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『昭和陸軍謀略秘史』ノート

岩畔豪雄
日本経済新聞出版社刊
 
 この本は、職業軍人であった岩畔豪雄(いわくろ ひでお)の証言録である。
 岩畔は1897(明治30)年生まれで、陸軍の地方幼年学校、中央幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校という帝国陸軍軍人のエリートコースを歩み、軍歴の最終階級は陸軍少将であった。
 
 岩畔は1919(大正8)年のシベリア出兵が最初の戦場経験で、満州国の経済政策の立案も担当し、南満州鉄道(通称:満鉄)の改組や満州での65社に及ぶ企業の設立などにも携わった。さらには秘密兵器の開発や謀略活動、紙幣偽造、中野学校の設立にも関わり、関東軍参謀や陸軍省軍事課長などを歴任する中で多彩な才能を発揮した。日本が主導する新たな地域秩序の構想を「大東亜共栄圏」と名付けたのも岩畔とその部下であったという。
 また1941年(昭和16年)3月には駐米日本大使館付武官補佐官として渡米し、日米開戦回避交渉やインド独立同盟の樹立やスマトラの軍政にも中心的に関わるなど異能の軍人であった。
 
 当事者の証言であるので、自慢話に聞こえるところもあるが、それもちゃんと断りながら、歴史を裁くつもりで、じぶんを犯人と思って何でも聞いてくれという立場も表明しているのが証言者の姿勢として潔く、証言内容も信用性が高い。自ら関わったことについては正直に淡々と述べ、他の本で「岩畔が関わった」と書かれている点について、自分が関わっていない場合ははっきりと否定する。
 
 岩畔は陸軍という強固な組織の中枢でその欠点を見極めながら、己の才能を発揮し、さらには戦況を冷静に分析していた。自分が関わった上司や同輩・後輩、政治家、さらには明治維新の元勲らに対する冷徹な批評眼、人物月旦が実に明解で面白い。
 
 当時のわが国における最高政策決定機関の連絡会議(総理、外務、大蔵、企画院、陸軍、海軍の各大臣、参謀総長、軍令部総長で構成)の席上、岩畔は主戦論を日米交渉論に転回しうる最後の機会と捉え、自身異常な決意を持ってこの会議に臨んだ下りが興味深い。
 彼は、約1時間半にわたって、日米の工業力や戦力の比較について数字をあげて説明した後、今日の日本として選ぶべき三つの案、すなわち、①対米開戦論、②日米国交回復論、③情勢観望(日和見)論、の利害得失を解説し、さらに進んで日米交渉の見通しと日米交渉を成立させるための条件緩和等について述べたところ、以前は岩畔の話を聞こうともしなかった東条陸相が最も熱心に話を聞いており、いくつかの点について質問した上、岩畔に、「本日の説明を筆記して提出せよ」と命じたのだ。
 そこで翌日そのことについて東条陸相を訪ねると、突然、「お前は近衛歩兵第五連隊長に転出することになったから、昨日命じた筆記は提出しなくともよい」と申し渡され、南方に飛ばされることになり、これまでの全ての努力が水泡に帰したことをしみじみ思い知らされたと書く。しかし、この東条の一夜にしての変心の理由については触れていない。
 
 1936(昭和11)年に二・二六事件が勃発した時には、1931(昭和6)年の「10月事件」と呼ばれる政変未遂事件に対する陸軍首脳部の「精神は良いが行為が悪い」というような態度が遠因となっていると指摘し、精神が良くて行為が悪いということはない。行為が悪ければ、精神も悪いはずだと断言する。この二・二六事件の首謀者や思想的指導者の人となりの捉え方がステロタイプでないのが面白い。
 
 東条英機についてはこのような見方をする。
「東条なんという人は非常にいい人で、あの人は被害者なんですよ。当時の若い幕僚の意見の上に乗っかっただけで被害者ですよ。……中略……東条くらい忠臣はおらんのじゃないですか。
これはしかし小学校の生徒の忠臣なんですね。……中略……みんな、東条というのはお上をないがしろにしたようなことを言うけれども、これは大変な間違いで、お上の言われるとおりにやったわけです」。
 
 日中戦争から太平洋戦争に至る時代について多くの研究書などが出ているが、この本の語り手のように、軍中枢の裏舞台で、世論や感情に流されることなく自らの任務を忠実に全うしてきた軍人のオーラルヒストリーは重要な意味を持つと思う。それは多面的・重層的に歴史を捉えるという意味だけでなく、岩畔の細部にわたる当事者にしかわからない証言が、これまで定説化した出来事に生き生きとした人間の営みの彩りを与え、あるいはそれを覆すものにもなっているからである。

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