私を見て欲しかったあの時のこと
息子が小学生になるにあたり、まず大きく変化したことといえば勉強が始まったことだろう。
毎日何かしら宿題が出されているが、ゲームやアニメを見る方が楽しい息子が自主的にやるわけもなく。そうなると親がある程度一緒に勉強をすることとなる。
勉強をしない息子に「勉強しなさい!」とつい口煩く言ってしまうことが増えながら、ふと自分の小学生時代を思い出した。ある時の両親の姿と、口煩く言う自身が重なっているように感じたからだ。
才能がある、と言われ続けた子ども時代
私の両親は教育熱心な方で、幸いなことにたくさんの習い事をさせて貰ったし中学受験のために塾にも通わせてもらった。
ただ私自身はついに習い事や勉強をする意義を見出せないままであった。そのため成績はあまり振るわず、習い事も身になることは無かった。
両親は子どもの成績をいつも気にしており、テストや習い事の過程よりも物事の結果のみで判断をしている節があった。
ピアノの発表会があった際には一度もミスをしなかったか、他のお友達より難しい曲を披露したかを終始気にしていた。塾や学校のテストは満点でなければ叱られる日々だった。
私を叱る際に決まって両親は「あなた(おまえ)は才能がある。」「あなた(おまえ)は出来る子だからもっと真剣にやったら他の子よりも優れている。」と繰り返し口にした。
才能といった漠然とした、自身には感じられないものを言われても正直心には全く響かず、両親の思いに反して私の心はどんどん冷めていった。
小さい子どもにとって親は世界の全てである。両親に見捨てられたら生きていけない。私は他の子と競うような競争心は全くないままであったが、親に捨てられないように、彼らに褒められたい一心で習い事を続けて中学受験に合格した。
中学受験を成功させた事実は両親にとっては非常に喜ばしかったようで、珍しくたくさん褒められた。だが反面私の心は疲弊しきっていた。虚しさすら感じていたように思う。
中学校入学を境に勉強することと習い事を辞めた。どちらも意義が見出せず、正直必要性が分からなくなっていたからだ。彼らにとっての自慢の娘を辞めた瞬間でもあった。
ありもしない才能や結果よりも過程を褒めて欲しかった
息子が産まれ、自分が育児をしていく中で分かったことがある。
私は両親から出来ていないときにも、ただ抱きしめて「がんばったね。」「がんばってるね。」と言って過程を褒めて欲しかったのだと。
まだ見えぬ才能に過剰に期待して、ましてやそれを鼓舞の材料にしたり、物事の結果のみで判断されることが酷く嫌であったのだと。ただただ、私自身を見て欲しかったのだ。
両親には育てて貰ったことへの感謝はしているし、長生きして第二の人生を楽しんで欲しいという気持ちはある。だが、育児においては反面教師な面が多いように思う。
ある時、息子を褒めるときには無意識下で過程を褒めるようにしている自分に気がついた。過度な期待で息子を潰して自分と同じ苦しみを味あわせたくないと思っているのだろう。また、自身がして欲しかった褒め方をすることで、間接的に子ども時代の自分を救っているのだと。
息子にとってそれが最適な育児であるかは分からない。けれども自身のように潰れさせたくはないと強く思う。
しっかりと息子自身を見て、上手くいかなったことも含めてそのがんばりを肯定し続けてあげたい。いつでも味方になって応援し続けてあげたい。
これは親に自分を見てもらえなかったと感じた私が、母親になってから出したひとつの答えである。
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