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『シベリア追跡』ノート
椎名誠著
集英社文庫
古本屋で書名を見て、羆でも追いかけていく冒険譚かと思って手に取ったら、全く予想を裏切って、歴史的な出来事を追ったルポルタージュであった。
椎名誠は、藤沢周平、沢木耕太郎、原田マハ、河合隼雄らと並んで、ほぼ全作品を読んでいる作家の一人だ。いま手元の特定の著者のブックリストをみると、椎名誠は54冊購入して読んでいる。
このnoteで取り上げた椎名誠の著作は、2021年に『十五少年漂流記への旅―幻の島を探して―』(新潮文庫)と椎名誠と彼の娘さんが翻訳した『十五少年漂流記』(椎名誠・渡辺葉訳 新潮社刊)に続いてこれで3冊目だ。
この本は、江戸後期に生きた大黒屋光太夫という船頭のシベリア横断の軌跡を追うドキュメンタリー映画撮影に同行した椎名誠の眼からみた当時のソ連の実情のルポである。撮影旅行は1985年のゴルバチョフ政権の時代だ。
大黒屋光太夫(1751年〜1828年)は伊勢国亀山領白子村(現在の三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船の船頭であった。
1782(天明2)12月、江戸へ向かった神昌丸という千石船が駿河沖での時化にあって舵を折られ、そのまま17人の船乗りたちとともに8か月間漂流し、日付変更線を越えてアリューシャン列島(当時はアリュート列島と呼ばれ、ロシア領アラスカの一部)のアムチトカ島に漂着した。
そしてアムチトカ島の先住民である日本人に顔立ちがそっくりなアリュート人や、海獣の毛皮収穫のために滞在していたロシア人に助けられ、彼らとともに暮らす中で光太夫らはロシア語を習得した。
彼らが漂着して4年後、ロシア人たちを帰還させるため来島した船がアムチトカ島に到着目前で難破してしまった。皆でなんとかこの島を脱出しようと光太夫らが主導して、難破した船の木材や流木を活用して船を作り、ロシア人とともに島を脱出してカムチャッカ半島に上陸し、その後はオホーツク、ヤクーツクを経由してシベリアを横断し、1789年にイルクーツクに至った。
そこで日本に興味を抱いていた博物学者キリル・ラックスマンと出会い、1791年6月、キリルに随行する形でイルクーツクから6千キロ離れたロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに向かい、ラックスマンらの尽力により、女帝エカテリーナ2世に謁見することができ、帰国を願い出た。
光太夫はエカテリーナに異国での困難で長い漂泊の旅を語り、故国への帰還を訴え、それが認められた。これは実に歴史的な出来事であった。ちなみに、光太夫はロシアの女帝に謁見したただ一人の日本人である。
そして光太夫らは漂流から約9年半後の1792(寛政4)年に根室に戻ってきた。約4万キロの旅であった。帰国するために、エカテリーナはオホーツクで新たに船を建造してくれたが、その船名は「エカテリーナ号」と名付けられた。
光太夫を含め神昌丸で出航した17名のうち、1名はアムチトカ島漂着前に船内で死亡、11名はアムチトカ島やロシア国内で死亡、新蔵と庄蔵の2名がロシア正教に改宗してイルクーツクに残留。帰国できたのは光太夫、磯吉、小市の3名だけであった。
光太夫たちのあまりに数奇な運命に、筆をとられてしまった。
椎名たちのチームは、江戸時代の光太夫たちのシベリア横断と同じコースを、数回にわたって航空機や鉄道で辿った。
想像を絶するシベリアの寒さと、ソ連の交通――遅れるのは当たり前、気候のせいであることは間違いないがそれだけではない――や物流システムの欠陥――基本的に物がない、人間が生きていくために必要なインフラ――簡単にいえば、まったく掃除をした形跡のない公衆トイレや、ホテルなのに便座のないトイレ、錆びたぬるいお湯しか出ないお風呂、設備の故障の放置などの問題、サービスという概念が全くないホテルのフロント係やレストランの無愛想を通り越して怒っているとしか思えない店員――すべて女性、レストランでの鼓膜をつんざく大音量のロックバンドの演奏――高級な店でも例外はない――など、にわかに信じられないような話が随所に出てくる。
今のロシアはどうか知らない。これらは今から約40年前の話である(念のため)。
また大黒屋の足跡を旅するついでに、彼らが見たであろうあちこちの集落(いまは大都市)や人家、住民の生活の様子を取材しようと取材班がカメラを向けても、ホテルの窓から何もない氷原を撮影しようとしても、案内人の女性がダメダメ(ロシア語でニエットなので、取材班はニエットオバサンとあだ名を付けた)とあらゆるところで邪魔をし、理由を聞いても「私が許可した所以外はダメ」と答えが返ってくるだけで、さらにKGB(あとでわかったのだが)の陰険な監視員が同行したまことに窮屈な旅であったようだ。
ただ驚いたのは人種差別が全くないということであった。これはソビエト連邦という多民族国家ゆえであろう。
それにしてもシベリアの寒さは北海道の比ではない。オホーツクの北にあるオイミヤコンでは、「今日はマイナス58度。風速は17メートルだった。風速1メートルにつき体感温度は一度下がるので、あなた方は実感マイナス75度を体験したことになる。外国人がこの地でこの温度の中で仕事をしたのは初めてのことなので、郡議会はその証明書を作成した」といって、郡議会が一人ひとりの名前入りの立派な証明書を発行してくれた。その夜はマイナス69℃まで下がったという。あまりの寒さに雪も降らないそうだ。
このような極寒の地に適応して生活していることを考えると、人間の適応能力はすごいと思わざるをえない。マイナス20度では、気持ち悪いというのだから……。
シベリアの過酷な自然やそこに生きる住民たちの素朴さや気のよさと、ロシア人のガイド(監視員)たちとの落差に驚きつつ、好奇心とユーモアにあふれる椎名誠の文章を読み進めていくうちに何度も声に出して笑ってしまった。
通勤電車の中で読んでいて、笑いそうになったときは、マスクをしていたので、周りには気づかれなかったと思うが、誤魔化すためについ咳払いをしてしまった。
この本の元となったドキュメンタリー『シベリア大紀行―「おろしや国酔夢譚」の世界を行く―』は、前・後編に分かれた実に5時間にわたる大作で、1985(昭和)60年12月2日と3日にTBSで放映された。
残念ながら筆者は観ていない。椎名誠の大ファンで、家にテレビもあったのに、なぜ見逃したのかわからない。
大黒屋光太夫に関する本では、江戸の蘭学者の桂川甫周が、幕命によって光太夫と磯吉から聞き取ってまとめた『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』(岩波文庫)というのがある。約十年に及ぶ漂民体験やロシア帝国の風俗・制度・言語等を驚くべき克明さで記録した第一級の漂流記である。
また光太夫の生涯を描いた長編小説で、のちに映画化もされた『おろしや国酔夢譚』(井上靖、1968年)もあるので、ご興味のある方は読んでみられたらよい。
このルポでも両書はところどころで引用されている。そのほか、小説『大黒屋光太夫』(吉村昭、2003年)がある。