『ウッドストックへの道』ノート
マイケル・ラング著 室矢憲治訳 小学館刊
2021年3月25日
ウッドストックといっても、主人公のチャーリー・ブラウンとその飼い犬のスヌーピーで有名な漫画『ピーナッツ』に出てくる黄色い鳥の名前ではない。
おそらく65歳以上の方で、洋楽好きな方なら名前くらい聞いたことはあるかも知れない。〝ウッドストック〟は、1969年の8月15日(金)から18日(月)の午前中にわたってアメリカ・ニューヨーク州サリバン郡ベセルで行われたロックを中心とした野外ライヴの略称である。正式名称は〝Woodstock Music and Art Festival〟である。
入場者は40万人(この本では50万人とも…正確な人数は誰にもわからない!)を超え、アメリカのカウンターカルチャーを象徴する一大音楽イベント、いや歴史的イベントであったといっても過言ではない。
私は中学生時代にビートルズにかぶれて以来の夢(?)であったロックグループを結成したのは大学に入ってからであった。その頃ロックシーンでは〝ウッドストック〟が刺激になり、多くの本格的ロックグループが誕生した。
私たちはレコード(その頃はCDはおろかカセットテープでさえ珍しかった頃だ)を針がすり減り、レコードの溝が粉を噴くまで聴き、コードをコピーして練習をしていた。その頃はオリジナル通りに演奏することがグループの腕の見せ所、ステイタスで、他のグループがオリジナルと違うコード進行やベースラインを弾いていたら、こいつら聴きが足りないな、なんてことを言っていた。
出演者(グループ)をいくつか挙げれば、有名どころで、ジョーン・バエズ、サンタナ、マウンテン、グレイトフル・デッド、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)、ジャニス・ジョプリン、ザ・フー、ジェファーソン・エアプレイン、ジョー・コッカー、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ(BST)、クロズビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、ジミー・ヘンドリックスなどなど(あくまで私が当時知っていた方々です)、そうそうたるメンバーで、一方、出演を断ったのは、ビートルズ、ドアーズ、レッド・ツェッペリン、ボブ・ディランなどがいた。
この一大イベントを企画したのは当時20代の若者4人で、会社を作って一流のエンジニアやスタッフを揃え、開催に向けスタートを切った。まず開催する場所の確保……マックス・ヤスガーという農場主の600エーカー(1エーカーがほぼサッカーグラウンドに相当する。約72万㎡)という広い土地を借りることができた。PAなど音楽機材はもとより、食料や清潔な水の準備、トイレや救急用のテントなど必要な施設も準備したが、主催者側の想像を超える集まり具合にとても十分とは言えなかった。ヒッピーたちの中にはドラッグを使用するものもいたが、40万人以上集まる3日間以上にわたったフェスティバルとしては、驚くほど平和な祭典となった。途中で嵐が来て大雨が止んだ後も観客が泥滑りで楽しんだり、雨のため演奏する方もアンプの電源に感電しながらだったことなど、出演者やスタッフの苦労話も多く描かれている。
また、最初は反対していた地元の住民も、観客たちの食料が不足していると聞くや、地元の婦人団体や協会関係者などが何千人分もの食べ物を集めてくれて寄付するなど、多数のボランティアに助けられ、〝愛と平和と音楽の3日間〟は無事(?)終わった。この〝ウッドストック・フェスティバル〟の最中に2人の子ども(4人いたという説も)が産まれたという話もある。とにかく開催前から開催中まであっけにとられるエピソードに事欠かない内容である。
最後の日、18日朝になって最後の出演者はジミー・ヘンドリックス、通称ジミヘン(日本の関係者の間だけに通じます)が白いフェンダー・ストラトキャスターをかき鳴らし、数曲演奏した後、アメリカ国歌の「星条旗よ永遠なれ」を弾き始めた。
それまで泥の中で疲れ切って寝転んでいた観客たちは10分の1(それでも4万人!)に減っていたが、この演奏が始まるやいなや、ステージの前に集まり始めたのだ。それもただのアメリカ国歌の演奏ではない。フィードバック、ハウリングとディストーションで、あたりの空気を揺さぶるほどの、それはまさに爆撃(米軍機のベトナム爆撃を象徴)と後に形容されるほどの凄い、そして素晴らしい演奏であった。それはアメリカ国家に忠誠を誓う曲ではなく、この国への喜びと愛のメッセージ、アメリカをズタズタに引き裂いている対立と混沌を理解しようとジミヘンは僕たちに呼びかけていたと筆者は書く。――余計なお世話かも知れないが、いまのアメリカに必要なメッセージかも知れない。
私は〝ウッドストック〟のCD4枚組みと、〝ウッドストック―愛と平和と音楽の3日間〟という映画のLD(今でいうとDVDのようなものだが、大きさがLPレコードくらいあり、おまけに重い)を持っている。当時はまだDVDも出る前で、映画のLD盤が出たと聞いて、これを観るためにだけ高価なLDプレーヤーを買ったのだった。いまでも時々観ることがあり、そのたびに青春の音楽浸りの日々を思い出す。
少々こじつけ気味ですが、木シリーズの6番目でした。