2『春の鳥』作:国木田独歩 解釈

み六蔵の行動を気味が悪く尋常じゃないなどと表現していることから、六蔵の第一印象は不気味であった。不気味な言動の中に子供らしい言動もあったり、無垢な一面が見えて痛ましく感じた。
六蔵が自分で歳を数えたり石垣を登る場面などで発達障害のある子供の突発的で予測できない言動が不気味に感じさせたのだ。
(六蔵の行動を気味の悪いや尋常じゃないなどと表現していることから、)これは、作者が意図的に六蔵の印象を不気味に仕立てているからである。不気味でありながら無邪気で無垢な存在であるから痛ましいと感じさせられるのである。
また、六蔵が烏を追いかけて天主台を駆け降りる場面が、先生が後に想像することになる六蔵の死因に似ているのである。これは、天主台を駆け降りるというのがこの後起きる六蔵の転落死を暗示しているのだ。先生は、この出来事から六蔵の死因の発想を得ているようである。これらは対比の構造である。特に鳥が重要な役割を背負っている。六蔵が鳥に異様な執着があるのが単に鳥が好きなだけではないように推測する。作者が訴えかけている、六蔵の魂の所在は自然にあるという考えが美しいのである。

哀れで無邪気な六蔵を天使と表現した対照的な想像が綺麗だと感じた。
自然に溶け込んで俗歌を歌う様子が主人公には絵画のように写っていた。
六蔵は折々低い声で歌っているが、この場面に限って六蔵の声であると分からないほどに優しい声で歌っていたこと、城跡の上に座り空に届きそうなこと、主人公が六蔵を天使と見る所以である。この場面の時間帯は記されていないが、夕方であると推測できる。それは、日の光が特徴的である時間帯は夕方であるからである。六蔵は目を遠く放って俗歌を歌っていながら夕陽を見つめているのだ。夕日に照らされた少年はまさに天使のようであったと思う。この時点で作者は少年が自然の子であるように思わせるように意図している。ここで六蔵が美しいのは、自然と交わり合っているからである。

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