎりぎりの道筋(詰み筋)が見えた時、手が震える。勝ちそうで嬉しい、などという単純な話ではないはずだと著者は言う。
「盤の中心に渦巻く宇宙の摂理と、羽生の指が共鳴する。最強の者だけが味わう恐れが、その指を震わせる」のである。
〈卓球選手の視線〉では、「100メートル走をしながらチェスをするようなもの」と言われるスポーツである卓球の選手を取り上げる。筆者がこの本を読み終えてこの原稿を書いている日(5月1日)に引退を表明した石川佳純選手のサーブを打つ瞬間の写真が掲載されている。
この写真をみて人はこれほどまでに真剣に、一点を見つめることができるのか、心打たれるという。そして、サーブを打つ前、たいていの選手たちはボールを台の上で数回弾ませる。その時の音はなぜか心を落ち着かせる。その音はまるで、「大丈夫です。私はあなたの味方ですよ」と、ボールが選手に語りかけているような気がする。その声が聞きたくて、選手たちはあの仕草をするのかもしれない、と著者はいう。選手がおそらく攻撃のリズムをつくったり、自分の心を落ち着かせるための仕草を、ボールを擬人化して書いているのが面白い。
その次は、〈フィギュアスケーターの首〉――これまた偶然か、石川佳純選手と同じ5月1日に引退を表明した高橋大輔を取り上げている。
アイスダンスに転向していた高橋大輔が競技人生から身を引いたが、そのシングルスケーター時代の彼の氷上での動きに触れ、体のあらゆる部分に表情がある。そして彼が最も魅惑的な動きを見せるのは首だという。
「演技の最中、彼がフェンス際に近寄ると、魂を奪われたように眼を潤ませる観客の姿が、幾人もテレビの画面に映る。観客どころか、IDカードをぶら下げた係員までが、職務を忘れて演技に見とれている。首が一振りされるたび、バタバタと人々の心がなぎ倒されてゆく」――のだ。
〈力士のふくらはぎ〉では、世紀の大誤審ではと言われた昭和47年初場所の8日目、横綱北の富士と関脇貴ノ花(初代)の結びの一番である。その勝負が決まった瞬間の写真が載っている。
立行司の第25代木村庄之助は、貴ノ花の投げが有利と軍配を貴ノ花にあげたが、審判から物言いがつき、貴ノ花は〝死に体〟で、北の富士は〝突き手〟ではなく〝かばい手〟であるとし、行司差し違えで、〝浴びせ倒し〟で北の富士の勝ちとなった。
あらためてYouTubeチャンネルで見ると、貴ノ花がうっちゃりで北の富士が上からのしかかっているように見えるが、一方、貴ノ花はバランスを崩して当然の状況でありながら、信じられないようなバランスを保っており、上にいる北の富士が逆に〝死に体〟に見え、唯一自由に動かせた右手を、自分を守るために出したとしか見えない。それが結果的に貴ノ花を守ろうとしたとは見えるけれども。
この勝負を同時代に観ていたので、つい興奮(笑)してしまったが、直接対決した力士が貴ノ花のことを「膝から下にもう一つの魂が宿っている」と言っていたらしい。
つい、貴ノ花のことで書きすぎて文字数がオーバーしてしまった。そのほかも面白い話がたくさん載っている。
〈ミュージカル俳優の声〉、〈バレリーナの爪先〉、〈文楽人形遣いの腕〉、〈ボート選手の太もも〉、〈ハードル選手の足の裏〉、〈レース編みをする人の指先〉、〈赤ん坊の握りこぶし〉――作者が着眼する究極の肉体や動作、煌めく表情の瞬間を作者独自の眼差しから描いている。
この本に収められた各エッセイは、文藝春秋の2020年9月号から2021年12月号に掲載された。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?