「学生三大ローカル駅伝」の概念について考える
今週末、学生三大ローカル駅伝なる概念が提唱されました。
これはどうも、男鹿駅伝、奥球磨駅伝、宮古島駅伝の3つを指しているらしく、出雲駅伝、全日本大学駅伝、箱根駅伝の「学生三大駅伝」と対になる概念らしいです。
この言葉が成立するためには、
三大駅伝を含めないローカル駅伝の概念があるか、
三大駅伝や丹後駅伝(関西版箱根駅伝)よりそれらの大会の方が「大きい」とする概念がある、ということが必要です。
果たしてその概念はあるのでしょうか。
正直、自分の力ではその概念を見つけることはできませんでした。
もしその定義を見つけることができた方がいらっしゃいましたら教えてください。
私は定義をなぜそこまで重視するのか。
それは、私の仕事観と一致しないからです。
スポーツは所詮娯楽ですから、ただ観るだけなら定義は曖昧なままでもいいでしょう。
問題はこの言葉が発信したのが、陸上競技や言葉を仕事として給料をもらっている人間だということです。
(少なくとも監督2名、スポーツ新聞社1社)
仕事というのは、如何に物事を論理的に考えられるか、それを実行できるかによって成果が左右される、と考えています。
論理的に考えるということのなかでは、明確に物事を定義をすることを含みます。
それが曖昧なままでは成果はそれなりになります。
仕事で定義を曖昧にしたまま突き進むことは、課題解決能力が疑問視されることにつながります。
これを新聞記者に置き換えたものが、「記者の質の劣化」です。
これを指導者に置き換えた場合、極端なことをいうと「指導者としての終わり」が近づいていることを示しています。
ただここで大事なのは、表で変なことを言っていても、「裏でしっかりやっていれば結果が出るので別に問題ではない」ということです。
ちゃんと課題解決できているわけですから。
まあ青山学院大学の場合は裏でちゃんとやっていたり、選手が監督から自立して課題解決していたりするので、交代論に直結することはないでしょう。
指導者は、選手がどうしたら速く走ることができるかを考えます。
長距離ランナーにとって速く走るとは、最終的に以下の4つに行き着くと私は考えています。
選手や指導者はこの4つを目標に色々なアプローチをしていきます。
筋トレ、フォーム改造、心肺トレーニングなどなど。
そこで必要となっていくのが課題解決能力です。
選手のどこに改善の余地があり、どのようにアプローチしていくのかを考えます。
課題解決能力が不足していくと変なことばかりやることになってしまい、十分な成果をあげることができません。
成績が低迷し、いずれ監督が交代となります。
「指導者としての終わり」という大袈裟な言い方をしたのはそういうことです。
東海大学ではエースクラスの選手が精神面の不調を理由に退学、そして他校に転入するという事態が発生しました。
今回の報道を通して、起きるべくして起きた事態だったかもしれないと思っています。
そりゃねえ。タイプ合わないですよ。
教訓
日常生活ならまだしも、仕事上でよくわからない概念を勝手に作らない。
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