めがねは人生の断捨離とご褒美の話
めがねを久しぶりに観た。
ふと目に止まった。なんで観たいと思ったのか、ただ目が止まっただけだったのだけど、そういうモノに、必要なメッセージはあるものだ。
観たのは、7〜8年振りくらい。
2007年公開直後、映画館へ行き観たあとも、DVDも買って持っていたので、何度か鑑賞していた。
こんな世の中になって、改めて観たら、いままでで一番しっくりきた、そうそう、これよ、こういうことよ。
映画や本は、その時の状況や年齢で、感じること気づきが全く変わる。
当時は、この俳優さん達最高!海が綺麗!こんなとこ行きたい!携帯繋がらないとこかぁ、不便だけど、なんとなくわかる!くらいだったかな(薄っぺら!)
全てが決まっているわけではない、決めてなくてもいい、良い悪いも、好き嫌いも、その理由も、理由なんてなくてもいい。
全部自分で決められるし、決めるのだ。
ただそうしたかったから、それでよい。
たくさん抱えては、動き出せない。スーツケースも、本もメガネも、もしかしたら、仕事も人間関係も?
それ本当に必要なの?なんでこだわっているの?というコトだらけだった。
40代そんな息苦しさを感じ始めて、どんどん断捨離していった。有形無形、モノ、コト、ヒト、あらゆる全てのシーンで。
そしたら、断捨離しすぎて(ヒトを断捨離なんて酷いわね)友達も恋人もいなくなった!爆
でも、安堵につき始めた自分に気づく。
これからは、縦の繋がりがどんどん和らぎ、横の繋がりの時代と言われている。わかる、それ。
でも、もはや、横の繋がりも、密な年輪の大木と思いきや、バウムクーヘンじゃない?みたいな風景も見受けられる(空洞ってことです)
そう、ただキラキラ光ってて美味しいから食べ散らかすためだけの、真がない横の繋がりは、さよなら、かな。
話は変わり、さくらさんのこと。
公開したのは、2007年秋頃だったか、この頃は、某アパレル店で売り子をしていたのだが、
つい数日前にめがねを観ていた、そのめがねのMさんが事務所の社長さんとお店に立ち寄ってくれた。
他店舗の常連様であることは知っていたが、私のお店にいらっしゃったのは初めてだった。
Mさんは、イタリアのファリエロサルティのストールの色を悩んでいた。なかなかお値段張るストールだが、一生使える、半端なく上質なアイテムだ。
どっちも似合っていたのだ。どちらもお似合いです!と正直にお伝えし、的確な接客ができずにいた。なかなかのお値段だし、ゆっくり選んでもらおうと。
「ねぇ、迷うわね、お値段も高級だから、どうしましょう…」しばらくの時間、選びきれず、鏡の前で、真剣な表情。
そして、ニコーッと、あの笑顔で、
「決めたわ!どっちも好きだから、ふたつとも頂くわ!だって、○○○ー体操、ほんと結構大変だったのよ、アレ!だから、これは頑張った自分へのご褒美でいいわよねぇ?」
この瞬間から、ますます大好きになった、とっても自然で素敵な笑顔だった。
しかも、「自分へのご褒美」というワードの新鮮さ。
自分で自分のご褒美をするという、この台詞がしっくりきて、
大女優さんなのに、プライスに躊躇し、このキュートで控えめなMさんの一コマ(派手な女優さんだったら、値段見ずにバンバン購入する方もいるであろうに)、ワタシは初めて目の当たりにして、衝撃だった。大人の素敵な女性の、自分で、自分へのご褒美。
このエピソードから、13年過ぎた。
今では、ご褒美どんだけしてるのよ?ってくらい、年齢問わず、女性は当たり前に頻繁に使う言葉。ご褒美は、自分を癒すためという言い訳に、日常に出来ていた。
そして、月の店では、あまやかしという言葉がよく飛び交っていた。あまやかしも癒しもご褒美も一緒。ないと困ってしまっていた。
これから、変わりゆく日常で、どんな癒しを求めるのだろうか、モノなのかヒトなのか、コトなのか。最も大切なコトは何か。
そして、この歳になって、十数回目のめがねを、観終わったあとの、爽快感、
ワタシの新たな自由意志は、その、さくらさんのような生き方と存在。