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『「本をつくる」という仕事』ノート

稲泉 連 著
ちくま文庫



 この本は、作家や著作者からいただいた原稿を〝本〟という形にする〝本づくり〟に携わる人々へのインタビューをもとにしたノンフィクションである。

 いまはほとんどがコンピューターデータでの入稿であり、画面上で版下作りまでやってしまうので、写植に較べて効率的になった。とはいっても画面上でその原稿を整理し、幾度かの校正・校閲をしてゲラ刷りを出して、最終的に赤ペンで細かな直しを入れることは変わりない。

 原稿を受け取った編集者の仕事は、まず本の判型をどうするか、文字は縦組か横組か、本文の使用活字の書体と大きさ、字詰・行数・行間・段数・段間をどうするか、ノンブル(ページ数)の書体・大きさ・位置、柱(各ページの上にある章名など)の書体・大きさ・位置などを検討して決めることだ。

 著者の稲泉連は、2011年の東日本大震災のあと、被災した書店を訪ねて回った。

「津波で店舗が流されてなお、残された住所録を頼りに本の配達を続ける書店主がいた。『本屋さん』が一軒もなくなった町で店を始めた人、原発事故の影響で多くの住民が避難した土地で、それでも営業を再開した人がいれば、浸水して膨らんだ本が書棚から抜けなかったときの悔しさを、目に涙を浮かべながら語った書店員もいた」(P10)。

 この著者の体験は、『復興の書店』(小学館 2012年刊)に詳しいが、この時の取材体験が、〝本づくり〟に従事する人々のことをもっと知りたいと思うようになり、この本につながったのである。

 著者は本づくりから読み手にわたるまでの流れを川に譬え、川下にある書店を広大な読者の海と川とが混ざり合う〈汽水域〉と呼び、その川を遡って本づくりの現場へと足を運んで取材している。

 河川は、源流からの水が小さな流れをつくり、あるところでは伏流水となって地表からは見えなくなることもあるが、それらの水が合流して次第に大きな流れとなって、海に注ぎ込む。それはまさに本づくりから読み手に渡るまでの一連の流れそのものであり、分かりやすく素晴らしい譬えだ。

〈第一章 活字は本の声である〉は、ある大手印刷会社の書体づくりの担当者の話である。
 その人は、書体は「声」であり、明るい声もあれば、威厳のある声もあるという。確かにフォントの大きさや種類によって、読んだ時の印象も変わってくる。専門書や小説、童話などで使う書体はそれぞれ自ずと違ってくるだろう。

 また原稿には見出しなどをつけるが、その人は「見出しは大声、本文は静かな声」とも表現している。

〈第二章 ドイツで学んだ製本の技〉では、ドイツにおける職人の職業資格である「製本マイスター」の話だ。日本人でその資格を持つ人は少ない。

 はじめて聞いた話だが、ヨーロッパでは、歴史的に著名な著述家の原稿の活字組版を一部の古本屋が所有していて、その刷り本をごく少部数印刷して売ることがあるそうだ。蔵書家や資産家はその刷り本に表紙をつけ製本するなどして、自分だけの特別な本を作ることがあるという。その需要に応えることができる技術を持った製本職人が地方の小さな文房具屋にもいるというのだ。ヨーロッパの出版・製本文化の歴史の深みを感じる。

〈第三章 六畳の活版印刷屋〉では、活版印刷が、今のコンピューター製版とオフセット印刷からは想像が付かないほどの多くの職人の手間がかかっていることを改めて教えてくれる。

 活版印刷では、鉛でできた活字を拾う「文選」という工程がある。職人の横の活字棚には、直方体の鉛活字がポイントやフォントごとに収められている。

 職人は左手に文選箱と原稿を持つと、ほとんど手元を見ずに活字を拾い、凄まじい速さで文選箱に収めていく。達人ともなれば一日に8千字から1万字を拾うことができたという。

 このあとの工程は植字工の仕事だ。植字は印刷の版面を整える工程で、一つ例を挙げれば、インテル(文字活字の大きさの二分の一などの挟みもの)などを使って、行末をそろえる作業がある。例えば「、」が行頭に来るのはおかしいので、それを調整するために字間を調整する必要がある時に使う。

 文選や植字の現場では、原稿を「読むな」と言われていたそうだ。文章を読んでいたらスピードが遅くなってしまい、仕事にならないからだという。

 ただ、筆者の経験では、植字工のベテランに、校正で気がつかなかった原稿の誤字を指摘されたことが幾度かある。

 活版印刷はいまや名刺や挨拶葉書などの端物の世界で生き残っているが、詩集や俳句集などの私家版でも活版印刷を指定してくることもあるようだ。

〈第四章 校閲はゲラで語る〉は、出版物の価値を高める非常に重要な仕事である校正と校閲の話である。

 校正のまちがいとして例にあげられるのは、『姦淫聖書』と穏やかならぬ名前で呼ばれた聖書を巡る話である。1631年に英国ロンドンのロイヤルプリンターズで出版した欽定訳聖書に、とんでもない誤りがあったのだ。
 出来上がった旧約聖書の「出エジプト記」にあるモーセの十戒の一つ「汝、姦淫するなかれ(Thou shalt not commit adultery)のnotが抜けていたのだ。この聖書は大部分が焼き捨てられ、出版社には罰金が科せられ、出版業免許が取り消されてしまい、校正者には厳しい処分が下されたという。何冊かは廃棄されずどこかの博物館に所蔵されていると他の本に書いてあった。この話にはいろいろ裏があるともいわれているが、真偽のほどはわからない。

 ちなみに校正と校閲は厳密にいえば違う作業だ。校正はゲラ刷りが原稿通りになっているかを確認する作業が主であるが、校閲は単なる誤植を見つけるだけではなく、文章の内容まで踏み込み、事実確認をし、書かれていることや時制に矛盾はないかなどをチェックする作業である。

 編集者の鶴ヶ谷真一は、「校正とは、ひとつの誤りもなく成しとげれば、人に気づかれもせず、誤植という誤りがあれば、ことさら人目にたつという、実に割に合わない仕事である」といっているが、まったくその通りだ。

 これは筆者の経験だが、本が出来上がってから、誤植を見つけたときほど落ち込んで徒労感におそわれることはない。(どうかこの原稿に誤字がありませんように。ありがたいことに定期的に読んでいただいている先輩から即ご指摘があり、即刻修正したことが幾度もある。)

 このあと、〈第五章 すべての本は紙だった〉では、書籍用紙の開発の苦労話、〈第六章 装幀は細部に宿る〉では著名なブックデザイナーの話を伺いながら、本の存在意義について語る。

〈第七章 海外の本の架け橋〉では、翻訳本を世に出す架け橋となるエージェントの存在と活躍の物語が描かれ、「世界の知を日本にどうつなげていけるか」という問題意識の重要性を、ある女性エージェントが語る。

〈第八章 子供の本を大人が書く〉では、『魔女の宅急便』の原作者に大人が子どものために書くことの意味を聞く。

 若い頃、出版業界に身を置いた筆者にとって、実に興味深い内容ばかりであった。

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